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2008.12.11 (Thu)

労働関係への構えの相違

独自の視点とユーモアあるブログを書かれるちきりん氏が、ロスジェネを中心とする労働問題を軸に労働をめぐる言説を整理している。
ロスジェネ労働の問題とそれをめぐる言説、特にいわゆる左派からの主張に対して持つ違和感については以前から考えていて、いずれ機会があればエントリにしようと思っていたのだが、こう鮮やかに書かれちゃうともう書く必要はないなぁ、と。
そこで考え途中の事項をコメントしてそれに替えることにする。
見解の相違 - Chikirinの日記
意見A
  1. 給与とは、生活費分配ではなく、仕事の成果の対価である。
  2. したがって、誰であれ仕事の対価に見合わない不当に高い給与をもらうのはおかしい。
  3. 労働者は「仕事を通して得られるスキルと経験」を積むことにより、仕事の対価である報酬を増やすことができる。
  4. なんらかの追加的な支出を求める場合、どこからどうやって捻出するのか、ということをセットで考えるのは“責任ある立場の者として”当然である。
意見B
  1. 給与とは、生活必要資金の個人への分配分である。
  2. したがって、仕事の対価に見合う額より大きな額をもらっている人がいても、それがその人の生活に必要な額であるなら、その額は正当な額である。
  3. 労働者がスキルや経験を得て“より生産性の高い労働者”に進化することの利益は必ずしも労働者には還元されない。(得をするのは資本家ばかりだ。)
  4. 自分たちが要求することの財源を、要求する側が考える必要は全くない。それは為政者、経営者、権力者の仕事である。(彼らはそれだけの権限と富を独占している。)
〔引用者注:箇条書きをリストに書き換え、一部を省略した。〕 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20081211
左派(ちきりん氏の整理では「意見B」)の主張に対して「違和感」を感じる、と書いたように、基本的に自分は意見Aの立場であることは明らかにしておく。
意見Aのほうが経済関係のより包括的な記述だと考える。B4の主張は、本当にそれだけの財源があることを指摘しなければ他の主張は空論になるはずだし、にもかかわらずそれをしないとすれば無責任な言説であろう。あえて挑発的な言い方をすればその種の主張は「クレクレ厨」に見えてしまう、というのが自分の持つ「違和感」のコアにある。(*1)
しかし非難するだけでは建設的な批判にならないので、何とかその背景を理解した上で「オレはその立場は採らない」というのが知的に誠実な態度であろう。また、明らかに意見Bの立場には立たないのであるが、本当に意見Aでうまく行くのかについても若干の留保がある。というのが本エントリを書き(その元である思考を巡らせ)始めた趣旨。


ちきりん氏の整理を若干敷衍すると:

<相違点2’>ないし<相違点0>
給与の性質の前提、ないし基本的な構えとして、「これだけ働いたのだからしかるべき分をよこしなさいよ」という意見Bの論者はつきつめていくと、価値について労働価値説的に考えているのかな、というのがあるように思える。
他方、意見Aの論者は基本的に効用価値説的に考えているのではないか。「あなたがofferするものは他者からどれだけ欲されるか」が思考の出発点としてあり、そして労働もその例外として考えない。
つまり古典的なマル経と近経の対抗軸だなぁと。

こう整理してやると、意見Bの論者が「これだけ努力/苦労しているのに報われないのはおかしい」という方向に傾くのに対し、意見A的には「苦労と努力は違う。他者から求められような方向にエネルギーを向けなければ、どんなに汗をかいてもそれが他人から欲されるものでなければ無駄な苦労である」という方向になることも理解しやすい。

また、意見A的には「どれだけ求められるか」が重要であることから、労働問題の解決には総需要を増やすのが先決、という発想になる。意見Aがリフレ派と重なりやすい所以。(*2)

<相違点3’>ないし<相違点5>
企業・会社、ないしこれ(ら)と労働との関係の見方についても、両者は違う見方をする。

意見Aの論者は「自分が労働によって提供したものは、最終的に需要者に到達する」と考える。直接部門の労働者であればこの関係は分かり易いが、間接部門であっても“間接”的には。
もちろん独立自営業に従事していればその関係は明白なわけ(*3)だが、そうでない場合であっても、企業/会社というのは最終需要者へ到達する商品を生産するために必要な諸々のインプットを整序するデバイスとして位置付けられることになる。
もっと平たい言い方をすれば「お客さんの顔が見えている」。たとえ直接に顧客に接しない職種であっても。
こうした発想からは、労働者がもっと頑張って「会社に貢献」することは企業を通じて社会に価値を創出しているものと了解されるし、よって望ましい事柄となる。

意見Bの論者は、もっぱら労働者(=自分)と“会社”との二者関係に着目する。そして労働関係とは両者の間で資源を奪い合う闘争として把握されることになる。顧客という第三者は考慮に入っていないし、協力して価値を創出するという発想にも行かない。(*4)(*5)(*6)

この点の相違はさらに、「市場」それ自体への構えの差にもなってくる。
意見A的には、市場とは需要と供給とを効果的に(*7)結び付けるシステムであり、自らの可能性を広げる淵源であり、要は基本的に「よいもの」である。
他方、意見B的には、市場とは個々人には如何ともし難いという意味で(悪い意味で)所与のものであり、そしてその動かしがたさは(会社を通じて)労働者に抑圧的に迫ってくるもの(*8)として立ち現れる。基本的に「よくないもの」「やばいもの」であり、精々「必要悪」である。意見Bの論者がしばしば市場を「弱肉強食」の世界として描写し、「必然的に」格差をもたらす、と主張することにも通じる。(*9)


他方、労働者への分配の財源の大きさに関する<相違点1>については、ちきりん氏の見解に対して異論がある。
この点、意見Bが資本家から労働者への分配の移転によってパイが膨らむと考えるのに対し、「意見Aの方は、「労働者全体」に回る資金は同額である、という前提のもとで「労働者内でのその資金の分配方法」を問うてい」るとするが、これはちょっと違うと思う。
むしろ(意見Aのほうがより経済エコシステムを幅広く俯瞰していると考えれば)労働への分配は資本コスト等との均衡関係として決まる、という見解として理解すべきように思われる。(資本家から奪うことで?)いくらでも膨らませることができるとは考えていないという点ではちきりん氏の言う通りだろうが、一定の限界がある・無限ではないというだけの話であって、固定的なものと把握する必要はない。

故に、この点の対抗軸は右肩上がりの成長をしている間は隠蔽されることになる。
他方、大きな成長が望めない現時点における具体的な政策対応としても含意があり、それは具体的には例えば内部留保の取扱である。
賃金抑制はもう限界:NBonline(日経ビジネス オンライン)
大企業の内部留保で日本経済が肺炎になる
2008年8月20日 水曜日
竹中 正治
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20080818/168133/
企業が必要以上に内部留保を貯め込んでおり、その結果としてお金の巡りが悪くなって経済がshrinkしているのだとすれば、(税制等によって?)それを吐き出させる方向で政策誘導してやるのがよい、ということになろう(*10)

内部留保を吐き出させるという形で財源全体を膨らませれば、意見Aと意見Bとの相違は表面化しない。
もっとも、(先の記事で竹中氏も指摘しているが、)内部留保を賃金として吐き出すか配当として吐き出すかという違いはあり、ここで初めて「労働者か資本家か」という話になる。
ところで、「資本家」とは誰か、という点も確認しておくべき論点だろう。(*11)
ここで、外国資本を想定すると、「配当を増やす」とは所得が国外へ流出することを意味する(*12)
「機関投資家」とは、銀行や保険会社や年金基金--要するに“庶民”が“お金を預けている”ところなわけである。
日本では「資本家」が見え難い。意見Bの論者が想定するような、“庶民”の生活を脅かす諸悪の根源としての「資本家」は--自然人として(*13)--、本当にいるのであろうか。--たぶんいるのだろう。だとすれば意見Bの主張者が為すべきは、日本における「資本家」を炙り出すことだろう(*14)。しかし実際はそのような作業は行われることなく、「資本家」は「使用者」に、「労資」は「労使」にすり替わるのである。

他方、一般に“マッチョ”な意見Aの論者も、必ずしも「資本家」の視点から語っているわけではないことには注意を要する。むしろ、「勤勉」や「奉仕」といった労働(者)の倫理に立脚した議論を組み立てていることに留意すべきである。つまり、意見Aと意見Bとの相違は「資本家か労働者か」という対立軸ではなく、“労働者”のヴァージョンの相違として把握されるべきである。(*15)
関連して、政策対応との関係でも、意見Aの論者も、労働しない「資本家」にネガティヴなインパクトを及ぼす政策をしばしば支持することに留意すべきである。具体的には例えばフローベース課税の強化よりもストックベース課税の強化を重視することである。(*16)


なお、ちきりん氏のオチは、赤木智弘氏の怨嗟と基本的に同質のものであると了解する。後者を了解できない者は前者も了解できない。

【関連】

で、誰をひっぱたくのか - アメリカ法観察ノート
事物の見え方 - アメリカ法観察ノート
ヴォランティアの成立し得る空間・補論 - アメリカ法観察ノート
大統領選挙:若者の政治参加 - アメリカ法観察ノート
アメリカの裁判官(の給料)とリーガル・サービス市場 - アメリカ法観察ノート

【More・・・】

*1 なお、ちきりん氏は意見Aの論者を「権力者側」に近い発想、Bの人を「権力者と対峙する立場に自分をおいている」としている。そのようなcharacterizationも可能であろうが、自分はむしろ、Bは自らに関係した部分利益しか考えないのに対し、Aは経済エコシステムをより包括的に視野に収めるという態度だと考える。
*2 自分としては、総需要が大事、という点には賛成するのだが、リフレによってそれが解決するかについては(十分に評価する能力がないのだが)やや懐疑的。
*3
ロスジェネは共闘できる - 雑種路線でいこう
「取っ払いで対価を受け取りたければ独立すべき」
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20081212/lg
*4 この段最初で「企業」と書かずに「“会社”」と書いたのも、意見B的にはその“会社”がどのマーケットで製品を売っていようが関係ないからである。
*5 この相違はアーレント辺りを使ってやるともっと厳密に議論できるのだろうが、生憎自分にはその素養がない。
*6 少し前の話であるが、fromdusktildawn氏の
経営がわかっている労働者と、わかってない労働者の格差が拡大していく理由 - 分裂勘違い君劇場
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080803/p1
に対して賛否が分かれたのも、この軸での見解の相違を示す試金石であったように思う。(議論の運び方には賛成しない部分もあるが、)fromdusktildawn氏のここでの主張はこの軸での意見Aを述べたものであると解釈可能であろう。
意見Aの立場に立つと、雇用者と協調的に振る舞うにもかかわらず、何を“売って”稼ぐことができるかが見えるから自らの“ウリ”を見極めて転職することも直接需要者にアクセスするために独立することも易いのに対し、意見B的発想だと雇用者と対立的になるにもかかわらずその雇用者にしがみつかなければならない逆説。
【2008/12/12 22:06追記】
*7 ここではあえて「効率的」とは書いていない。
*8 あるいは、“会社”に対して労働者を抑圧するための口実を与えるもの。
*9 さらにこの点を敷衍すると山岸先生のいう「信頼」と「安心」の相違とも連なっていくと考える。「安心」の言説は意見Bと親和的なように見受けられるが、本エントリでは立ち入らない。
『安心社会から信頼社会へ』
  • 『安心社会から信頼社会へ--日本型システムの行方』
  • 山岸俊男(著)
  • 中央公論新社/中公新書、1999年
  • ISBN=9784121014795
『信頼の構造』
  • 『信頼の構造--こころと社会の進化ゲーム』
  • 山岸俊男(著)
  • 東京大学出版会、1998年
  • ISBN=9784130111089
この側面も自分が意見Bに対して持つ「違和感」の所以である。
*10 会社法における合併規制の規制緩和も、内部留保を貯め込むと買収のリスクが高まるという点で、これを防ぐ意味合いがあるはずなのだが…評判悪いね、財界からも(笑)
*11 なお、元々日本は株主への配当性向の低い企業風土を持っているということにも留意。つまり、資本家には分配されていない!
*12 但し、実際には日本の資本収支は黒字である。主として大企業の海外子会社からの来るものであろうと思われる。
*13 ここで「自然人として」と留保して法人を除いたのは、(意見A的な発想になるが)法人とはお金のパイプに過ぎないと想定できるから、「資本家」たる「法人」に分配が為されても、いずれ流れていくだろうと想定できるからである。他方、この流れが悪くなっているとすれば、前述の内部留保の問題とパラレルな政策誘導によって対応が可能であろう。
*14 この関連で、当局が“長者番付”を発表しなくなったのは日本における「資本家」の不可視化に重要な意味があると考えているし、故に悪しき政策変更であったと考えている。
*15 この点も先に、意見Aを「権力者」の視点としてcharacterizeすることに異論を示した所以。
*16 Dan Kogai氏が相続税強化を主張するのは象徴的であろう。
404 Blog Not Found:Conscienceは良心ではない - 書評 - 格差はつくられた
「フラット化の時代、フローに対する重税は不利である。……
私は、所得税の心理的Maxは、50%だと考えている。これを越えると「オレがやった感」が失われてしまうのだ。たとえそれが事実だとしても、「結局おまえが儲けたのは国のおかげであっておまえの才覚ではない」といわれてしまえば萎えてしまう。「半分以上はオレの功績」ということにしておかなければ駄目なのだ。
その代わり、相続税という形で使い切れなかった分を「返して」もらえばいい。その方がずっと徴税コストも低く、そして税収も大きい。」
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51069610.html
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テーマ : 政治・経済・時事問題 - ジャンル : 政治・経済

22:02  |  日本社会  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

的はずれなコメントかもしれませんが、最近、労働法の論文を読む機会が多かったので、少し感想めいたものを・・・

会社法の人間が労働法の論文を読むと、どうも議論が噛み合わないなぁと、つくづく思ってました。
当然、見る方向が違うから、と思いながら読んでいたんですが、労働法の論文の殆どは、先生の仰ってる「労使」対立構造で把握されていて、「労資」対立構造ではない点が大きな違いなのかなぁと、このエントリーを読んで感じました。

自分も意見Aのような考え方を知らず知らずのうちにしていて、比較的意見Bのような考え方をする労働法の論文を読むと、変な感覚にとらわれてしまっていたのでは、と考えながらこのエントリーを読みました。

ところで、ちょっと話は変わりますが、fromdusktildawn氏の「経営がわかっている労働者と、わかってない労働者の格差が拡大していく理由 - 分裂勘違い君劇場」のエントリーも読みましたが、つくづくドラッカーが多くの文献で「エグゼクティブ(executive)」の重要性を説き、あえて「manager」ではなく、「executive」という表現を使うことの意味を改めて感じました。
(そうすると、ダイヤモンド社の「経営者の条件(The Perfect Executive)」という訳は微妙なんですかね(笑))
みなみけ |  2008年12月13日(土) 13:13 |  URL |  【コメント編集】

私も意見A的に考えるわけですが、しかしだからと言って現状の富の分配状態を無限定に追認するつもりもない。経済効率からも他の規範論的観点からも negativeに評価できる富のカタマリがあればそれを突き崩していく--誘導的政策によってかより強権的にかという選択肢はあるにせよ--後者の代表が戦後の財閥解体や農地解放ですね--ということは構想し得るし、その意味で「他から持って来い」という意見Bの結論の一部には同調できる。エントリ中では会社の内部留保を例に挙げましたが、政府の“埋蔵金”などというのも同様の発想でしょう。
問題は「それで全部足りるのか?」ということで、足りないのでは、既に日本経済は日本人全員を養うことができないのでは--少なくとも現在の平均的生活水準を維持しようとするのならば--という絶望が、ある。


私が意見A的な構えを執る理由の一つでもありますが、意見A的な思考は基本的に、どの欲望も肯定した上で、それを組み合わせていったときに合成の誤謬が生じていないか、むしろシナジーを生み出すにはどうしたらよいのか、というシステム的な方向で考えます。問題があるとしても特定のアクターの“悪意”の所為にしない、むしろ誰もが善意であるいは許された行動を執っていながら問題が発生してしまう、強いて言えば「みんなちょっとずつ悪い」。
意見B的な思考というのは、世の中のどこかに“諸悪の根源”を見出したがっている、そんな発想をしているように思えます。それは古典的には「資本家」になるわけですが、資本家が不可視化されている(*)日本のコンテクストにおいて「資本家」を“諸悪の根源”だと言ってみてもリアリティがない。そこら辺りが、「使用者=企業」や「政府」の“責任”を言挙げする理由なのであろう、と踏んでいます。

* もっとも資本家不在ということはないだろうと想定はできるので、「100%資産からの収益に依存している人」を炙り出す可能性はエントリでも書いていますが。
ところで「100%資産からの収益に依存している人」とは「アパートの家賃収入に依存しているお婆さん」かも知れません。後述。

どの欲望も基本的に肯定する意見A説に立つ者からすると意見B説は片手落ちに見えるとはエントリにも書きましたが;
そうした欲望の幾つかを「それはニセモノだ」「まやかしだ」と規定することで構想の範囲から追い出して、意見Bワールドで理論を完結するための概念装置が「物象化」とかなのかなぁ、と想定してしまいます。


エントリでは「“労働者”のヴァージョンの相違」と書いてしまったのですが、歴史のスパンをもう少し長くとるとやや不正確な表現かも知れません。むしろ「勤勉」「奉仕」「創造性」といったvirtueは「中産階級」のものとされるかと。
ところで面白いのは「中産階級」とは英仏語では"bourgeois"なわけで(**)、ところが日本語の「ブルジョワ」とは「金持ち」と同義になる。

** と、学部時代の教養の英語の先生が言っていた。

その上で、ということですが、本当に「100%の労働者」と「100%の資本家」を想定した上でその間の“階級対立”を考えることが生産的なのだろうか、というのも意見B説に与しない理由です。
むしろ、ある人はある部分は労働者で、ある部分は消費者で、ある部分は資本家で、と想定したほうがリアルなのではないか(***)。
エントリで「機関投資家」としての「年金基金」の例を挙げたのはそうした意図もあります。より単純に親戚や友人など私の周囲の人は一定の年齢--30前後--になると株式投資を始めています(****)。あるいは当地で会う人と話すと「秋以来の株式市場の下落で年金の積み立てがウン十%なくなったよ」というのは日常よくある話題です。
竹内昭夫先生が『法の実現における私人の役割』の中で「日本ではしばしば、商法は体制的、消費者法は反体制的、それを1人の人間がやるというのはどういうことだといわんばかりの顔をされます(笑)……そんなことをいえば、証券取引法というのは、まさに証券取引の分野における消費者保護法です」と仰っています。大衆が「ちょっとだけ資本家」だからこそ証券取引法が必要だとされているわけで、よく読まれているはずの本の教えが知られていないというのは如何なものだろうか、とも思うのです。

*** もちろん、ある部分は市民で、ある部分は家庭人で、ある部分は友人だったりもするでしょう。
**** ひょっとすると、私の周囲の人々は一定の傾向に偏っている、かも知れません。そう考えると逆に、「投資を始めない人が投資を始めないのは、何故か」という問いも成立し得ます。すぐに思い付く答は「投資するほどの蓄えがないから」ですが、この回答の有効性は、仮に蓄えがあったとすれば投資する、かどうかでテストされます。むしろ逆に「投資も選択肢の一つとして念頭に置いて行動するような、経済的行動に対する鋭敏さがないから、蓄えも貯まらない」という仮説も成立するでしょう。


ドラッカーはちゃんと読んだことないんですよね(汗) 帰ったら読もう。
IZW134 |  2008年12月16日(火) 15:31 |  URL |  【コメント編集】

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