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2008.11.28 (Fri)

【書評】藤田政博『司法への市民参加の可能性』

裁判員候補通知が発送されたということで;
本自体はずっと以前に頂いていたのですが、コメントしていませんでした。
何かの間違いで選挙になって民主党が「裁判員制度実施停止」とか言い出して大勝しちゃったりすると時機を失してしまいますので、今の内に。

『司法への市民参加の可能性』
  • 『司法への市民参加の可能性--日本の陪審制度・裁判員制度の実証的研究』
  • 藤田政博(著)
  • 有斐閣、2008年
  • ISBN=9784641125247
本書は大きく2部に分かれる。
第1部 日本の陪審制度と市民参加の意義―導入から議論停止まで
  1. 第1章 日本の陪審導入過程の概観
  2. 第2章 成立した陪審制度
  3. 第3章 陪審法の停止
第2部 実証研究
  1. 第1章 問題の設定と分析の視角
  2. 第2章 日本人の「国民性」と裁判員制度
  3. 第3章 評議における発言の分析と協働の可能性の検討
  4. 第4章 評議体の構成と意思集約方法の問題--模擬裁判における調査による検討
  5. 第5章 総合考察--まとめと裁判員制度への示唆
終わりに
前半の第1部は、戦前日本に存在した陪審制度について、導入の経緯・制度自体の解説・運用の実際に関する歴史に関する記述である。
後半の第2部は、「司法への市民参加」に関する社会心理学実験・社会調査に基づき、その報告と分析がなされている。

著者の専門は法社会学・法と心理学であり、本書の叙述も実証的報告がメインである。従って、原データへアクセスしていない読者としては「勉強になりました」という以上のコメントはし難いわけであるが、しかしそれではあんまりなのでもうちょっと書いてみる。


歴史叙述のスタイル
著者の本来の専門は第2部に関連する分野であるが、第1部の歴史研究においてもその記述は極めて実証性が高い。法典編纂期から始めて、一次史料を丹念に掘り起こした叙述となっている。
その意味で「当時からそんなことを言っていた人がいたんだ」という側面への説得力は高いものの、史料それ自体に語らせていく論述スタイルはやや平板な印象も持った。導入に当たっての転換点はどこだったのか、そのdriving forceは何であったのか、といった点の解釈(=construction=構築)について、もっと踏み込むこともできたのではなかろうか。もっとも、それはhistorianの仕事であって、実証性を旨とするdisciplineから著者が意識的に選択した論述戦略であろう、ということも了解できるのであって、無い物ねだりではある。

陪審員の経験
さらに著者の歴史叙述は戦前の陪審制度の運用の実際に展開していくわけであるが、ここでやはり決定的に物足りないのは実際に陪審員を務めた当の市民の声が含まれていないことであろう。
これだけ裁判員制度の導入が騒ぎになって、それに対する市民の反対・抵抗論のコアが要は「オレはやりたくない」という点にある(*1)のだとすれば、「実際に日本でも陪審制をやっていたことがある」というだけでは不十分で、加えてその経験者の声、「大したことなかった」「何とかなった」あるいは「やっぱり厳しかった」というのが欲しい。無論この点は著者も意識しており、陪審(員)に接した法曹の報告という形で間接的に陪審員の様子が記述されているが、隔靴掻痒の感は否めない。史料的な制約であって(*2)(*3)、歴史研究としては如何ともし難い点ではあるのだが。

陪審説示
法律論から興味深かった点の一つが、事実認定と法律問題との切り分け/接点に関して、『陪審問書集』等に依拠する記述(136頁~)である。
両者を切り分けるデバイスとしての陪審説示の重要性はアメリカにおいても重視されているところである。ただ、アメリカの場合、説示をどうするかは陪審制それ自体の問いというよりは、問題となっている法律の各論的問題として位置付けられているように思える。そのような観点からすると、こうした具体的な陪審説示は刑法各論の問題として興味深い問いとして立ち現れてくるはずである。刑法学者はそのような作業をしていたのだろうか。裁判員制度に関連して今後なしていくであろうか。
また、アメリカでは、標準説示集を作成したり、具体的な事件との関係では両当事者の弁護士に原案を提出させる形で手続的な保護をなしていたりするわけであるが、そのような配慮があったのか、というのも気になる。

他の経験
もう一つ、「これもあっていいのでは」というのがあって、本書中では日本における「司法への市民参加」の経験としては専ら戦前の陪審員制度が論じられているわけだが、「日本における司法への市民参加の経験」は戦前の陪審制度に限定されない。
米国統治下の沖縄においては陪審制度が運用されていたし(*4)、あるいは日本国憲法下でも検察審査会制度はしばしば言及される。近時、検察審査会の権限は形式的にも実際上の検察による尊重という意味でも拡張傾向にあり、検察審査会経験者もその経験をポジティヴに捉えているとされる(*5)
また、時期的にもより最近(*6)の点であることも鑑みると、実際の経験者の声へのアクセスも容易である。(守秘義務の関連上、調査手続・方法・内容にはsensibilityが要求されるが。) 本書における関心が(題名にある通り)「国民性」とか「能力」として語られる司法への市民参加の(不)可能性にあるのだとすれば、こうした経験についても論述・分析を盛り込んでいくと、問題のより多角的な検討ができたであろう、と思われる。


社会心理学実験・社会調査から
さて、第1部での検討を受けて、「日本人は司法に参加できるか」という戦前から持続されていながら印象論を言い合うだけで実証的に解答されていない問いにつき、幾つかの側面について調査がなされ、分析が加えられている。(*7)
そこでの結論として得られた大まかな知見は、日本の市民もまぁまぁちゃんと議論して判断できる、というものとしてまとめられるだろう。(*8)
しかし、この結論を導く最大の制約は(本書中でも留保が付されているが)、これらの実験が実験ボランティアや(弁護士会等による)裁判員関連イベントへの参加者を対象としていることであろう。そうした人々は一般に裁判員制度や司法一般に対して(少なくとも相対的には)高い意識と関心を持っているであろうことは容易に想像できるのであって、広く市民から抽選で選ばれる裁判員について同様に言えるかは慎重にならなければならない。

個人的には裁判員制度については(積極的な賛否は脇に置いておいて*9)「何だかんだ言って始まってしまえば何とかなってしまうんではないの」という感触を持っている(*10)(*11)のだが、本書の報告・分析はそれをサポートするエビデンスとして読んだ。


「国民性」「能力」から司法への市民参加に反対する意見は、戦前の陪審制の導入以前からあった。しかしそれが延々と繰り返されつつもさっぱり決着しないのは、結局論者が(いずれの立場に立つにせよ)個人的な直観以上の根拠を提出していないからであって、そうだとするといつまで経っても水掛け論にしかならない(*12)
「ちゃんと実証的に調べようぜ」というのが、本書の一番のメッセージ、ということになる。(*13)

【More・・・】

*1 と自分は解釈せざるを得ないのだが。*11参照。
*2 陪審員を務めた人物が生存していればインタビュー調査をする可能性もあろうが…時期的には厳しいか。
*3 関連して、何故陪審員の生の声が記録されていないのだろう、というのはある。守秘義務の関連だろうか。記述を見落としているのかも知れないが。守秘義務の問題は裁判員制度でも大きな論点であることもある。個人的には確定後は大いに喋ってもらって構わない(喋ってもらうべき)と思っているのだが。
*4 合衆国憲法が陪審審理を保障している関係上、米国統治下における沖縄においても陪審制度を運用「しなければならないのか」というのは、最近のグアンタナモにも通じる論点である(結論未確認)
*5 もちろん、逆「あの葡萄は酸っぱい」効果にも注意が必要だが。
*6 無論、検察審査会は現行制度。
*7 分量的には第1部より少ないが、そこに掛かっている苦労に膨大なものがあるであろうことは想像に難くない。模擬評議のビデオを見て発言を逐一分類するとは!
*8 いささか大雑把な表現で著者には叱られるかも知れないが。
*9 この点については以前のエントリで書いた。
【陪審】市民による量刑【裁判員】 - アメリカ法観察ノート
「予め断っておけば、自分は裁判員制度には賛成でも反対でもない。
反対論には与しないが、是非推進すべきという魅力も見えない。 」
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-255.html
*10 一応、検察審査会下の経験を主なreference pointとしているが、これ自体はhunchに過ぎないだろうと言われればそうだとしか答えられない。
*11 さらに付け加えると、アメリカにおいても陪審員として審理に参加した経験は司法・裁判所に対するポジティヴな評価の根拠ないし基盤になっているとされる。この点に関連するアメリカにおける調査の紹介として、前田智彦「アメリカ国民の司法観と2000年大統領選挙」アメリカ法2001-2号326頁、野村賢「アメリカ国民の目から見たアメリカ司法」判時1729号14頁(2000年)参照。
*12 ところで「日本人には冷静に討議して他人の罪責を判断できない」と当の日本の市民が言うのはself-destructiveというか、「お前には能力がない」と言われているわけである。
『12人の優しい日本人』
  • 『12人の優しい日本人』
  • 中原俊(監督);三谷幸喜(脚本)
  • 日本、1991年
これを観て「ハハハ」と笑っている場合ではなく、怒らなきゃいけないところである。
にも関わらず能力論の言説が涼しい顔をして流通しているとすれば、結局「オレはやりたくない」と言っているに過ぎないように思われる。
*13 もう一点、興味深い記述として、陪審制導入時における「籤引き」に基づく反対論を、社会調査における標準抽出法の知見を以て批判している箇所がある。これは、現代アメリカ陪審制において、"fair cross section of the community"による陪審審理を受ける権利というものが、最終的・具体的な陪審員団の構成がどのようになっているかを問うものではなく、陪審員選出過程において特定のグループをシステマティックに排除するものとなっていないかを問う、ということを思い出させる。
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