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2008.07.01 (Tue)

社交としての宗教

学部生の頃、ウェーバーを読んでいて(*1)、「教会」に関する記述がぴんと来なかった。何故、社会学における考察の対象として教会がそのように重要なのだろう? 宗教=内心に関わるのだから、外に現れた行動を対象とする学においては二次的な要因に留まるのではないか。

アメリカに来て、こちらの空気を吸って、認識を改めた。
宗教/教会というのは、教義=世界観の提供という側面も重要だろうが、実際の生活においては、まずは社交の場として機能している。(*2)
他の局面に加えて、教会((で)の活動)という形で、生活に側面が一つ加わっている。
ヨーロッパの状況はよく知らないが、同様か、本家らしくより強く浸透しているのだろう。


「承認」と「宗教」の関係を問うのならば、後者による世界観の提供という側面に行く前に、そのような「社交」の回路としての側面を無視すべきではなかろう。

もっとも、「社交」に注目するのであれば別に「宗教」にリンクさせる必要はない。生活に「宗教」という側面があれば「社交」の回路が一つプラスで確保される、ということである。

むしろ日本社会へのインプリメンテーションという意味では、宗教に限らず、「社交」の回路を見直す、というのが現実的な戦略として有効であろう。
戦後日本社会は生活における「社交」を徹底的に破壊してきた。大概の人付き合いを企業の内に回収していき(*3)、残ったのは子供の学校を通じた関係位であろうか。

そこで、新たな「社交」の回路を、多様・多元的に、展開するのが望ましい。(*4)
で、その萌芽は既にあり、例えばネット上のつながりのオフ会などというのはそのようなものとして把握できるだろう。(*5)ということで、自分は現状を楽観はしていないがあまり悲観もしていない。
承認欲求って昔から政治権力や宗教の源泉だよ - 雑種路線でいこう
「戦後に伸びた新興宗教って、地方から東京に出てきた層に帰属とか承認を提供したこ…。本来は承認の供給不足が問題だったら、それは宗教がシャンとしなきゃいけないんじゃね?」
「自己承認欲求とどう向き合うかについてのLife Hackって伝統的に地域社会や宗教が担ってきた役割であり、高度成長期以降の日本はどういう訳かそれを会社が肩代わりしてきたんだろうけど、会社がその役割から降りて、承認欲求に対するケアから零れ落ちる層が増えたことが問題なんだろうね。」
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20080629/wel
承認欲求・マズロー周りの、最近の記事クリップ&私見 - シロクマの屑籠(汎適所属)
「宗教と承認欲求/所属欲求の問題は、確かに宗教が担ってきた部分は大きいとは思う。ただ個人的には、新しい宗教を新たに信仰していくのと、「生まれた時から、家族も近所もみなが信仰している宗教に、物心ついた頃から違和感無く包まれている」では、かなりニュアンスが違うと思う。「宗教が承認欲求や所属欲求を提供する」と一言で言っても、自分が小さい頃から信仰して当然としている宗教と、新たにみつけた・入信した宗教では、得られる承認欲求/所属欲求の質的相違は無視できないものだと思う。」
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20080630/p1
『フランスの社交と法』
  • 『フランスの社交と法--〈つきあい〉と〈いきがい〉』
  • 大村敦志(著)
  • 有斐閣、2002年
  • ISBN=9784641047938

【関連】

事物の見え方 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
ヴォランティアの成立し得る空間 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
popular constitutionと「教育」 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
死刑:被害者感情論 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
で、誰をひっぱたくのか - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

【More・・・】

*1 『社会学の根本概念』だったか。
*2 学部時代に聴いたアメリカ政治史の授業で、フロンティアにおいて「教会に行く」ということの重要な意味は「人に会いに行く」ということだ、と議論されていたのも、そういえばと思い出した。
*3 具体的には、社宅、会社の運動会、等々。
*4 このような方向性は、「コミュニティ」の再生という、巷間でよく言われる戦略と同軌に見えるかも知れない。同様の契機があることを否定しないが、あえて「コミュニティ」と言わず「社交」と言っている。
「コミュニティ」というと、その空間で何か頼み事をされたら断れないような、相互依存的で、ウェットな関係を想定しているように思える。これは、重い。地縁・血縁に代表される戦前までの日本社会の(現在でも地方部では同様か)そのような社会関係を嫌ったからこそ、現在の状況があるのではないのか。今更戻ることはできないであろう。
「社交」と言ってここで想定しているのは、もっとcivilな、軽い関係である。頼み事をされれば余裕があれば応じるが断るのも自由だし、頼み事をする側も絶対に聞き入れてもらうことなど期待していない。そのような限定された人付き合い、の構築、を考えている。
*5 p_shirokuma氏の「コミュニケーション」と「執着」を軸とする検討の蓄積は傾聴に値し以前から読ませてもらっているが、氏の「コミュニケーション」の語の使い方は得心しないこともある。
「コミュニケーション」が問題になる場合、伝達されるべき情報・意思・感情等は所与とした上で、それを如何に相手方に伝達するかに焦点が合わせられるのだと了解する。氏の問題とする「オタク」における「コミュニケーション弱者」においてはそういう意味での「弱者」、すなわち自ら伝達したことをうまく伝達できない、表現できないという局面が問題になることもあろう。
しかし他方、氏は「服装を整える」「おどおどした態度をとらない」「話題を探す」といった局面も問題にするのだが、これは私には古くから「人付き合い」「社交」として語られてきた問題領域だと思える。また、そのように腑分けしたほうが前述の意味の「コミュニケーション」の問題と混同せずに分析できるように思えるのである。
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テーマ : アメリカ合衆国 - ジャンル : 政治・経済

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