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2009.02.11 (Wed)

執行!

Matimulog経由。
民事執行法が英語になったとのこと→http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/hourei/data/ceta.pdf

表題の"Civil Execution Act"を見てギョッとする。
「執行(する)」は確かに"execution/execute"だが、何を「執行」するかと言ってまず思い浮かべるのは「死刑執行」なわけで、「民事死刑執行法!?それってどんなリンチ!?」とこの間まで死刑に関連したネタを書いていた頭は連想してしまった(汗)

テーマ : 法律全般 - ジャンル : 政治・経済

01:06  |  日本社会  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.25 (Thu)

法科大学院の規模

法科大学院の定員について、合計4000人程度がいいのではないかとは私も以前書いたが、日弁連も同じ数字を出してきた。
NIKKEI NET(日経ネット):社会ニュース-内外の事件・事故や社会問題から話題のニュースまで
「法科大学院の定員4000人に削減を 日弁連が意見書
日弁連は24日、新司法試験合格率が想定を下回っている法科大学院の入学定員について「充実した少人数教育を実現するには(現在の全国計約5800人から)4000人程度に減少させることが考えられる」とする意見書を公表した。
意見書は「大規模校でも100人規模の削減」を求め、削減の指標として司法試験の合格実績を過度に考慮してはならないと主張。「(定員は)教育の機会均等の理念から、全国に適正配置されることが必要。地方の法科大学院の犠牲の上に削減が進められてはいけない」としている。」
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20081224STXKD038724122008.html
意見書本体はここ


ダークな試算をしてみた。

現状の定員5825人を4000人にするとすると、74校に均等割りすれば24.7…一校当たり約25人の定員削減となる。
08年4月の時点で最も小規模なLSは定員30人なので25人削減だとインパクトが足りないので(*1)、一律30人削減することにする(*2)

現行定員30人の機関から定員30人を削減すると定員が0になるのだが、該当は9校。
これを、本年度(2008年度)の新司法試験の結果に当て嵌めると、該当校出身の合格者(≒かかる定員削減が行われた場合、新司に合格すべきなのにLS教育を受けられないであろう者)は(全2065人の合格者中)32人(約1.55%)となる(*3)

しかしこの計算はちょっとフェアではない。他の(=定員31人以上の)LSへのインパクトを十分に評価していない。そこで
  1. 08年司法試験の実受験者数をベースに(*4)
  2. 定員削減分を新司不合格者が優先して吸収するものとする。つまり
    1. 不合格者数が定員削減分以上の場合には、0
    2. 受験者数が定員削減分よりも少ない場合には、全合格者数を計上する
    3. 定員削減分を不合格者で吸収できなかった場合、吸収できなかった人数を計上する
    定員削減が行われた場合、適性・能力の向かない順にLSに入学できないだろうと想定するわけで、そんなに変な想定でもあるまい。
これに該当する者の数は、合計73人(約3.5%)(*5)
ちなみに1校当たり定員25人削減として同様の計算をすると、合計41人(約1.9%)(*6)


日経(*7)の記事では「大規模校でも」削減としているが、意見書では「大都市の大規模校において」100名規模の大幅な定員削減(4頁)としており、この記事の書き方はちょっと。
「大規模校ほど責任を果たす」として、総定員の削減数を現行の定員に比例配分するとする。現行定員30人の機関で9人の定員削減(*8)、以下同様に50人校で16人、100人校で31人、最大規模の300人校(*9)で94人の定員削減となる(*10)
これに対して前段と同様の計算を行うと、インパクトを受ける人数は合計6名のみ(*11)


意見書は、司法試験の合格者数を基準とする定員削減は「もともと大規模校に有利な」要素だから 定員削減は進まないだろうとする。
卒業生数=受験者数が増えれば合格者数が増えるのは当然だが、それでは合格についてはどうか。新司法試験の結果について、「大規模校ほど責任がある」といえるだろうか。
LS別の08年度新司法試験の合格率(*12)と実受験者数との相関係数を計算すると、+0.608。
LS別の合格率と学生定員との相関係数を計算すると、+0.585。
散布図はこんな感じ:
08新司LS別結果・散布図 (*13)

2006~08年の新司法試験結果を通算してみると、LS別合格率と(のべ)実受験者数との相関係数は、+0.639。
同じくLS別合格率とこの間の学生定員から予定される卒業生数(*14)との相関係数は、+0.642。(*15)
散布図:
06-08新司LS別結果・散布図

LSの規模と新司の結果との間には因果もあるかも知れない。例えば、「受験仲間が多いほど情報交換や勉強会がスムーズにいったりモティベーションを相互に高め合ったりできる」の如く。しかし本エントリではあくまでも相関しか見ていないのには注意。

さて、本当に「大規模校の責任」なのであろうか。
LS教員(及びそれに引き摺られた法学部教員)の不足(*16)指摘されている(というか現場レベルではずっと昔からいわれてきたのがようやっと表に出てきた)わけで、そうするとLSの数が減らない調整はやっても意味がない。

本エントリで指摘した点を知って知らずか、意見書は「定員削減の指標として、司法試験の合格実績を過度に考慮することがあってはならない。指標とされるべきは、あくまでも教育内容のいかんであって、試験の結果はその表 れの1つであるに過ぎない」と書いているのだけれども…それを日弁連が言っちゃあマズい気が。もし試験がLSの「あくまでも教育内容」を適切に反映できないのだとすれば、反映できるような試験を設計すべきなはずで。(*17)
今、日弁連(を含む法曹関係者)に求められているのは、法曹としての適性・能力を明確に定義することではなかろうか。
一連の司法制度改革でそうした作業が皆無だったとはいわないが、極めて抽象的な“題目”"Kanoncanon"に留まっていたように思える。
そうではなくて、具体的に測定可能な程度までにbreak downした上で、その内のどれが試験によって測定可能なのか、どれが教育機関で教育可能なのか、そもそも「試験」や「教育」という回路に馴染むものなのか、選り分けていく作業が必要なように思われる(*18)。さもなければ、いつまで経っても試験によって何が測定されるべきなのか、法学教育によって何が訓練されるのか、定義されない。
逆に、司法試験によって法曹としての適性・能力--の少なくとも重要な部分--を測定できていると考えるのならば--日弁連は新司法試験についてそのように評価していると了解しているが--、法科大学院の定員調整においてもこれが主要な指標となるのはやむを得まい。

【関連】

分母と分子 - アメリカ法観察ノート
法律家の能力 - アメリカ法観察ノート
Faculty Presentation - アメリカ法観察ノート

テーマ : ロースクール(法科大学院) - ジャンル : 学校・教育

22:14  |  日本社会  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.11 (Thu)

労働関係への構えの相違

独自の視点とユーモアあるブログを書かれるちきりん氏が、ロスジェネを中心とする労働問題を軸に労働をめぐる言説を整理している。
ロスジェネ労働の問題とそれをめぐる言説、特にいわゆる左派からの主張に対して持つ違和感については以前から考えていて、いずれ機会があればエントリにしようと思っていたのだが、こう鮮やかに書かれちゃうともう書く必要はないなぁ、と。
そこで考え途中の事項をコメントしてそれに替えることにする。
見解の相違 - Chikirinの日記
意見A
  1. 給与とは、生活費分配ではなく、仕事の成果の対価である。
  2. したがって、誰であれ仕事の対価に見合わない不当に高い給与をもらうのはおかしい。
  3. 労働者は「仕事を通して得られるスキルと経験」を積むことにより、仕事の対価である報酬を増やすことができる。
  4. なんらかの追加的な支出を求める場合、どこからどうやって捻出するのか、ということをセットで考えるのは“責任ある立場の者として”当然である。
意見B
  1. 給与とは、生活必要資金の個人への分配分である。
  2. したがって、仕事の対価に見合う額より大きな額をもらっている人がいても、それがその人の生活に必要な額であるなら、その額は正当な額である。
  3. 労働者がスキルや経験を得て“より生産性の高い労働者”に進化することの利益は必ずしも労働者には還元されない。(得をするのは資本家ばかりだ。)
  4. 自分たちが要求することの財源を、要求する側が考える必要は全くない。それは為政者、経営者、権力者の仕事である。(彼らはそれだけの権限と富を独占している。)
〔引用者注:箇条書きをリストに書き換え、一部を省略した。〕 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20081211
左派(ちきりん氏の整理では「意見B」)の主張に対して「違和感」を感じる、と書いたように、基本的に自分は意見Aの立場であることは明らかにしておく。
意見Aのほうが経済関係のより包括的な記述だと考える。B4の主張は、本当にそれだけの財源があることを指摘しなければ他の主張は空論になるはずだし、にもかかわらずそれをしないとすれば無責任な言説であろう。あえて挑発的な言い方をすればその種の主張は「クレクレ厨」に見えてしまう、というのが自分の持つ「違和感」のコアにある。(*1)
しかし非難するだけでは建設的な批判にならないので、何とかその背景を理解した上で「オレはその立場は採らない」というのが知的に誠実な態度であろう。また、明らかに意見Bの立場には立たないのであるが、本当に意見Aでうまく行くのかについても若干の留保がある。というのが本エントリを書き(その元である思考を巡らせ)始めた趣旨。


ちきりん氏の整理を若干敷衍すると:

<相違点2’>ないし<相違点0>
給与の性質の前提、ないし基本的な構えとして、「これだけ働いたのだからしかるべき分をよこしなさいよ」という意見Bの論者はつきつめていくと、価値について労働価値説的に考えているのかな、というのがあるように思える。
他方、意見Aの論者は基本的に効用価値説的に考えているのではないか。「あなたがofferするものは他者からどれだけ欲されるか」が思考の出発点としてあり、そして労働もその例外として考えない。
つまり古典的なマル経と近経の対抗軸だなぁと。

こう整理してやると、意見Bの論者が「これだけ努力/苦労しているのに報われないのはおかしい」という方向に傾くのに対し、意見A的には「苦労と努力は違う。他者から求められような方向にエネルギーを向けなければ、どんなに汗をかいてもそれが他人から欲されるものでなければ無駄な苦労である」という方向になることも理解しやすい。

また、意見A的には「どれだけ求められるか」が重要であることから、労働問題の解決には総需要を増やすのが先決、という発想になる。意見Aがリフレ派と重なりやすい所以。(*2)

<相違点3’>ないし<相違点5>
企業・会社、ないしこれ(ら)と労働との関係の見方についても、両者は違う見方をする。

意見Aの論者は「自分が労働によって提供したものは、最終的に需要者に到達する」と考える。直接部門の労働者であればこの関係は分かり易いが、間接部門であっても“間接”的には。
もちろん独立自営業に従事していればその関係は明白なわけ(*3)だが、そうでない場合であっても、企業/会社というのは最終需要者へ到達する商品を生産するために必要な諸々のインプットを整序するデバイスとして位置付けられることになる。
もっと平たい言い方をすれば「お客さんの顔が見えている」。たとえ直接に顧客に接しない職種であっても。
こうした発想からは、労働者がもっと頑張って「会社に貢献」することは企業を通じて社会に価値を創出しているものと了解されるし、よって望ましい事柄となる。

意見Bの論者は、もっぱら労働者(=自分)と“会社”との二者関係に着目する。そして労働関係とは両者の間で資源を奪い合う闘争として把握されることになる。顧客という第三者は考慮に入っていないし、協力して価値を創出するという発想にも行かない。(*4)(*5)(*6)

この点の相違はさらに、「市場」それ自体への構えの差にもなってくる。
意見A的には、市場とは需要と供給とを効果的に(*7)結び付けるシステムであり、自らの可能性を広げる淵源であり、要は基本的に「よいもの」である。
他方、意見B的には、市場とは個々人には如何ともし難いという意味で(悪い意味で)所与のものであり、そしてその動かしがたさは(会社を通じて)労働者に抑圧的に迫ってくるもの(*8)として立ち現れる。基本的に「よくないもの」「やばいもの」であり、精々「必要悪」である。意見Bの論者がしばしば市場を「弱肉強食」の世界として描写し、「必然的に」格差をもたらす、と主張することにも通じる。(*9)


他方、労働者への分配の財源の大きさに関する<相違点1>については、ちきりん氏の見解に対して異論がある。
この点、意見Bが資本家から労働者への分配の移転によってパイが膨らむと考えるのに対し、「意見Aの方は、「労働者全体」に回る資金は同額である、という前提のもとで「労働者内でのその資金の分配方法」を問うてい」るとするが、これはちょっと違うと思う。
むしろ(意見Aのほうがより経済エコシステムを幅広く俯瞰していると考えれば)労働への分配は資本コスト等との均衡関係として決まる、という見解として理解すべきように思われる。(資本家から奪うことで?)いくらでも膨らませることができるとは考えていないという点ではちきりん氏の言う通りだろうが、一定の限界がある・無限ではないというだけの話であって、固定的なものと把握する必要はない。

故に、この点の対抗軸は右肩上がりの成長をしている間は隠蔽されることになる。
他方、大きな成長が望めない現時点における具体的な政策対応としても含意があり、それは具体的には例えば内部留保の取扱である。
賃金抑制はもう限界:NBonline(日経ビジネス オンライン)
大企業の内部留保で日本経済が肺炎になる
2008年8月20日 水曜日
竹中 正治
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20080818/168133/
企業が必要以上に内部留保を貯め込んでおり、その結果としてお金の巡りが悪くなって経済がshrinkしているのだとすれば、(税制等によって?)それを吐き出させる方向で政策誘導してやるのがよい、ということになろう(*10)

内部留保を吐き出させるという形で財源全体を膨らませれば、意見Aと意見Bとの相違は表面化しない。
もっとも、(先の記事で竹中氏も指摘しているが、)内部留保を賃金として吐き出すか配当として吐き出すかという違いはあり、ここで初めて「労働者か資本家か」という話になる。
ところで、「資本家」とは誰か、という点も確認しておくべき論点だろう。(*11)
ここで、外国資本を想定すると、「配当を増やす」とは所得が国外へ流出することを意味する(*12)
「機関投資家」とは、銀行や保険会社や年金基金--要するに“庶民”が“お金を預けている”ところなわけである。
日本では「資本家」が見え難い。意見Bの論者が想定するような、“庶民”の生活を脅かす諸悪の根源としての「資本家」は--自然人として(*13)--、本当にいるのであろうか。--たぶんいるのだろう。だとすれば意見Bの主張者が為すべきは、日本における「資本家」を炙り出すことだろう(*14)。しかし実際はそのような作業は行われることなく、「資本家」は「使用者」に、「労資」は「労使」にすり替わるのである。

他方、一般に“マッチョ”な意見Aの論者も、必ずしも「資本家」の視点から語っているわけではないことには注意を要する。むしろ、「勤勉」や「奉仕」といった労働(者)の倫理に立脚した議論を組み立てていることに留意すべきである。つまり、意見Aと意見Bとの相違は「資本家か労働者か」という対立軸ではなく、“労働者”のヴァージョンの相違として把握されるべきである。(*15)
関連して、政策対応との関係でも、意見Aの論者も、労働しない「資本家」にネガティヴなインパクトを及ぼす政策をしばしば支持することに留意すべきである。具体的には例えばフローベース課税の強化よりもストックベース課税の強化を重視することである。(*16)


なお、ちきりん氏のオチは、赤木智弘氏の怨嗟と基本的に同質のものであると了解する。後者を了解できない者は前者も了解できない。

【関連】

で、誰をひっぱたくのか - アメリカ法観察ノート
事物の見え方 - アメリカ法観察ノート
ヴォランティアの成立し得る空間・補論 - アメリカ法観察ノート
大統領選挙:若者の政治参加 - アメリカ法観察ノート
アメリカの裁判官(の給料)とリーガル・サービス市場 - アメリカ法観察ノート

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2008.12.03 (Wed)

ねんきん特別便

だいぶ冷えてきたねぇ。12月でこれくらいということは、年が明けるとさらに冷え込むだろう。
当地は内陸だから、札幌よりも寒さは厳しいだろう。札幌は雪は多いけれども気温はそれほどには冷え込まないからな。


日本ではもう忘れられた話題かも知れないが、ねんきん特別便が日本から転送されてきたので記入して送り返す。

それにしても、ねんきん特別便って事実行為としての「確認」の意味しかないんだよね? 膨大な事務コストをかけて、何やってんだろ、という気にもなる。この回答を最終的なものと「みなす」くらいの法律効果を付与すればまだコストをかけるに値するかも、とか思うかも知れないが。
もっとも、学生生活が長くて、ついでに、破綻することが予定されている賦課方式など愚かな制度以外の何ものでもないと考えているので、免除期間が長いのであるが。

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23:04  |  日本社会  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.03 (Wed)

受験生である前に、高校三年生であって欲しい

受験生である前に、高校三年生であって欲しい
高校三年の最初のホームルームでの、担任となった先生--30になったかならないか位のまだ若い、数学教師--の言葉。
それなりの進学校(もっとも浪人する者も多かったが)のコンテクストで出てきた言葉。このコンテクストで彼は自身の浪人経験にも触れていたし、その際に「もっと浪人生活を楽しめばよかった」という趣旨(と受け取った)も話していた(*1)(机に向かってするという意味での)勉強だけが人生ではないよ、と。味わいある含蓄を伴った言葉として受け取ったし、故に現在でもよく覚えている。


小学校から大学まで、印象的な記憶を残している教師が何人かいる。当人としては何気なく発した言動なのかも知れないが。
そのような師を何人か持てたということは、幸運であったとも思っている。

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