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2008.04.13 (Sun)

システムと「個人」の「過失」

asahi.com:ニアミス事故、管制官に逆転有罪判決 - 社会
2008年04月11日20時48分
http://www.asahi.com/national/update/0411/TKY200804110205.html
直観的に「おかしな」判断だと思う。
ただ、その「おかしさ」の原因が特定し切れない。
少なくとも、この判決の前提とする政策に対しては、それに賛成しない。しかし、もっと構造的なものがあるのではないかという気がするのだが、詰め切れていない。
ということで書きながら考えてみる。
日本が神の国じゃなくなりつつあるってことか - 雑種路線でいこう
「これはたぶん裁判官の感覚として特別な判断はしていない。だって交通事故だって過失でも責任とるでしょ。」
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20080412/god
この見方については、半分賛成する。
しかし、よりcriticalな問いは、交通事故と同じに扱ってよいかであり、同じに扱うべきではないとした場合に、何故裁判官から見ると同じに見えてしまうのか、ということであろう。

何故、高裁判断は拙いのか

ネット上のリアクションを見る限り、批判的な見解が優勢のようだが、そして前述の通り私もそちらの側に与するが、問題は、何故、この高裁の帰結が拙いかである。この点、論者の見解は幾つかの考慮が重なり合っているに思われる。
私見では、2つ(ないし3つ)のレベルの考え方を分けるべきであるように思われる。
自己原因究明・再発防止--外在的・政策的対応
asahi.com:「もう管制できない」ニアミス逆転有罪、現場に衝撃 - 社会
「欧米では影響が大きい事故の場合、当事者を免責したうえで真実をすべて語らせ、再発防止に役立てる考え方が主流になりつつある。過度な責任追及は、原因究明に支障をきたす恐れもある。処罰を逃れようと、当事者が真実を語らなくなる可能性があるからだ。この点で、今回の高裁判決は国際的な流れに逆行する形となった。」
http://www.asahi.com/national/update/0411/TKY200804110284.html
事故防止防止制度の防止 - たくぞう@GDB 【 みんカラ 】 ブログ
「事の成り行き次第で自分が処罰される可能性がある場合、当事者は起こった出来事、思ったことを100%正直に話すだろうか?」
http://minkara.carview.co.jp/userid/222963/blog/8431674/
ここで示されている考え方がまず一つ。
事故原因究明のために、当事者や関係者に免責ないし責任制限を与えることで、証言へのインセンティヴを与えよう--少なくとも、ディスインセンティヴを排除しよう--という考え方である。

これは考え方としては一つ筋が通っているが、若干留保が必要であろう。
これは、自己原因究明・将来の事故防止という外在的な政策目的のために、免責・責任制限を与えるというものだから、内在的には責任があるということは排除されていない(*1)(*2)
このことをさらに敷衍すれば、裁判官の目から見れば、しかるべき立法がない限り、被告(人)を免責する根拠はない、ということになる(*3)
構造的問題--システムの中の個人責任
しかし、もっぱらかかる政策判断の巧拙として問題が定式化されるのだとすれば「早くそのような立法的対応をしましょう」という以上のことにはならないはずである。
それを超えて、憤りとも言えるリアクションが見られるのは--そしてその感覚は私も共有するのだが--、本件のような状況においては、通常の過失責任が認定される状況--例えば交通事故--と比べて、より内在的・構造的な差異と言うものがあり、本件高裁の判断はそれを見落としている、という批判であろう。
前述の自己原因究明に基づく免責は(論理的には)責任判断がなされたの問題であるのに対し、責任判断の前または前提について差異があって、個人に過失責任を問うことの構造的前提が掘り崩されているのではないか。そしてそのような差異にsensitiveな法律家であれば、例えば過失の概念を操作してそれに対応することもできたのではないか、という問いである。

こちらに属する議論にも、重なっている部分もあるのだが、細かく見ると2つのヴァージョンないし位相を区別できるように思われる。
怖ろしい時代 - 新小児科医のつぶやき
「この事件で起こった管制ミスは過失です。管制官に刑事罰が下される事により他の管制官が震え上がり、「ミスをしてはいけない」と感じるとは思います。感じることで防げるミスであれば「再発の抑制」効果はあるでしょうが、いくら注意しても絶対には防げないミスであるなら震え上がる程度の反応では済まないと考えます。」
http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20080412
バカな裁判官が航空管制をガタガタにさせるって・・・(追記あり) - NC-15
「…一般的な刑事事件と違って、100パーセント悪いというケースってこういう場合ないし。ヒューマンエラーって、0か100かで済む問題じゃない。 …
なので、現状としては、PDCAの徹底、ミスを前提とした運用設計を地道に繰り返すしかない…」
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20080412/1207995070
ふか&もけ : 管制崩壊?
「専門家が日々の業務を懸命にこなしても。システムに起因するヒューマンエラーを根絶することは出来ません。」
http://fukanju.exblog.jp/6998326
こうした見解に見られるのは、システム全体の問題を個人に収束させるのは適当ではない、という考え方である。(*4)
我々は、システムを小さく分解して一人ひとりの担える作業に変換することで、前近代に比べて飛躍的に大きなものを動かしているわけだが、そうしてleverageが効いて(しまって)出てくる帰結に対する責任を、「個人」に問うことは適当か。
我々は自分自身の行為すら完全に意識して自己決定下に置いているわけではない…だがそれでも、発生してしまった帰結を自分の選択の結果として引き受けるとき、行為者は偶然的・確率的にその行為に追いやられた客体としてではなく、積極的に自由な選択をした主体として立ち現れるのだ。(*5)
本件の問題状況においては、この記述とは逆に、個人の引き受けることのできない帰結を引き受けるよう迫られてしまっているのではないか。
冒頭の楠氏の問題提起に戻れば、交通事故の運転者は発生した帰結の原因をもっぱら自らのコントロール内にほぼ収めることができる(*6)。しかし本件のような問題状況ではできない。(*7)
日本航空機のニアミス事故訴訟高裁判決に抗議する(Ver1.1) - 埋立地の記憶出張版
「医療事故・航空事故・プラント事故を問わず、巨大システムという物に対する理解が日本の司法や報道には無さ過ぎると思う。」
http://d.hatena.ne.jp/satromi/20080412/1207990443
航空管制崩壊 (東京高裁判決) - 元検弁護士のつぶやき
コメント
No.22 ろくろくびさん | 2008年4月12日 23:40
「医師が・・・とか管制官が・・・とかではなく過失犯そのものが現在曲がり角にきているような気がします。」
http://www.yabelab.net/blog/2008/04/12-095702.php
ただ、

コメント
No.14 (ただいま謹慎中)さん | 2008年4月12日 16:54
「「個人の責任を問うこと」は、決して「システム上の問題を無視して、個人に責任の全てを押しつけること」ではない」
という意見も理解できる。完全にシステム内部の統制に依存するにも限界はありそうである。また、「プロ」であるが故に責任が限定されるというのは、業務上の過失に対する責任を加重している現行法との整合性もとり難い。個人の責任を追求するに値する行為と、そうでない行為とを、巧く仕分けしていくことはできるであろうか。


ここから、若干位相の異なる別の問題意識に繋がって行く。
leverageとは直訳すれば「てこ」であって、システム全体の帰結を特定の個人に収束させるとすると、その個人はポッキリ折れてしまう、かも知れない。それを予見すれば、合理的な選択をするアクターは、そのような役割を引き受けることはないであろう。
怖ろしい時代 - 新小児科医のつぶやき
「航空管制業務から逃げだそうと考えても不思議ありません。」
バカな裁判官が航空管制をガタガタにさせるって・・・(追記あり) - NC-15
「なり手いなくなる」
ふか&もけ : 管制崩壊?
「医療と同じように、航空管制も、崩壊に向かうのでしょうか」
「もう医療はできない」医療事故逆転有罪、現場に衝撃 - カーリング漬け - 楽天ブログ(Blog)
「管制官のなり手が減るかもしれませんね。どっかの医療業界ににた動きになるのでしょうか?」
http://plaza.rakuten.co.jp/gaksuzuki34/diary/200804120000/
同じシステムを念頭に置いた問題意識でも、前述のものは責任原因に内在的なものを問うていたのに対し、こちらは如何にしてシステムの担い手を確保していくか、という問いの立て方であって、その限度では政策的な操作可能性は前者よりも大きい。
  • 医療問題発生→医療従事者への責任追及→防衛医療(サービスの質的減少)、医療からの撤退・最初から参入しない(サービスの量的減少)→人手不足!→最初へ戻る、悪循環
  • 航空機事故発生→航空関係者への責任追及→過大なマージンを伴った運行(サービスの質的減少)、航空業界からの撤退・最初から参入しない(サービスの量的減少)→人手不足!→最初へ戻る、悪循環
  • 教育問題発生→教員への責任追及→生徒には係わらない(サービスの質的減少)、教育からの撤退・最初から参入しない(サービスの量的減少)→人手不足!→最初へ戻る、悪循環
再び交通事故との対比をすれば、運転手が運転から得る効用はもっぱら運転手自身に帰属する。もし運転から得られる効用が潜在的責任を含めた費用を上回ると考えれば、彼は端的に運転を止めるわけであるが、別にそれによって誰が困るわけでもない。
他方、管制官(やその他の職業)がその職務を遂行することは、彼がそこから得られる効用を目的としているわけではない。社会的にそのような職務に従事してもらうことが必要であり望ましいからであって(*8)、責任追及によって過少供給になるとすれば、社会が困ることになる。(*9)(*10)

たぶん後者の問いを一般化していくと、株主の有限責任の根拠といった問題系に接続していく。
REVの日記 @はてな
それは立法の問題です 「http://d.hatena.ne.jp/Yosyan/20080412
資本家:株式の範囲内で責任を負う。
福祉により生活している人:責任を負わない
現場担当者:無限責任」
http://d.hatena.ne.jp/REV/20080412/p2

それではどうするか

それではどうするか、となると、見解は固まっていない。
刑事制裁は望ましくない、という直観はある。そうでなくとも日本は刑事制裁が出しゃばり過ぎだ。(*11)故意や余程のrecklessnessに対して刑事制裁(や懲罰的賠償を含む民事・行政制裁)の可能性は残すにしても、単純過失については民事賠償を軸に組み立てるべきであろう。
404 Blog Not Found:News - ニアミス事故逆転有罪 - 木から落ちた猿の罪
「過失にあたって、刑事罰がほとんど役に立たず、その一方で損害賠償+事故防止策強化モデルが多大な成果を上げているのは、この事件が起こった航空業界ではすでに常識となっていると同時に、「失敗学」を通して他業種のエンジニアにも共有されつつある認識である。 …
プロもミスを犯す。全てのプロがそうである。だからそのミスを罪としてはならない。ただしミスによる損失は、プロの契約不履行と見なせるので、その損害は賠償するのがプロとしての責任である。プロ個人で賠償するにはあまりに大きな損失とて、業界全体であれば賠償は可能だ。保険だってある。」
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51033466.html
この記述は、幾つかの興味深い思考の種を含んでいる。
まず「プロの契約不履行」という考え方。ここで「契約」に触れられているが、ここから「対価」の観念が連想される:ミスの防止には費用がかかる。安全はタダではない

第二に、(日本法は若干異なるが)英米法では契約不履行に対する損害賠償は債務者の過失を問わない、無過失責任である。
逆説的かもしれないが、このコンテクストでは無過失責任/厳格責任のほうが望ましいであろう。不法行為法の経済分析の標準モデルの知見に従えば、
  • 事故防止について航空側はしかるべき対応をなしうる一方で、乗客側は基本的に何もなし得ない。事故防止費用の最適化のためには前者に費用を内部化させるべきである。
  • これにより、社会全体にとって最適な費用配分がなされる。
  • 過失を責任要件とすると、これを争うことによる紛争解決費用がかかる。関係者の情報提供のインセンティヴを確保するとすれば、民事においても過失の有無が無関係になるのが好ましい。
第三に、(賠償責任メインで考えるとして)責任を負う主体についてである。
前述の通り、システムの中に落ち込んでいるアクターに責任を問うことは適当でないと考えられるわけだが、ではどうするか。システムの範囲が特定の法人=会社ないしその一部に収まっている分にはあまり悩まずにその会社を責任主体とすればよい。しかし、システムの範囲が特定の法主体を超えると厄介になってくる。しかし、Dan Kogai氏は業界、保険に触れているし、対応は不可能ではなかろう。
その費用は分散されて航空運賃等に上乗せされるであろうが、乗客は安全を享受しているのだから適正な対価だろう。安全はタダではない。

今日、街を歩いていて、「私見は結果的に無責任の体系を追認することになるのではないか」という疑問を抱いた。が、そんなことはない、との結論。
  • システム内部の個人に対し、その過失についてシステム外部から直接に責任を追及されることを問題にしている。システム全体が外部に対して責任を負うことは前提。
  • システム内部の個人がシステムの内部的統制に従うことも前提。また、故意等については留保を付している。
  • 旧軍の誤りの一つはシステムの問題を個人の精神論に還元したことで、システム的視点を保持している点で既にそうした謬からは逃れている。(システムの問題を精神論で解決すべきでないことは*8で指摘。)
  • 但し、そうするとシステムのデザイン自体に関する責任は詰めるべき論点。「責任を取る職務」の重要性。
  • システム内部における各構成員の職務範囲が曖昧だと、特定の構成員にシワ寄せが行って押しつぶされる虞があることには留意する必要あり。
【2008年4月14日23:55追記】

【関連】

【書評】大屋雄裕『自由とは何か』 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
retribution / revenge - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

【More・・・】

*1 民事・刑事の区別は差し当たり措く。
*2 あまり意識されていないようだが、この考え方は司法取引の発想につながる。さらにその先には--より深刻な問題として--憲法上の自己負罪拒否特権の問題がある、はずである。
*3 前述*2の通り、かかる制度と司法取引的発想との連関が見出せるとすれば、司法取引のようなものを持たない法文化における法曹がかかる免責に抵抗を示すのももっともだ、と言えるかも知れない。
*4 大屋雄裕『自由とは何か--監視社会と「個人」の消滅』(筑摩書房/ちくま新書680、2007年、ISBN=9784480063809)191~92頁(強調省略)。
*5 報道されている判決要旨を読むと、被害(の重大性)から注意義務を引き出しているのではないかと思えることがこの懸念に拍車を駆ける。なお、地裁判決を検索したが発見できなかった。公刊されていないのだろうか。
*6 完全にではない。しかし例えば、道路状態に問題があるとすればそれは道路管理者の国賠の問題になり得るし、自動車の性能の問題だとすれば製造物責任の問題になり得るから、コントロールできない範囲については補償されているとも評価できる。
*7 ここら辺、リスク社会論を踏まえればもっとちゃんと書けるのだけれども、ベック読んでないんですよね。
*8 もちろん個人的に遣り甲斐を感じている人は多いだろうが、それは社会的に見ればオマケに属する。むしろ、個人的な遣り甲斐に依存することで社会が得ている効用に見合った対価をディスカウントしているのだとすれば、それこそ問題であろう(医療者等に見られる燃え尽き症候群)。
*9 これを調整する役割の一つが市場のはずではあるのだが…
バカな裁判官が航空管制をガタガタにさせるって・・・(追記あり) - NC-15
「航空管制官って、責任の割には待遇はそんなによろしくない。 …
さらにいえば、管制官の場合、なかなかジョブチェンジができないという面がある。というのも、日本の場合、管制官って一般職の国家公務員か、防衛庁職員しか場所がない…」
*10 両者の中間に位置するため思考の試金石になるのが、トラックやバスの運転手である。普通乗用車のドライバーと同様の行為規範に従って行動(トラックやバスの運行)をしつつ、システム的な枠組に囚われている。過重ノルマ→過重勤務というのは今やよく知られた話である。
*11 処罰感情との関係については、retribution / revenge - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考するが関連。
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