2017年05月 / 04月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫06月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:--  |  スポンサー広告  |  EDIT  |  Top↑

2008.04.05 (Sat)

Because It's There 春霞氏との一連の遣り取りについて

一応、トラックバックは送信する。
もはや春霞氏には理解してもらうのは困難かも知れないが、読者が両者の主張を読み比べることを期待して。
もちろん、春霞氏からTBを拒絶されることも大いに考えられるし、それはシステム上もブログ慣習としても認められたことであろう。その場合、私としてはただ残念に思うだけである。個人的に自らの主張がreachする範囲が狭まるという面もあるが、それよりも、「十分な反論の機会を与えた上でそれを論破して得られた結論こそ、正当性が高まる」という、一般的に言えるであろうし、春霞氏自身もコミットしていると思われる(後述)規範に自ら反することになるはずである。

0. 概要

Because It's There プリンスホテルによる日教組会場使用拒否・司法判断無視問題(下)~裁判制度が危機に陥ってもいいのだろうか?
http://sokonisonnzaisuru.blog23.fc2.com/blog-entry-846.html
こちらのエントリで"IZW134"名義のコメントが2つある。これは私のものであり、ブログ主である春霞氏と若干の遣り取りがある。2008年02月19日15時08分08秒付けの公開されていないコメントもあるが、これも私のものである。

別のエントリで"IZW134"名義で再びコメントし、その過程で公開されていないコメントについて言及した。これに対する春霞氏の回答によると、前記コメントを公開する意思がないようである様子が読み取れた。
Because It's There 終身刑創設法案を今国会提出へ~亀井静香・死刑廃止議連会長に真意を聞く(東京新聞平成20年3月18日付「こちら特報部」より)
http://sokonisonnzaisuru.blog23.fc2.com/blog-entry-952.html
本エントリは、一連の遣り取りにおける私の意図を説明する。議論の中身についても触れるが、中心はネット上での議論のあり方についてである。一連の遣り取りにおいて、私は建設的な議論と意見交換を意図したつもりだったが、春霞氏からは適切な対応を頂けなかった、と感じている。

【More・・・】

春霞氏からの回答より1週間余の時間が開いた。
これは単に、この間に期限のあった他の作業を優先させていたというだけであり、その主張を認めたことを意味しない。「脅迫者」呼ばわりされていつまでも黙っているわけにもいかないだろう。少なくとも「焦って」などいないということの証左ではある。

1. ネット上でのアイデンティティ

1.1 ハンドル名の一貫的使用
私は意識的に、他のブログ等でコメントする際も、同一のハンドル名"IZW134"を使用している。
ネットにおける秩序形成のために、発言等を一貫した主体に帰属させることで“信用”の蓄積を図るべきだとの提言(*1)を実践しているものである。

1.2 IPアドレス
現在の私のネット接続環境は、複数の公共無線LAN等、DHCPサーバ経由のもののみである。従って、接続する毎に異なったIPアドレスが割り当てられる。IPアドレスが違ってくるのは当然である。
確かにIPアドレス詐称は荒らしの常套手段の一つだから、春霞氏が警戒する判断材料の一つとしたことは理解できる。しかしIPアドレスを詐称するほどの人間が同じハンドル、ブログのURLを明らかにして荒らしをするとは考え難いはずである。

1.3 読者の数
春霞氏> 「だいたい、そちらの読者がわざわざこのブログを読むのでしょうか?」
当方は身内以外には積極的に宣伝していない弱小ブログであり、この言明は正しいかも知れない。が、適切な反論になっていない。
第一に、いないとは限らない。とりわけ将来において。第二に、「わざわざこのブログを読む」「そちらの読者」がいなければ、コメント者を不合理に論難してよいことにはならない。(春霞氏による論難が不合理なものであるとの主張については3.にて後述。)より正確に言えば、ブログ主がコメント者を如何に論難するかは自由だが、「このブログサイトはコメント者を不合理に論難するところなのだな」との評判を蓄積するだけである。もちろんそのように評価するかも読者次第だが。

2. コメントの意図

一連のコメントにおける私の意図は、
  1. 誤っている(と十分な論拠を以って私が考える)情報について指摘をすることにより、
  2. 分かっている読者に読まれた際に「この記述は間違っているな」と思われることで、春霞氏のエントリや主張の説得力が減殺されることを補完、修正する(ための提案をする)とともに
  3. 分かっていない読者が誤った情報を信じることを防止しようとした
ものであった。
私の指摘が受容されることによって、春霞氏のエントリ自体の価値が増し、それによって建設的な議論と意見交換が促進されるものだと考えていた。しかし、そのようには受け取られなかったようである。

3. プリンスホテル関連のエントリへのコメントについて

3.1 コメントの流れ
こちらで「誤っている情報」(2.A)と考えた点は、米国法下における契約違反に対する損害賠償の額、損害軽減義務、懲罰的賠償の利用可能性等についてである。これらの点について異論を唱えるコメントをまず書いた(2008年02月09日10時00分49秒付け、なお同15分24秒付け)。簡潔になるよう、当該情報のみについて端的に記している。
しかし、春霞氏からはこの指摘のrelevancyを了解しないないし受容しない趣旨のコメントを返された。
私はこれを第一のコメントが簡潔に過ぎたからであると考え、より詳細に私がそのような指摘をする趣旨を説明するコメントを改めて書くこととなった。

このエントリについては、私の指摘した情報について見解の差があり(前記2.Aレベルの問題)、この点について議論をしているものだ、と私は了解していた。しかし、春霞氏の議論の進め方が論証のための適切な手続を踏んでおらず、あまつさえ一方的に当方のことをネガティヴな態様で決め付ける発言(控え目に表現している)がなされたため、改めてコメントを書いた。これが公開されていないコメントである。末尾に添付している。

このコメントの1~3は、2.Aレベルでの見解の差について、両者の議論を分析的に整理することで、
  • 私のほうは、自らの主張について、文献があればそれを摘示し、なければ間接的な事情からの推論であることを明示する形で、論拠を示しているのに対し、春霞氏は論拠を示していないか、十分なものではない、
  • 春霞氏は、relevantなポイントをスルーしている、
  • 私のほうは、テクストを読むためのフレームワークを明示した上でそこから何が読み取れるかを摘示している、
  • 春霞氏は自らが提出した論点について私が応答したことを、無関係な議論だと論難している、
といった点で春霞氏の議論の進め方が不適切であることを示そうとしている。
(無論、このまとめが偏向していないかに疑問を挟むことも読者の自由であるし、必要に応じて検証されたい。「日本とアメリカ以外の〈世界〉」に議論を先に拡張したのはどちらであろうか?)

しかし、このコメントの中心が4にあることは言うまでもない。誠実なテクスト読解から読み取れると思っている結論を主張することに対して、「内田先生を軽視している」「無視していいと思っている」と一方的に決め付けられたことに異議を申し立てている。
無論、春霞氏による私に対するこの評価自体が適切なものかも論点である。私はこれをその根拠においても内容においても不当なものであると考えているが、そのように言えるかは読者の判断に委ねる他ない。あいにく私の内田民法は太平洋上で行方不明で未だに発見されていないが、内田民法をお持ちの読者は該当箇所から、(1)ルールとしての損害軽減義務の存在を読み取ることができるか、(2)読み取ることができるとして、「(機能レベルにおいてはともかく)ルールとしては存在していないことを前提に内田教授は記述した」と読むことは「軽視している」ほどあり得ない読み方か、判断いただきたい。

3.2 コメントの非公開について
春霞氏は、私のこの異議申し立てを公開せずに置いておいた。
(死刑関連エントリのコメントの書き方から推察するに、)春霞氏は、私のコメントを粘着質な荒らしの類か何かと受け取ったように思われる。この判断を支える事情もないわけではない。
  1. コメントが長いこと。
  2. IPアドレスが異なっていること。
  3. 同じ記事からのトラックバックを2度送っていること。
しかし、いずれの要因についても
  1. 簡潔に情報のみを記したらそのrelevancyを理解されず、意図を理解してもらおうと意を尽くし言葉を尽くして説明するより他ない。
  2. この点は前記1.2で述べた。
  3. ブログを引越ししたらTBを送り直すのはおかしなことではないはずである。
  4. 本当に荒らしであれば、数週間もじっと待っているということはないはずである。

春霞氏> 「「当方からの『異議』」があるなら、そちらのブログに書くのが一番いいのでは?(苦笑)」
全くその通りで、そのオプションは最初から放棄していない。(そしてこうして現在、行使している。)
にもかかわらず、当初、自らのブログではなく春霞氏のブログのコメント欄に書いたのは、読者へのreachを考えても同じブログ内で発言の撤回がなされればそれに越したことはないからである。

その後も、コメントが非公開であった間、どのタイミングで自らのブログで取り上げるかを探っていた。最終的に春霞氏からレスポンスがあるまで1ヶ月以上、待った形になるわけだが、これは
  • 反論を用意する時間を猶予すること、
  • 自己紹介欄に「プリンスホテル関連についてコメントの返事が滞っている」旨、記述があったため(*2)、私のコメントの公開と反論をなす意図はあるものだと解したこと(*3)
  • 「十分な反論の機会を与えた上でそれを論破して得られた結論こそ、正当性が高まる」との、一般的に言えるであろう規範命題に、春霞氏自身もコミットしていると考えられた(*4)ことから、それに従った対応を期待するとともに、(春霞氏のブログから見て)他のブログで「異議」コメントが公開されないことを含めて批判するとすれば、かかる規範違反の批難をすることとなるから、余計な論点を増やさないためにそれを回避しようとしたこと
といった理由により、抑制的に行動していたものである。

コメントの取扱に関する権能がブログ主である春霞氏にあることは争っていない。ただ、コメントが公開され(かつ発言の撤回または反論のいずれかがなされ)ることを「期待」あるいは「希望」はしていたが、それも春霞氏自身も採用しているはずの規範に合致した行動のはずであった、ということである。
IZW134> 「当該コメントは当方からの「異議」であったことにご留意下さい」
というのはかかる趣旨である。

従って、「要求」などしていない。(*6)
そもそも害悪告知もない。(*7)「当方の立場を確保するためにこちらのほうでできることを為さざるを得ない」というのは自分のブログで自分の立場を主張する、という趣旨でしかないのだが、これのどこが害悪告知にあたるのだろうか。
故に、私の発言は何ら不穏当なものでも恥ずべきものでもない。(*8)(*9)

4. 死刑陪審関連のエントリについて

まず、「噛み付く」という表現は筆が滑った。慎重に言葉を選択すべき局面で使用すべき言葉ではなかった。ここで言いたかったのは「問題点として指摘する」程度の意味である。(*5)

こちらのエントリに関して両者の見解の差は、前記2.B、春霞氏の主張と私の指摘とのrelevancyの如何についてである。焦点となるのは次の記述である。
「裁判員制度において裁判員として参加する市民は、陪審制度と異なり、量刑まで決定しなければなりませんから、自らの意思で死刑判決を決定することになります。…職業としての覚悟がない裁判員にとっては、想像を超えるほどの重荷になるはずです。」
4.1 論拠ないし対比
「陪審制度と異なり、」との記述がなくてもこの主張は成立するし、そうであれば私も口を差し挟むこともなかっただろう(*10)
「論拠」というのが強過ぎる表現ならば、「対比」と言い換えてもよい。「陪審制度と異なり、」との記述を付加することで、自らの主張を明確化しようとしているはずである。すなわち、
  1. 「陪審制度(一般)」において、陪審員は量刑判断をせず、故に死刑判断をするという負担も負わない、のに対し
  2. 裁判員制度においては、裁判員は量刑判断に参画し、故に死刑を判断する負担も負う。
両者を対比することで、後者の問題性を浮かび上がらせる、ということを狙った表現のはずで、「論拠としているはずだ」との指摘に対して「違う」と回答するのは自らの立論を掘り崩しているように思える。

4.2 「陪審制度一般」と米国制度のrelevancy
さて、私の指摘は、「米国においては死刑を科すかどうかを陪審が判断する」と摘示することで、4.1前段aが偽とまではいかなくとも重大な留保を付されることとなり、故にこの対比が色褪せてしまう、これに応じて4.1後段bの主張の力も減殺されてしまうのではないか、とするものであった。

これを春霞氏は「読み間違い」「無茶な理屈」と論難する。
どうやら私が
IZW134> 「もちろん「陪審制度一般」の理解に当たって米国の制度の理解は影響を及ぼさない、という考え方をすれば話は別ですが。」
としたのを「読み間違いであることはみとめ」ている論拠としているように推測するのだが(*11)、これはこの発言の意図を読み抜けていない。私は、米国制度抜きで「陪審制度一般」を概念構成すること自体に疑問を呈しているのである。

概念を構成するにあたっては、いくつかのアプローチが考えられるが、一つは現実の制度から帰納的に構成することである。世界各国の陪審制度から「陪審制度一般」を観念するに当たって、米国制度を無視するとすればそのほうが奇妙なことであろう。件数の問題はこの点に関わる。
逆に演繹的に「量刑判断を行わない制度が陪審制度である」と構成することもあり得る。しかしこれを4.1aの文脈に当てはめると、「量刑判断を行わない陪審制度においては、陪審員は量刑判断を行わない」というトートロジーになってしまう。これでは対比によって4.1bの主張を強化する役に立たない。

何が「素直」な読み方であり、何が「読み間違い」であるかがポイントであるとすれば、次のように論点を再定式化してみるとよい:
「陪審制度」と読んで、普通の日本語読者であるあなたは何を連想するだろうか。米国陪審制度を連想しないだろうか。私が
IZW134> 「日本人の一般的イメージからも(陪審と聞いてまず連想するのは『十二人の怒れる男』やO・J・シンプソンですよね?)」
と書いたのはそういう趣旨であるが、春霞氏は見事に無視している。
もちろん、本当に私の読み方は春霞氏の意図ではないのであろう。だがそうであるとしても、それは春霞氏がその意図を表現し切れていないということであるように思える。

4.3 現在、米国が事実上の死刑停止国である点
故に米国の死刑陪審がirrelevantであると主張したいようだが(*12)、当たっているとは思えない。論拠:
  • 執行停止は、訴訟の継続に伴う一時的な現象である。
  • 現在の訴訟は死刑執行方法の技術的な点が争われているものであって、死刑廃止に向けて大局的な動きの一部とは評価できないし、そのことは米国の死刑廃止運動の専門家も認めている(*13)
  • 口頭弁論の様子に関する報道を見る限り、現在継続中の訴訟で最高裁が違憲判断を下すとは考え難い(*14)
  • 現在継続中の訴訟は死刑執行方法が争点なのであって、死刑の言い渡しについては問題となっていないし、可能である。
  • 州が死刑執行方法を変更すれば、現在でも執行は可能となり得る。
  • 国連決議が米国政府の行動に対する有効な制肘となり得ないことは米国政府の批判者であれば誰もが知っていることであろう。


「陪審制度と異なり、」と書いたが故に、テクストに隙が生じているし、そのことが主張の強さを減殺している。「そのような書き方をしたらあなたの主張が伝わり難くなるのではないですか」と指摘したつもりだったのだが、理解されなかった。
やむを得ない。自らの主張の強さが弱まっていることに筆者が気付かなかったというだけである。

5. 「カッペの契約法」について

春霞氏> 「「カッペの契約法」などという法律の素人のブログを揶揄するエントリー自体に、抵抗があります。」
カッペの契約法 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-23.html#comment6
このエントリを「法律の素人のブログを揶揄するエントリー」と読むこと自体、驚く。
ここで言われている「法律の素人」とはDan Kogai氏のはずであるが、このエントリは彼のブログ・エントリ(中の「カッペ」「カッテ」の2分法)にinspireされるところから出発して、彼の主張をリスペクトしつつも、そこまで当事者(日教組)に求めるのは酷であろう、と論評するものである。
これのどこが揶揄であると?

「カッペ」という表現が悪いというのだろうか。普通に読めば読み取れると思うのだが、この表題はエントリ中
「日本契約法は田舎モノの法律なので(笑)」
という表現を受けたものであり、そしてこれはその前の比較契約法上の検討を受けて、日本契約法のタイプを、Dan Kogai氏の表現を踏まえつつ、jokinglyに、形容したものである。すなわちここで形容されているのは「契約法」であって、誰か特定の人物ではない。

前記エントリは特定の個人を--Dan Kogai氏を--揶揄する意図などないし、実際に、普通に読んでそう読まれ得るテクストになっているとも考えない。万一、Dan Kogai氏や関係者がこれを読んで揶揄だと感じるようなことがあれば申し訳なく思うが、その場合、他の方でも、テクストのどの部分が如何なるコンテクストに照らして「揶揄」と読み得るのか、後学のためにご教示いただけると幸いである。

6. 結

春霞氏のエントリ自体の説得力を増すであろうし、また読者にも正しい情報を提供するのが好ましいと考え、建設的かつ誠実な議論を目指して、私は、情報として誤っていると考えられる点を論拠を示しつつ摘示し、またその関連性を議論しようとした。
もちろん私は、私の書いたコメントがこのような私の意図を伝えるものであると考えている。だが、実際に私のテクストがそのような意図を一般的に読み取ることができるものになっているかは、読者の判断に委ねるより他ない。あいにく春霞氏にはそう読まれなかったようだが。

これに対して、春霞氏からは
  • 論点ずらし、ポイントの無視
  • 十分な論拠を示さない自らの見解への固執
  • 自ら提出した論点を無関係だと言い張る
といった議論への誠実な対応とは思われない応答があった挙句、「内田先生を軽視している」「無視していいと思っている」「脅迫」「強要」「読み間違い」「無茶な理屈」などといった一方的な決め付けを受けることになった、というのが私の側からの一連の遣り取りの見え方である。

私は善意で、また誠実に自らの主張を為していたつもりであるが、一連の遣り取りにおいて、春霞氏と私とで、いずれのほうが一貫性を持ち、相手のテクストを誠実に読み、応答していたかは、これもまた、読者の判断に委ねるより他ない。
春霞氏> 「何をそこまでいきり立っているのか」
強いて言えば、春霞氏に適切に応接してもらえなかったことだろうか。しかしそれも「強いて言えば」であって、深入りするつもりはない。
喩えれば、「お宅の看板、曲がっていますよ」と親切心からアドバイスしたが、住人からは「どうも。でも曲がっていませんよ」と返されたので、どう曲がっているか説明したら、「うるさい!こっちが曲がっていないと言ったら曲がっていないんだ。お前の目は節穴か」と怒鳴られた、という感覚である。この通行人としては住人からの論難は的外れだと確信しているし、従って失うものもなく、肩を竦めて立ち去るのみである。後に残るのは、曲がった看板と、住人が公衆の面前で通行人を痛罵したという事実である。もちろんこれを、おかしな通行人を住人が追い払うことに成功したと解するか、親切な通行人を住人が罵倒して追い出したと解するかは、他の通行人や近隣住民の判断することである。

春霞氏のブログはinformativeでもあるし、その主張に100%賛成するわけでもないものの、きちんと議論の組み立てることのできるブロガー氏であると思っていたし、だからこそそこでの議論に貢献しようとしてコメントをなした。
しかし、私の見込み違いだったようです。
残念です。

*1 白田秀彰『インターネットの法と慣習--かなり奇妙な法学入門』(ソフトバンククリエイティブ/ソフトバンク新書、2006年)参照。
*2 あいにく、この時期についてのWeb魚拓はなく、「そんなことは書いていない」と主張されればこちらとしては反証することはできない。個人的に、なんて不誠実な主張をする人だ!と思うのみである。
*3 逆に言えば、実は公開する意図がなかったにもかかわらずこのような記述をしていたということ自体、如何なものかという感は否めない。
*4
Because It's There 光市事件・差し戻し控訴審が結審~弁護団への過剰な批判で喜ぶものは誰なのか?
>izw134さん:2007/12/30(日) 09:02:55
コメントありがとうございます。
>裁判の正当性を適正手続に求めるとすると、弁護団にできる限りの機会を与えることが、正当性を高めることになるはず
>「あなた(被告人)に争う機会をこれだけ提供したのだから、この有罪判決は正しい

本当はそのとおりですね。米国では、必要かつ十分な弁護がなされ適正手続きを経た裁判の結果は、それが「真実」であるという意識が通常です。


>弁護側を攻撃する人々は有罪(死刑?)判決を求める人々と重なる部分が多いと了解しているのですが、それは自ら望んでいるものの価値を下げる主張で、奇妙な構図

その通りでしょうね。
懲戒請求や脅迫など弁護活動を妨害すれば、裁判の正当性が揺らぐのですし、再審になる可能性も生じます。なぜ、光市事件において死刑を望む人々が、弁護人の弁護活動を妨害するのか、実のところ妙なことだと思っています。結局は、刑事弁護への理解が欠如しているところに問題があるのでしょうけど。
2007/12/31 Mon 23:04:36
URL | 春霞氏 #ExKs7N9I[ 編集 ]
http://sokonisonnzaisuru.blog23.fc2.com/blog-entry-704.html
ひょっとすると、以前の記述を覚えていることだけで、粘着質なキモチワルイ奴と思う根拠になるのだろうか。自らの発言についてきちんと記憶しているだけだが。
*5 ただ、情状として、本エントリで述べている通り、私は春霞氏のブログに貢献しようと思っていたにもかかわらず適切に対応されていないと感じていた、ということを主張しておく。
*6 反論権を持ち出して議論を拡張しているのは再び春霞氏の側である。ところで、義務なきことをなさしめるのは強要罪の構成要件ではあるが脅迫罪とは関係ないことも確認しておこう。
*7 こちらのほうが両罪に共通する構成要件である。
*8 仮にこれが刑事規制の対象になるとしたら、それこそ表現の自由上、恐ろしい。
*9 脅迫だの強要だのとおおよそ的外れに言い募ることのほうが、意図的にやっているにせよ、意図せずにやっていないにせよ、よほど職を賭しているように思えるが。控え目に言っても「優越感に浸ったような」発言であろう。
*10 私自身はこの主張に賛同しないが、このような主張自体があり得ることは認める。
*11 あるいは再び「違います」となるのだろうか。だとすれば論拠は何であろうか。
*12 これもまた、春霞氏のほうが持ち出した論点である。
*13
Executions in U.S. Decline to 13-Year Low, Study Finds - New York Times
By DAN FROSCH
Published: December 19, 2007
Richard C. Dieter, the Death Penalty Information Center’s executive director said, “I wouldn’t say the death penalty is being rejected by the public, but there’s definitely a reconsideration under way.”
http://www.nytimes.com/2007/12/19/us/19executions.html?scp=1&sq=Executions+in+U.S.+Decline+To+13-Year+Low&st=nyt
*14
Justices Chilly to Bid to Alter Death Penalty - New York Times
By LINDA GREENHOUSE
Published: January 8, 2008
“With conservative justices questioning their motives and liberal justices questioning their evidence, opponents of the American manner of capital punishment made little headway Monday in their effort to persuade the Supreme Court that the Constitution requires states to change the way they carry out executions by lethal injection.”
http://www.nytimes.com/2008/01/08/us/08scotus.html?_r=1&ex=1200459600&en=ff51acf5d0c0cf0a&ei=5070&emc=eta1&oref=slogin

【プリンスホテル関連・非公開コメント】

まず、htmlタグがサポートされていないようで読み難いコメントになってしまい失礼しました。

1. 契約違反に対する賠償額の大きさについて
1-1 2008/02/09 Sat 01:50:31付けコメントで、春霞さまが「米国の契約法だと契約を破る自由はありますが、高額な賠償金を支払うことになります」と書かれているのに対して、

1-2 私は、必ずしも高額になるとは限らないのではないか、という見解を示し、
1-2-1 その論拠としてアメリカ契約法では賠償額を限定する法理が発達していることを指摘し、さらにその具体例として、
(a) 損害軽減義務と
(b) 違約罰条項に対する規制を挙げました。(もちろん(c)他の例も考えられます。)
別にこれは私が勝手に言っているわけではなく、前掲・樋口範雄『アメリカ契約法』の主に第3章の記述を踏まえたものです。
1-2-2 これに対し、1-2-1(a)損害軽減義務ついてはレスポンスがありましたが(後述)、これだけでは1-2・1-2-1の見解は積極的に反論されていない、と了解します。

1-3 他方で春霞さまは「米国在住の知人の実感」を論拠として提出されるわけですが、
1-3-1 これは(平井先生の戒めている)反論可能性のない議論です。春霞さまは個人的な信用に基づいて論拠として採用されていると思われますので、私には説得の可能性はありませんが(「米国在住歴40年」など人生を40年やっていない人間には逆立ちしても超えることはできません)、逆に私(や他の第三者)を説得できる論拠でもないことは確認したいと思います。
1-3-2 また私はこの「実感」を別様に解釈する可能性について指摘しましたが、これは却下されたようです。

1-4 もっとも、1-1の命題と1-2-1の命題とは必ずしも排他的なものではなく、組み合わせることによって「アメリカ契約法では賠償額を限定する法理があるにもかかわらず、賠償額が高くなる。何故か」という興味深い(しかしもはや本題を越える)問いを構成することが可能です。
1-4-1 但し前提として、「賠償額が高額である」という命題を、誰かの体感ではなく一般的に説得力を持った形で実証しておくことが必要です。


2. 損害軽減義務について
2-1 「私が行ったのは「米国の契約法と日本の契約法」とを比較したコメントなのであって、世界の契約法と日本の契約法の比較ではない」とされますが、
2-1-1 内田民法を参照する形で「英米法やドイツ法のほか、国際取引」に言及することで〈世界〉へと議論を拡張する一方、私の議論の射程を「米国固有」と限定したのは春霞さまのほうである、というのが私の認識です。
2-1-2 このため私は、
2-1-2-1 私見は米国法に限定することを意図したものではないこと、
2-1-2-2 国際取引法における該当法理の採用が英米起源であるとすれば、英米法に焦点を合わせることにも意味があること
を述べたものです。
2-1-3 にもかかわらず「〈世界〉は関係ない」とされるのは、こちらのほうこそ梯子を外された感がして困惑を禁じ得ません。

2-2 〈世界〉は脇に置いておくとして、差し当たっての焦点は日本法における〈損害軽減義務〉の存否です。
2-2-1 これについては、
α (法理は異なれども)英米等の損害軽減義務と同様の帰結が日本法においても実現されている(機能的比較の視点)
β 英米等の損害軽減義務と同様の法理が日本法においても存在している(ルール比較の視点)
の2つを区別して考えるべきです。これも比較法の教科書の最初のほうに書いてある事項です。
βを別の言い方をすれば、裁判所に対して「いわゆる損害軽減義務」とさえ言えば裁判所もその内容を了解して適用してくれる、という意味で〈法理が存在している〉か、という視角です。
2-2-2 αについては日本においてもそうであろう、という点で争いはありません。
2-2-3 これに対し、β=裁判所もその内容を了解して適用してくれるというような意味で「日本法上、損害軽減義務が存在している」と主張する論者はほとんどいないのではないか、との認識の下、私は「少数説に留まる」と書きました。このような主張をする論者が通説を構成するほど存在する、という認識をお持ちでしょうか。
2-2-4 内田民法は輸送途上で未着のため、テクストを確認できない弱点は承認せざるを得ません。
しかし、既に引用されているテクストも2-2-3の理解に違うものではない、むしろこの理解を支持するものだ、と考えています。内田先生は「さらに、日本の判例も、実質的には、~と解することが可能である」と書いているのであって、「実質的には」「と解することが可能である」という書き方によって「βはない」という認識を前提としつつも、機能的に「αはある」、このような主張がなされている、と読みます。これはこの箇所の読み方として不誠実でしょうか。この書き方からβの存在の主張を読み取ることはできますか。

2-3 仮に日本法上〈損害軽減義務〉の存在を肯定するにせよ、それはつまり「日米とも同じ」というだけの話なので、賠償額への影響にも違いは出てこない、という以上の帰結には至りません。「米国のほうが高額」という見解を積極的に支持するものではありません。


3. 契約違反に対する懲罰的賠償について
3-1 「契約違反については懲罰的損害賠償なしというのが原則である。…しかも、これは契約違反の態様を問わない。やむをえず契約違反をする場合であれ、故意による場合であれ、さらに悪意がある場合ですら、懲罰的損害賠償を認めないのが原則である。」樋口・前掲・315~316頁

3-2 この原則に対する例外は、契約違反の訴訟原因を構成する行為が同時に独立の不法行為を構成する場合である、という点も既述しました。

3-3 従ってポイントは、「司法判断に反した履行拒絶」という不法行為という訴訟原因(cause of action)はあるか、という問いになります。
3-3-1 判例法主義+連邦制のため、米国法には膨大な法情報が存在していますので、全てを調査し尽くすことは確かに困難です。別にこれは外からの観察者に限らず、nativeの法律家にとってもそうです。(立法後100年近く忘れられていた条文が突如脚光を浴びることすらあります。)
3-3-2 従って私は「ない」とは断定しませんでしたし、そうした意味で「分からない」ものかも知れません。
3-3-3 その替わりに「やはりない、というjudge」をしたわけですが、別に無からこのように言っているわけではなく、
ア 契約法・不法行為法のケースブックという、容易にアクセスし得る文献にそのような訴訟原因の存在を示唆する記述がないこと
イ 訴訟原因というのは(潜在的would-be)原告と(潜在的would-be)被告の間の実体的権利・義務関係の問題であるのに対して、裁判所の命令への違背の効果というのは裁判所と当事者の間の権力行使の問題であって、両者は次元が異なり、時間的にも後者は前者に後行するから、後者が前者に影響を及ぼすとは考え難いこと
という論拠を挙げました。この点は反駁されていません。
何ら論拠を提示しないまま「「司法判断に反して拒絶すれば懲罰的賠償も生じる可能性」があるのではないかと推測」している春霞さまよりは確実性の高い議論をしていると考えますが。


既にtrivialな領域に入っていますので、以上までであれば私もスルーして打ち切るところでした。
しかし、次の点については看過できません。
(そして次の点についてコメントする以上、上述の点についても認諾したと受け止められないようにするために私見を再論しなければならない(した)ことになります。)

4.
> 内田先生が平井宜雄先生に揚げ足取りのような批判を加え、平井先生が激怒されて以来、
> 内田先生を軽視する風潮が増えたということなのでしょう。
> IZW34さんが内田先生のご見解をほとんど覚えていないのは、
> 「無視していいんだよ、暗黙の了解だろ」という意図であると理解しました。

これは私の見方ではありません。個人的にも内田先生から民法を教わった人間ですし、このような評価をされることは心外です。(「侵害」と誤変換されました。これも適切な表現です。)
かかるコメントを放置することによって、私のハンドル名とリアルと同定できる方から「IZW134はこう思っている」と受け止められるとすれば私の個人的信用にも関わります。
私はそのようなことを考えていないと、明示的に異議を留めたいと思います。

前述2-2-4の通り、私見は内田先生のテクストの誠実(good faith)な読み方だと考えています。
無論、解釈の可能性は読者に開かれていますが、自らと異なる読み方をしていることを根拠に「軽視している」と評価するのは公正な議論の進め方だとは思われません。
撤回を要求します。

付言すれば、2000年の平井・内田論争については私は内田先生の見解を支持し(てい)ます。身近な研究者仲間とも意見/評価は分かれていますが、私は、内田先生が平井先生の主張を踏まえて新しい研究の方向性を示唆したのに対し、平井先生が応答し切れなかったものだと受け止めています。私は内田先生の示唆した研究の方向性は魅力的だと考えています。
スポンサーサイト
12:53  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(3)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

>IZW134様

はじめまして、kouteikaと申します。はてなの方で日記を付けている者ですが、こちらもよく拝見しております。

今回、記事本文でお書きのような議論があったことを初めて知り、春霞様の日記にも邪魔して、コメント等を読んでみました。春霞様のところでは、しばしばコメント不許可などが混じっていることから、少し全体が掴みづらいと感じますし、また、アメリカ法に関するご議論の部分など、素人の私では、当否を判断できるものでもありません。

しかし、内田貴先生の学説に関する部分について見る限り、どうも、IZW134様のおっしゃっりようのほうがバランスが取れており、春霞様のお考えは、やや牽強のきらいがあるように思いました。

お手元に内田先生の教科書類がなく、引用ができないことで、IZW134様が“身の証を立てられぬ”という面もあろうかと思いますので、以下に、『民法Ⅲ』よりの引用をお示しして、―もう手遅れなのかもしれませんが―ご便宜に供したいと思います。(なお、私がすぐに引けるのは、10年以上前の初版なのですけれども、問題の点にかぎって言えば、重大な学説変更があったとは聞きませんので、なお、典拠として有用だろうと存じます。)

『民法Ⅲ 債権総論・担保物権』(東京大学出版会 1996)


一、p114「【もう一歩前へ】種類債権の強制履行」より

(種類債権の債権者は、債務者からの引渡に固執するべきでなく、代替物が容易に入手できる限り、価格上昇前に代替物を手当して、債務者の損害軽減に努めるべきであるという考え方を紹介した上で)
「このような債権者の義務を、損害軽減義務(原文強調:引用者)という。わが国では、まだ正面から肯定されてはいないが、英米法やドイツ法のほか、国際取引に関しては確立した法理として肯定されている。さらに、わが国の判例も、実質的には、このような義務を前提とした判断をしていると解することが可能である。これについては、損害賠償のところで再び触れる(⇒157頁)。」


二、pp158-159「【もう一歩前へ】判例の新たな理解の試み」より

(損賠額算定基準時をめぐる議論を、賠償の範囲と損害の金銭評価に区分して整理し、特定物のばあいについて論じた後で)
「問題は種類物の場合である。これについて、これまでの学説は、判例の態度を十分説明できていないように見える(むしろこれまでの学説は、判例が一貫性を欠いていると非難してきた)。しかし、私の理解では、これまで必ずしも意識的に取り上げられなかった原則が、判例の基準時選択において重要な役割を果たしているように思われる。それが、損害軽減義務(原文強調:引用者)という原則である(⇒114頁【もう一歩前へ】)。
たとえば、売買契約で売主が債務不履行をする場合を考えると、目的物が種類物(代替物)の場合、買主は同じようなものを市場で調達することが可能である。このような場合には、買主としては、債務不履行の被害者だからといって、損害の発生を手を拱いて座視していてよいわけではない。なるべく損害の発生を食い止め、または最小限にするという義務を信義則上負っているというべきである。このような義務は、損害軽減義務と呼ばれ、英米やドイツでは明白に認められ、また国際取引に関する統一法として制定された国際動産売買ウィーン条約でも採用されている。
そして、我が国の判例においても、実は、暗黙のうちにこの原則が働いていると思われるのである。
(4)損害軽減義務による説明
すなわち、基準時を、解除時や履行期にとる裁判例は、明らかにそれらの時点で買主が契約を解除して代替取引を行うべきことを前提に、損害を算定していると見ることができる。
このような義務が肯定されるとすると(それは種類物売買においては通常の場合といえよう)、基準時を口頭弁論終結時とするのは、価格が上昇傾向の場合、買主を保護しすぎ、妥当とはいえない。
また、以上の原則からすれば、買主が現実に代替取引を行っている場合には、それが合理的なものである限り、現実の代替取引価格と契約価格との差額が損害額となるが、これもすでに判例が認めるとこである(大判大正7年11月14日民録24-2169)。」(以下略)


最後に、NBLの内田・平井論争についてですけれども、私も、はっきりと確かめたわけではありませんが、大方の反応は、「売り言葉に買い言葉の面は、まあどっちもどっちだが、実質的に争われている内容としては内田先生が説得的なのではないか。」という受け止め方だったのではないでしょうか。この点についても、IZW様のおっしゃりようが正確だろうと思います。
長文失礼いたしました。
kouteika |  2008年04月07日(月) 15:16 |  URL |  【コメント編集】

> kouteikaさま

コメントとリサーチ、ありがとうございます。

> IZW134様のおっしゃっりようのほうがバランスが取れており

そのようにおっしゃって下さるとほっとします。
なにぶん、現在日本語話者を簡単に捉まえることができない環境のため、自分の書いたテクストがきちんと通じるものになっていると分かるのは安堵します。(通じない相手もいますので…)

> 「このような債権者の義務を、損害軽減義務という。わが国では、まだ正面から肯定されてはいないが」

この記述は、決定的証拠と言えそうです。
もっとも、ルール比較の視点と機能的比較法の視点を区別できないと理解してもらえないのですが。

> はてなの方で日記を付けている

私のほうも読ませていただいておりました。
いずれこちらのほうもお邪魔させていただきますね。
IZW34 |  2008年04月08日(火) 14:21 |  URL |  【コメント編集】

>IZW134様

私の日記もお訪ねくださいましたようでありがとうございます(いただいたコメントについては、そちらでお返事してあります)。
上のような引用をだらだらとやると、私のほうが、それこそ“荒らし”風になってしまうのではないかと、躊躇したのですけれども、ご丁寧にお答えくださいましたこと、感謝いたします。
先方の日記を拝見すると、どうも内田先生の教科書について、都合のよいところを切り取って、それに基づいて立論しているきらいがあり(IZW134様ご指摘の、「わが国では、まだ正面から肯定されてはいないが」を略して引用しているあたりですね)、ああした議論の仕方は、ややフェアでないと感じた次第です。
kouteika |  2008年04月08日(火) 18:34 |  URL |  【コメント編集】

コメントを投稿する


 管理者だけに表示  (非公開コメント投稿可能)

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://izw134.blog74.fc2.com/tb.php/158-fa7b5e99

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | BLOGTOP | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。