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2008.06.01 (Sun)

米国型違憲審査制についての覚え書き

差し当たり、憲法訴訟に議論を限定するが;
例によって、大雑把な要約または未検証の仮説の域を出ないが、司法部による違憲審査and/or憲法訴訟について引っ掛かる点を覚え書きとして。
憲法学者はこうした問題をずっと考えてご飯を食べているわけだし、基礎的問題というのはなかなか解決しないからこそ基礎的問題なのだろうが、自分的にはその次の問いへ行きたいのだが。

司法部/裁判官の政治的アカウンタビリティ

先に
Versions of Democracy - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
*4 しかしながら、フランスにせよドイツにせよ、大陸型の憲法裁判所は、アメリカのそれに比して、より明確に政治的性格を規定されているように思われるのはどう解すべきか。むしろ、形式的政治性と実質的政治性との捻れに着目すべきか。
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-199.html
こう書いたのは直接的には、アメリカの司法審査に関する議論が--当の裁判官自身によるものも含め--いずれも、「政治的にアカウンタブルではない裁判官が」との枕詞を伴うことへの「?」感からである。
確かに直接人民に基礎を置くものではないとしても(*1)、大統領はしばしば裁判官とりわけ最高裁裁判官の任命を任期中の最も重要な課題であると考えるし、その人選においても議会上院による承認の際の審査においても、実質に立ち入った議論がなされる。
これは、裁判官の人事に事実上、政治的決断(=政治的責任の引受)が介在しない日本から眺めれば、本当に「政治的にアカウンタブルではない」のか、と見える。
ヨーロッパの状況についてはきちんと理解しているとは言い難いが、制度的にはフランスの憲法院もドイツの憲法裁判所もその人員の構成については制度的に政治システムが責任を持っていると了解している。これによりその判断の民主的正統化については明確になるわけだが、その割りには活動が「大人しい」との印象も持つ。これが「形式的政治性と実質的政治性の捻れ」と表現した点。(*2)(*3)

“主観訴訟”の政治性

Marbury v. Madison判決で、Marshallが司法部による違憲審査を打ち出した際、彼はそれを憲法上、司法部に与えられている権能に基礎づけた。
"It is emphatically the province and duty of the judicial department to say what the law is. Those who apply the rule to particular cases, must of necessity expound and interpret that rule. If two laws conflict with each other, the courts must decide on the operation of each.
So if a law be in opposition to the constitution; if both the law and the constitution apply to a particular case, so that the court must either decide that case conformably to the law, disregarding the constitution; or conformably to the constitution, disregarding the law; the court must determine which of these conflicting rules governs the case. This is of the very essence of judicial duty...
The judicial power of the United States is extended to all cases arising under the constitution.
Could it be the intention of those who gave this power, to say that, in using it, the constitution should not be looked into? That a case arising under the constitution should be decided without examining the instrument under which it arises?
This is too extravagant to be maintained."
Marbury v. Madison, 5 U.S. 137, 178-179 (U.S. 1803)
ところでそもそも、司法権を行使するためには事件・争訟(Cases or Controversies)であることが要求される(*4)

そうであるとすると、
Versions of Democracy - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
コメント
「…アメリカ法では、私達ならば「客観訴訟」と看做すであろう争いについても、主観化してしまう傾向があるように感じます。このようにすれば、「政治的性格」をもつ紛争であっても、通常の私権を巡る紛争と同じく、単なる「主観訴訟」として争うことができるので、ことさら違憲審査権を「政治的性格」を帯びたものとして構成する(「抽象的規範統制」等々)必要がないのかなあというように思っていました。」
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-199.html
この点、私の理解する論理関係は逆である。
アメリカ(連邦憲)法においては、司法権の行使において事件性・争訟性が要求される以上、そこから引き出される憲法訴訟はそもそも“主観訴訟”でしかあり得ない。「主観訴訟として争うことができる」のではなく「主観訴訟として争わなければならない」。
従ってその下での課題も、如何に“主観訴訟”に政治的トピックを持ち込むか、というものになる。
「政治的紛争が主観訴訟になる」のではなく「主観訴訟が政治的紛争になる」のが、アメリカ法のフェアな理解だと思われる。(*5)(*6)

機能的「抽象審査」?

しかしながら、アメリカ法においても、(当事者適格とも訴えの利益とも訳し得る)standing--事件性・争訟性の判断の基礎である--が緩やかに認められること(*7)、プラス、法令の執行自体を差し止める判決が可能であることから、事実上、機能的に抽象審査を採用するのに近い状態が実現しているのではないか(*8)、と評価することもできる。もちろん確実にそう言うためには、やはり共通のベンチマークを設定した上での比較研究が必要となる。

「裁判所による人権保障」

「近代憲法下では、個人の人権を保障するための裁判所の役割が重要である」という命題は、憲法の教科書の最初に書いてある、法学部の憲法の(法学部でなくても)授業の最初の時間に教えられる、事柄である。
しかし、歴史的に眺めてみれば、そのような状況が確立したのは比較的最近のことである。かかる観念の母法国とすら言えるアメリカにおいてさえ、長い間、憲法訴訟の中心は連邦制の論点であった。Lochnor時代において「人権規定に基づいて立法を違憲無効とする」とは、最低賃金法や労働時間規制を無効化することを意味した。

個人の権利に関する訴訟が憲法訴訟の中心となるのは、ニュー・ディール期の憲法革命を経た後、1940~50年頃と考えられる。極端に言えば、アメリカでも「裁判所による人権保障」が確立するのは第二次大戦後のことである。無論その際には、Brown判決(*9)を嚆矢とするWarrenコートが重要な役割を果たしたことは言うまでもない。(*10)Carolene Products footnote 4(*11)や編入理論の確立もこれに貢献しているだろう。

理論の探究と法概念

ところで、「法」が客観的に実在するものだと考えられる限り(*12)、前述のように司法部による違憲審査を法を述べるという司法権それ自体から引き出すこともさほど難しいことではない。
しかし、そのような法観念は20世紀前半までには消滅、あるいは少なくとも大ダメージを受けていた。リーガル・リアリズムによる挑戦もある。そしてかかる観念を決定的に敗北せしめたのはErieドクトリンの確立(*13)によるSwift法理(*14)の判例変更であろう。

かかる法観念の変化と、(個人権を基礎とする)憲法訴訟の活発化とが、近接した時期において起こっている。このことが、明文規定なき司法部による違憲審査を如何に正統化するかという、現在も続く憲法理論の中心的課題(*15)の背景にある。

ヒーローとしての裁判所?

ところで。
現在の憲法の通説的立場は、それを主唱した学界の(現在の)重鎮がその頃、学説を確立したことから、Warrenコートをパラダイムとして想定しているように思われる。少なくとも、「その後の連邦最高裁は保守化している」とか、日本において「アメリカでは積極的に違憲判断をしているというのに、日本では」という類の議論をする研究者(*16)については、そう言えるのではないか。
しかし、これはより長い歴史的スパンに立ってみた場合、適切な見方なのだろうか。むしろWarrenコートの時期のほうが特異な時期として把握したほうがフェアな理解のではないか。


パズルをパズルのまま書き散らしてあります。
誤りの訂正お願いします。 >識者

【More・・・】

*1 連邦裁判官の場合。州についてはまた別。
*2 無論、本当にそう言えるかは、ドイツやフランスの状況に詳しい研究者と、共通のベンチマークを設定した上で共同で研究してみないときちんとしたことは言えない。
*3 アメリカ方式にせよヨーロッパ方式にせよ、民主的正統性を持っていることが憲法裁判の「積極さ」の基礎を与える--と伊藤正巳先生が書いていると思うが、手元では未確認--のだとすれば、形式的にも実質的にもそうした背景を持たない日本の司法に「積極的な違憲審査権の行使」を期待するとすれば、それはかなり厳しい要求なのではないか。当の裁判官にとっても--それこそ、職を賭する覚悟が要るほどに。
*4 U.S. Const. art. III, sec. 2. 基本的には日本国憲法下の違憲審査制を付随審査と解するのと同じ論理である。但し、日本国憲法は76条とは別に81条を有している分、付随審査に限定しない余地はアメリカ法より広い。
*5 しかしこれにより、前述の通りそれを主宰する裁判官の任命が政治化することとなる。
*6 危なっかしい蛇足を付け加えれば、フランスの憲法院による合憲性審査を立法過程に付随したものと性格を理解すれば、日本法においては(内閣?)法制局によるチェックがそれに相当するのかも知れない。もっとも、機関的独立性等は大きく異なるが(しかしそれが問題なら独立の機関を作ればいいのではないか?)
*7 少なくとも日本法との比較では。また、重要な類型である政教分離事件において近時制限する動きがあることも留意。
*8 さらに、公益追求型ローファーム、クラス・アクション(特に(b)(2)クラス・アクション)といった制度も側面からかかる機能をサポートするだろう。
*9 Brown v. Bd. of Educ. of Topeka, 347 U.S. 483, 74 S. Ct. 686 (1954).
*10 但し、法理の発展についてはともかく、実際の社会改革において裁判所がどれだけの役割を果たし得たかについては近時、限定的な理解が有力に主張されていることも注記しておく。
*11 日本では「二重の基準論」と言われている話。しかしそのような英語は普通使われない。See United States v. Carolene Products Co., 304 U.S. 144, 152, 58 S. Ct. 778, 783 (1938).
*12 コモン・ローの法宣明説的理解のように。
*13 Erie R.R. Co. v. Tompkins, 304 U.S. 64, 58 S. Ct. 817 (1938).
*14 Swift v. Tyson, 41 U.S. 1 (1842).
*15 他方、戦後に憲法裁判制度を確立させた諸憲法は明示的な憲法裁判規定をしばしば有することにより、こうしたパズルを回避できる。
*16 憲法学者に限らず刑訴研究者なども含め。
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テーマ : アメリカ合衆国 - ジャンル : 政治・経済

01:49  |  アメリカ法  |  TB(1)  |  CM(3)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

>izw134様

お忙しい中、お手間を取らせてしまいましたようで、申し訳ありません。詳細なご教示を頂きまして、よく分かったように感じます。

izw134様が、「司法裁判所による憲法問題の判断」という観点から問題を捉えておられるのに対して、私が、「国家行為の憲法適合性確保」という方向からものごとを見ていたという相違はあったにせよ、実質的には、それほど違いがないのだろうと思います。


>>むしろWarrenコートの時期のほうが特異な時期として把握したほうがフェアな理解のではないか。

これは、ご専門の方でも、このようにお感じになられますか。私も、憲法訴訟に関する―日本の憲法学の―論文等を読んでおりますと、Warren Courtばかりを持ち上げて、Rehnquist Court以降を、そこからの「保守化」等々と捉える議論には、切れ味がよくない気がして、多少の違和感を持っておりました。最近では、少し修正がなされているのかもしれませんが・・・。

ともあれ、このように周到なお返事をいただきましたことに、重ねて御礼を申し上げます。それでは、失礼致します。
kouteika |  2008年06月02日(月) 17:48 |  URL |  【コメント編集】

> kouteikaさま

> 「国家行為の憲法適合性確保」
なるほど、元の問題提起のポイントが分かりました。
この問題意識を本エントリのトピックに引き付けると、「違憲だと思われるが“主観訴訟”として取り込み難いトピックをどう取り扱うか」ということになるかと思います。
この点、近時のアメリカのコンテクストでは、政教分離関係事件が具体的に問題となる事件類型として重要であるように思われます。
本文にちらりと書きましたが、最近これを限定する方向の動きが見られ(結果として宗教的な政府行為が残存する=保守派にとって好ましい結論となる)、これをどう評価するか、ということになるかと思います。(See Hein v. Freedom from Religion Found., Inc., 127 S. Ct. 2553 (2007), available at http://www.supremecourtus.gov/opinions/06pdf/06-157.pdf.)

ただ、standingが合憲性審査の前提となるということで、本案で自分の見解の旗色が悪いとみた裁判官が、standingを否定して本案審理を回避する=論点を将来のためにオープンにしておこうとする手を差すのも、興味深い現象です。(See, e.g., Elk Grove Unified Sch. Dist. v. Newdow, 542 U.S. 1, 124 S. Ct. 2301 (2004) (「忠誠の誓いPledge of Allegiance」中の"under God"の文言が問題となった事例)).


> Warren Courtばかりを持ち上げて、
> Rehnquist Court以降を、そこからの「保守化」等々と捉える議論

これは比較法の「使い方」にもかかわり一概には論評できませんが;
(私見はアメリカ(法)を"as such"として把握しようとする立場からのものですので)
ここ30年ほど(特にレーガン革命以降)を単なる「反動」としてではなく、もっと内在的・積極的に消化していく作業が必要なのだろうな、と感じています。
というか、当地ではそのような趣旨の本も出てきているようなので買い込んで積ん読になっています(汗)

ただ、
Burgerコート、Rehnquistコートも、ある程度の微調整はしつつも、Warrenコートの成果の主要な部分は覆してはいないこと;
Rehnquistコートこそ、立法をしばしば違憲判断して"activist"と呼ばれることがあること
は留意が必要かと了解しています。
IZW134 |  2008年06月03日(火) 13:27 |  URL |  【コメント編集】

>izw134様

気が付くのが遅れ、たいへん失礼致しました。追加でコメントを下さっていたのですね。お忙しいのに、お付き合いをいただきまして、ありがとうございます!

>> 「国家行為の憲法適合性確保」
>なるほど、元の問題提起のポイントが分かりました。
>この問題意識を本エントリのトピックに引き付けると、「違憲だと思われるが“主観訴訟”として取り込み難いトピックをどう取り扱うか」ということになるかと思います。

この点は、上の記事本文を拝見して、私の質問が、少しピントをはずしていたのだな、と反省をしていたところです。真意をお汲取りくださり、ありがとうございます。
政教分離裁判で、standingの認定が厳格化の方向に動いているようであるというご指摘は、たいへん興味深いものです。そうなると、確かに、「国家行為の憲法適合性確保」という性格は多少薄れて、「事件性」という原則に再び近づくということになるのかもしれません。ご丁寧に、最新の判例までご紹介をいただきました。よく読んで勉強してみたいと思います(素人には、きちんと咀嚼できるかどうか、こころもとないのですが)。
kouteika |  2008年06月08日(日) 00:20 |  URL |  【コメント編集】

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