popular constitutionと「教育」2008-04-10 Thu 23:41
ちょっと間が開いてしまった。続き、というかここからが本題。
Akhil Reed Amar, "The Bill of Rights" (1998) の"PART I CREATION"で特徴的なのは、独立期における理解として、第1〜第10修正の通称「権利章典the Bill of Rights」を、権利章典(bill of rights)=少数者/個人の権利を保護した文書としてではなく、多数派を擁護するシステムを構築し(ようとし)たものとして読むことである。 もうちょっと分解すると、
但し、"PART II RECONSTRUCTION"では、19世紀−−特に、奴隷解放運動、南北戦争、再建期−−を通じた、少数者/個人を守るための権利(章典)という、我々に馴染みの深い観念への転倒/転換が議論される。(→権利の擁護者としての連邦、編入理論へ) populism(?)と「教育」さて、Amar(の描写する建国の父祖ら)は、一方で憲法のpopular-ity(popular性)を−−権威の源泉と実際の制度設計の双方において−−強調しているが、他方で人民の「教育」ということに、あちらこちらで触れられる。新しく設立される政体の、権威の源泉兼最終的安全弁として人民が措定される一方で、人民のナマの選好それ自体を重視しているとは必ずしも言えない。 そうした人民は「教育」されている必要がある。少なくとも、それが望ましい。 しかし「教育」の中身については必ずしもクリアではない(*2)。 このことは、建国の父祖らのある種のジレンマを示す。 国王は放逐され、貴族制度は否定された。最早そうした権威に依拠することはできない。 他方、独立戦争と邦時代の各邦政治の実践の経験は、衆愚の危険を示すものでもあった。 これは特に"uneducated"な人々の選好をカウントすべきか、という形で現実的な問題となる。 この点の、建国の父祖らの構想の解釈の可能性はいくつかある。
教育の場さて、「教育」というと我々はまず「学校」を思い浮かべるわけだが、建国の父祖らにとっては必ずしもそうではない(*4)。むしろその機能を期待され、また「権利章典」においても制度として確保されたのは、教会、民兵、陪審であった。
民兵はコミュニティに即して組織され、すなわち家族、親戚、友人、クラスメート、近隣の住民、同じ教区員らとともに任務に就き、地元の名士に指揮される。州兵の訓練は、親族会(family reunion)や地域のイベントにも似た、social(社交的)な側面を持つ。(*6) 陪審の教育的機能については、トクヴィルの分析が広く知られており、改めて触れるまでもないだろう(*7)。 【ここら辺から大風呂敷/大ボラ/妄想が始まります。眉にツバの用意を!】さて、現代における「教育」の主たる場は学校である。20世紀の学校と18世紀の教会との対応関係は前述の通り。他方、近代型学校教育が軍隊に範をとることは、フーコー以来の歴史学/社会学/教育学においては常識に属するであろう(*8)。そして、軍隊と民兵との対抗関係については先のエントリで触れた。 つまり、
さらに、フォーディズムに代表されるように、工場労働者は大衆消費社会における消費者でもある。
他方、βから析出されるのは、学校/軍隊/工場/市場といったそれぞれの空間で、生徒/兵士/労働者/消費者として、実際に行動し、ある振る舞いをする−−あるいは、ある振る舞いをしてしまう/してしまわざるを得ない/してしまわざるを得なくなっている−−「個人」である。「社会学的『個人』」、あるいは「文学部的『個人』」と呼ぶ。(*9) このように(強引に)モデル化してみて、まずはこの表の空欄を埋めてみる。 その前提として、βのキーワードを抽出してみると、個別化/アトム化、規格化、規律/自律/自己責任と操作の対象化/受動性(←一方性)との同居、といった辺りであろうか(*10)。 αのキーワードをこれと対照的なものとして抽出してみれば、共同体と連帯−−但し、前近代におけるような階級秩序及びそこから弾き出されたら生存できなくなるようなものではなく、自律した個人の対等な友愛関係に基づくそれ−−、個性/固有性、能動性/主体性、といった辺りか。 その上で空欄を埋めてみる
さて、αをもたらしたのはもちろん市民革命である。 βをもたらしたのは産業革命である。 さらに、前者が先行し、前者と後者の間には50年〜1世紀程の時間的懸隔がある。
…などと、Amarと全然関係ないところまで妄想してみる。 ヴェーバーやアーレントと照らし合わせればもっとちゃんと議論できるかも知れないけれども。 というか、昔に読んだ(まま忘れてしまっている)ものの(カンチガイを含めた)無意識的反芻、なのではないかという気も(汗)
【2008年5月6日 23:50追記】 阪口先生の本を読み返していて、トクヴィル=アメリカ型モデルvsルソー=ジャコバン型モデルの対抗の記述にぶち当たる。あ゛ー、すっかり忘れいていたー(爆) アメリカしか見ていないとこういうことになる(汗) 【関連】【書評】大屋雄裕『自由とは何か』 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する*1 いわば制度的保障か。そういう言葉遣いはしていないが。 *2 但し、人民の「権利と義務」を教えるのだ、との記述あり(133頁)。 *3 例えば社会契約説が実際に社会契約が締結されたかを気にしないように。 *4 ジェファソンらがヴァージニア大学に深く関与していた等の重大な留保は必要であるが。 *5 同時代の日本の庶民教育が「寺」小屋で行われていたことを考えればそんなようなものか…ちょっと違うか。 *6 そういえば、日本において初等・中等の公教育が普及していくに際しては、運動会が地域のイベントとしての意義を持った、と何かで読んだ気が。 *7 逆にそういう観点からすると、普段「国民」を強調する人々が「国民の負担」や「能力」を主張して裁判員制度を批判・反対するのは、ちょっと理解できないのである。(自分も裁判員制度に諸手を挙げて賛成ではないが、反対する理由もあまりない、といった按配。) *8 その手のものを読むと「みんな同じ事が書いてある」という印象を持つのだが、自分が初めの頃に(=学部生の頃、彼の授業を聴いたので)読んで印象的だったということで、差し当たり、桜井哲夫『「近代」の意味−−制度としての学校・工場』(日本放送出版協会/NHKブックス、1984年、ISBN=9784140014707)。 *9 以前採り上げた大屋氏の著書では、両者の位相の差があまり明確に取り扱われていなかったように思われる。 *10 こうした要素から、マルキシズムの言う疎外も出てくる。 *11 なお、アメリカのコンテクストでは、奴隷制の要素を含むプランテーション農業もあること、同時にプランテーション経営はグローバルな経済活動でもあったことが留意される。 *12 小さい頃にかかるはしかみたいなものですわな。 *13 アングロ・サクソン系で両方を経験していない国もあるし。 |
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