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2009.03.03 (Tue)

権利のための闘争のfield

古典つながりで
「権利は義務を伴う」 - アメリカ法観察ノート
「以前書きかけてそのままになっていたエントリ。
リライトして別エントリの一部/枕にしようとしたのだが、…」
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-1.html
間が開いてしまったのだが、このエントリを枕に書きたかったネタ:

今書いている論文に引用しようかと、イェーリング『権利のための闘争』を送ってもらって読み直した。
『権利のための闘争』
  • 『権利のための闘争』
  • ルドルフ・フォン・イェーリング(著);村上淳一(訳)
  • 岩波書店/岩波文庫・白13-1、1982年(原著1872年)
  • ISBN=9784003401316
今読んでみると(現在の問題関心に照らして?)気付くことがある。つーか全然読めてなかったなー

「権利」の「密度」

このイェーリングの構想は、権利=法=正しさ=Recht(*1)が疎な--まばらな--状況、場、空間を想定していた、ように思える。

どういうことかというと、先のエントリで書いたように、「原告が勝訴する=原告に権利がある=被告に義務がある」ということなわけであるが;
イェーリングの議論では、これはさらに、原告は「正」である、被告は権利侵害者であり、「不正」である、ということになる。
その上で彼は、権利侵害に対する矯正措置を発動させないことで「不正」を放置し、すなわち「正しき」ことを為さぬ権利者=潜在的原告はダメだ(*2)、そんなのがはびこるようでは国家社会全体がダメになる、というのが議論の骨子なわけだが;

自分が引っ掛かったのは、敗訴被告=権利侵害者=不正という図式は当然であろうか、ということ。
むしろ、現代型の紛争状況では、被告(とされた側)にもそれなりの言い分があり、その言い分もそれなりの正当性を伴っている場合も少なからずあると言えるのではないか。(*3)
この被告の言い分を仮に「権利」としてrecognizeするとすれば、「勝訴=権利あり=原告の正=被告の不正」というイェーリングの想定とは異なり、現代型訴訟は権利と権利との調整としての性格のほうが重要ではないのか。

「被告の側にもそれなり酌むべき“権利”があるのでは」という想定とは異なり、もっぱら原稿の側の「権利」の有無のみを問う点で、「権利」の充ち満ちている現代とは異なる状況を、イェーリングは想定したのでのではないか、というのが「疎らな」の意。

刑事法の位置付け

もう数点所見を追加。
終盤のほうで、「刑事法を議論の射程に置いていないのは的外れだ、という批判は的外れだ、というのも自分は『現代ローマ法』(*4)について議論しているから」という反論をしているが、私見からは反論として必ずしも成功していないような。

(現代アメリカにおける)懲罰的賠償に関する議論においては、"de-coupling"という議論がなされることがある。
懲罰的賠償に関するある種の議論においては、(潜在的)被告による違法行為の抑止を最適化するために、懲罰的賠償=填補賠償を超えた賠償を認めるのだ、とされる。
ところで、原告に訴訟を提起・遂行するインセンティヴを与える機能があるということもよく言われるが、あんまり与えるとオーバーインセンティヴにもなり得る。
(潜在的)被告に対する抑止のためにはそれなりの大きさを伴った金額$$$の懲罰的賠償を課すべきだが、勝訴原告に$$$を与えると与え過ぎになる。
じゃあどうすればよいかとなれば、勝訴原告に$$$を保持させるのが問題なのだから、そうさせない、被告が支払う額と原告が得る額とを切り離(decouple)せばいいのでは、ということで、具体的には懲罰的賠償の一部$を政府の財政に組み込む等するようにする立法例がある。

で。私自身はドグマティッシュな民刑峻別論に立たないものの、大陸的な民刑分離論というのは、ある種そうしたdecouplingと了解することも可能なのでは、とも思っている。
そういう観点からすると、「現代ローマ法≒民法のみを語っているのであって刑法は関係ない」というのは反論として成功していないのではないかと。

〈法〉のintegrityと私人による法の実現

村上先生の解説によると、イェーリングの議論で想定されている「権利」は議会制定法から引き出されることが予定されている(*5)
が、私の想定する〈私人による法の実現〉はもっとdiverseなものを念頭に置いている。ので、論文に引用するのはやめにすることにする。

【More・・・】

*1 =(笑)
*2 そしてこのような態度を助長する権利=利益説もダメだ、と。
*3 例えば、著作権侵害に対するフェアユースの抗弁なんかを念頭に置いている。あるいは人格権たる名誉と言論の自由、とか。
*4 当時における。「≒民法」と読み替えることもできるだろうか。
*5 もうちょっとニュアンスのある書き方をしていた気もするが、確認しようにも本を片付けてしまった。
こちらは未読。。。orz
『「権利のための闘争」を読む』
  • 『「権利のための闘争」を読む』
  • 村上淳一(著)
  • 岩波書店/岩波セミナーブックス、1983年
  • ISBN=9784000048743
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テーマ : 法律全般 - ジャンル : 政治・経済

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2009/03/11(水) 01:58:24 | Law Office of FLORENCE ROSTAMI-GOURAN BLOG

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