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2008.06.05 (Thu)

【書評】三瀬朋子『医学と利益相反』

以前もちらりと書いたが、自分は医事法はきちんと勉強していない。
従って本書にコメントする資格があるかは疑わしいが、学会報告を聴くことができない替わりにここに書いておくことにも何かの意味があるかも知れない。
『医学と利益相反』
  • 『医学と利益相反--アメリカから学ぶ』
  • 三瀬朋子(著)
  • 弘文堂、2007年
  • ISBN=9784335354113
本書は、製薬業界に代表されるように医学研究が企業(起業)化するのに伴い、医療現場の医師も医学研究に経済的stakeを有するようになった「利益相反」問題につき、アメリカ(法)の状況について論じる。
自らの関与する未確立の治療法を、目の前の患者に勧めるか、という状況を「利益相反」として把握した上で、これに対するアメリカ法上の規制を、連邦法(主に医学研究にかかる連邦行政規則)、州法(主にインフォームド・コンセント法にかかる判例法)、民間団体等の倫理指針等の「ソフト・ロー」の3つのレベルで検討している。
著者は本書の課題を、ルールの内容とルールの形式とし、さらに前者につき、金銭的利益相反が法的に禁止されていないのは何故か、と、利益相反問題においてインフォームド・コンセントはどのように位置付けられるか、を挙げる。後者は特に、規制における「ソフト・ロー」の意義を問題とする。

問題状況の設定

さて。
冒頭に「本書にコメントする資格があるか疑わしい」と書いた。
議論の内容は理解はするのだが、その主張がすとんと腑に落ち切らない。
しかしその理由も明らかで、私が不勉強故に(*1)前提としている問題状況をきちんと把握してない、ということだろう。

無論、著者はきちんと問題状況の設定をしている。当該研究者及びその所属研究機関が経済的利害を持つベンチャーの製品に関する治験に、被験適格がないにもかかわらず患者を参加させ、死亡させたという、1999年のゲルシンガー事件から議論をスタートさせている。
ここで私が持つ疑問は、ゲルシンガー事件の問題をどこまで一般化できるか、である。この事件では、患者に治験適格がなかったことの他、既に重篤な副作用が認識されていたこと、インフォームド・コンセントが不十分であったこと等が指摘されており、「こりゃあマズイだろう」と一見して言えるような事案である。しかし、スキャンダルを契機として規制を組み立て始めると、過剰規制にならないか(*2)。異なる問題状況に対して規制の網をかけてしまうことになるのではないか。

これは恐らく、医療/医学における認識と「知」のあり方にも関わる。そこにはどうしても不確定な要素が残らざるを得ない。
  1. (ゲルシンガー事件のように)どう見てもこれはアウトだろう、という例がある一方で、
  2. ダメとも評価できるし、OKとも言える、という場合もある(*3)
  3. その先にはもちろん、誰が見てもセーフ、という状況もあり得る。
また、判断の対象についても、
  1. 患者の病状の局面における治験の適格性、というのと、
  2. 予定されている(未確定だが成功すれば好ましい結果の得られる)新療法への適応
という局面の差があるだろう。(*4)
これらを一緒に扱ってよいのだろうか、というのが医療現場を知らない素人にはよく分からない。

規制の必要性と目的

問題状況を問題として把握したとしても(「何とかしなければ!」)、それは規制が必要であることを必ずしも帰結しない。規制するとしても、直接の行為規制が必要であることを必ずしも帰結しない。
本書は、問題状況を指摘した上で「なぜ金銭的利益相反が禁止されていないのか」という問いを立て、これについて「バイオ産業の保護育成」という外在的政策目的を以て答える。しかし、このそれぞれの関係はこのように直結するのか。「問題→だから禁止」というのはショートカットではなかろうか。この問いに外在的政策目的を以て答えるのは「本当は禁止すべきなのだが」という考慮が隠れているのではないか。
本書でも前半で、幾つかの規制態様の候補について概観している(98~105頁)。しかし、一つ重要な政策の選択肢が抜けているように思われる。「放っておく」という選択肢である。別の言い方をすれば、「問題→だが放っておいても自ずから矯正されるだろう」とは言えないのは何故か、という疑問である。ゲルシンガー事件のようないい加減な治験をして安全性の確認が不十分な医薬品・療法を世に出せば、市場の力で淘汰されるであろうし、プラス、アメリカの状況なら民事サンクションだけでも恐るべきものを食らうであろう。「評判」や「信頼の低下」というインフォーマルなサンクションも無視できない。そうしたものに任せることはできないのは、何故か。

規制するとしても、直接の行為規制は必要か。むしろそれはエンフォースメント・コストが高くなってしまうのではないか。より控え目だが効果的に適切な行動を確保できる手段はあるのではなかろうか。
例えば、特許の申請の際に、適切なプラクティスに従っていることの証明を求め、これがないと特許を認めない、などというスキーム(*5)も考えられるのではなかろうか。

こうした疑問は、読み進めるとある程度解消する。州インフォームド・コンセント法を検討する箇所では、カリフォルニアのムーア判決を参照して、「医師の持つ金銭的インセンティヴを開示されることは、患者の権利に含まれる」とする。「患者の権利」を満たそうとすれば、例えば間接的スキームでは不十分だ、ということになる。(*6)
しかしさらに進んで、何故患者にかかる権利を付与するのか、という問いはどうだろうか。ムーア判決の理由付けは、この問いに対し(形式論としてはともかく)実質的政策根拠を説得的に提示しているだろうか。
患者Pは医師Dから、研究途上の新療法αを勧められた。DはPに対しαの利害得失については十分に説明したが、Dがαの成功につき有している金銭的利益については開示しなかった。Pは、この分野について詳しい別の医師Eに対しαに関するセカンド・オピニオンを求め、これに基づいてDの提案を受け入れてαを受けた。
この状況において、Pは一体「何」を「失った」のだろうか。Dの持つ利害をEが知っていた場合と知らなかった場合とで違いはあるか。(*7)
このように問題を設定した上でなお、「患者の権利」をrecognizeするとすれば、ある種の「人間の尊厳」の観念に訴えた上で、自らに対して侵襲をなす者にはある種の(経済的な?)「無垢さ」「清廉潔白性」「純潔性」を求める観念を導入する必要があるように思われる。もっとぶっちゃけた表現をすれば、「自分の利益を隠して俺の身体に触れるなんてキモチワルイ」という感覚を、正面から法益として認めることになる。(*8)
もっとも、「キモチワルイ」という感覚が原理的に正当化できないとしても、事実として多くの市民がそのような感覚を持てば、社会的・政治的回路を通じてやはり政策課題として上ってこざるを得ないかも知れない。これは前述の「評判」「信頼」との論点とも関係し、後述する。

もっとも本書もこの、何故患者にかかる権利を付与するのかという問いに無自覚なわけではない。特に終章で、開示義務の実際的効果について社会心理学的研究を参照しつつ検討する箇所でこの問題を前景化している。今後の課題とのことなのでさらなる検討を期待したい。

このように本書は、提示された問題状況との関連で、(拡張された?)「個人の尊厳」、「科学的客観性」、「バイオ産業の保護育成」という複数の政策目的を挙げる。
しかし、こうした政策目的を、アメリカ実定法の検討から抽出するというアプローチを採っているが故に、かなり後のほうになってから出てくる、という感もないではない。早い段階で、「ここで関連する政策目的はコレとコレとコレです」と明示的に提示した上で(*9)、その相互の関連をより踏み込んで検討してあると、本書の枠組みがより明確になったのではないか。
議論の順番として、「バイオ産業の保護育成」という外在的な政策課題があり、事実として先行してしまったが、「個人の尊厳」「科学的客観性」という別の価値で歯止めをかけようとしていますよ、というストーリー構成になっている、ように読むのだが、果たしてそうなのだろうか。ぱっと見でも、科学的客観性を欠く研究が「保護育成」に値するものとは言えないように思える。「キモチワルイ」感を無視した研究は、(それが承認された法益であろうとなかろうと)一般的支持は得られないかも知れない。こうした、複数ある政策目的の関係を、相互補完的なものとして早い段階で提示してあると、本書の構成はより堅牢なものになったように思われる。

「ソフト・ロー」の広がり

さて、本書は問題の解決にあたり、アメリカ医師会や世界医師会等の民間団体が発表した、倫理基準の果たす機能を強調し、これをソフト・ロー論のコンテクストに位置付けようとする。国家法(ハード・ロー)とは異なるソフト・ロー・アプローチの利点・欠点を指摘した上で、機能するソフト・ローのあり方として、ハード・ローとソフト・ローの協働、「ハード・ローと自主規制の共同規制」「規制された自主規制(regulated self-regulation)」を挙げる。(*10)
「ハード・ロー」か、ポリティクスか
本書は、AMA等の研究者団体による自主規制が、連邦厚生省によるフォーマルなルール(連邦行政庁によるregulation)策定の「脅し」の環境下で策定されたことを指摘し、以てハード・ローとソフト・ローの協働の事例として取り扱う。
そうであろうか。これはまさしく「脅し」なのであって、それ自体は法的なアクションではない(*11)。これは法的なスキームの連関の事例であろうか。政治的環境を察知した研究者団体がそれに先回りした、というポリティクス、と呼ぶほうが的確なのではなかろうか。もっともここら辺りは「ソフト・ロー」概念自体が発展途上であるために今後鍛えられるべき面ではある。

これは、団体側がかかる倫理規範を策定した動機にもかかわる。
彼らは(単に)、問題を放置することによって世間の風当たりが強くなり、自分たちの活動がし難くなることを回避しようとした、だけではないのだろうか(*12)。積極的に問題を解決しようとした、というより、利己的、自己保身的な行動だったのではなかろうか。ここでは前述の「評判」「信頼」という契機が絡む。
もっとも、「利己的なアクションだからケシカラン」と主張するつもりは毛頭ない。各々のアクターが自己利益を追求した結果として社会全体としての利益が達成されるのであれば、そうしたシステムは安定する。
自主規制のレベルないし単位
そう考えると、果たして「自主規制」をする単位は研究者団体である必要はあるのであろうか。もっと下のレベル(例えば大学や病院レベル)で倫理規範を策定し、それを公表してコミットメントを表明することで、より(先端的and/or実験的医療を求める)患者が集まるという「競争」の可能性が生まれるかも知れない(*13)。実際、本書は大学レベルでの倫理規定の存在を指摘している。

もっとも、こうした状況は別に医療・医学研究に特有ではない。例えば企業が、顧客の利益保護のために一定の行動やビジネス・スキームを宣言し、それにコミットする、というのはよく見られる現象である。これにより同業他社と差別化して既存顧客のロイヤルティーを確保するとともに新規顧客を集めようとしているわけだが、同業他社も同様の行動を起こして結果的に業界内で一定の方向に収斂するというのもよくある話である。機能する市場のよき面である。

また、以上のように考えると、初めのほうで提示されている自己規律は信頼の根拠たり得るかという問い(35頁)の答えも見えてくる。自己のルールに従っているということそれ自体ではなく、当該ルールのコンテンツ、それが外部から観察可能か、実際にそれにコミットしているかが問題なのである。
他の事例?
ところで、かかる「ハード・ローとソフト・ローの協働」というのは、別に医学研究の分野だけに見られる現象ではないし、最近の現象でもない。
  • 業界団体が自主規制を策定し、それが法的拘束力を持つというのは、ニュー・ディール期の全国産業復興法(NIRA)の採用したスキームである。
  • U.C.C.は、"usage of trade"という形で包括的に、あるいは"commercially reasonable"という文言を通じて個別的に、業界の商慣行を取り込んでいる。
  • 近時の行政実務(特に環境行政)における、協調的法執行。
こうした諸現象と、本書で取り扱われた法現象の間には、どのような異同があるのであろうか。

このような視角から眺めると、ニュー・ディール期の行政国家化の発展を理論的に再編成しようとした、プロセス学派が改めて重要性を帯びることになるやも知れない。

というわけでまとめると

さて。
冒頭に「本書にコメントする資格があるか疑わしい」と書いた。
この分野は不勉強なので知らなかった情報が書いてあり勉強になるのだが、ただ上に挙げたような“行間”が気になってしまった。恐らくこの“行間”は医事法研究者にとっては共有されているものなのであろうが、門外漢はそこで引っ掛かってしまう。
そうした“行間”を埋めてもらえれば素人にも助かるのだが、という無い物ねだりが本エントリの趣旨、ということになる。(*14)
Cigarette Company Paid for Lung Cancer Study - New York Times
By GARDINER HARRIS
Published: March 26, 2008
http://www.nytimes.com/2008/03/26/health/research/26lung.html?th&emc=th
At One University, Tobacco Money Is a Secret - New York Times
By ALAN FINDER
Published: May 22, 2008
http://www.nytimes.com/2008/05/22/us/22tobacco.html?_r=1&ex=1212120000&en=f207e2acce96fc17&ei=5070&emc=eta1&oref=slogin

【関連?】

謝罪する医師 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
ヴォランティアの成立し得る空間・補論 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
システムと「個人」の「過失」 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

【More・・・】

*1 あるいはかつて勉強したはずなのにきちんと頭に入っていない、ということもorz
*2 アメリカで言えばエンロン→SOX法のように。日本で言えばヒューザー→改正建築基準法のように。
*3 無論、このグレー状況は権力の源泉でもある。ここら辺の話はフーコー辺りを使って膨らませていくことができるかも知れない。
*4 従って、b.とii.を組み合わせれば、
  1. 既存療法では見込みがなく、研究中の新療法しか望みはない
  2. 既存療法もあるが十分な快癒は期待できない一方、研究中の新療法なら画期的な回復の可能性がある
  3. 確立した既存療法はあるが、研究中の新療法はそれに代替するものである
  4. 確立した既存療法がある一方、研究中の新療法の効果は全くの未知である
といった問題状況のグラデーションを想定できる。
*5 これは、先住民族の伝統的知識(traditional knowledge; TK)の保護のために幾つかの国が採用しているスキームである。
*6 逆にそうであるので、叙述の順番を工夫してもらえるともっと腑に落ち易かったのではないか、という感想も持つ。
*7 逆に、このようなセカンド・オピニオンを得ることで、より一般的には患者による医師/医療機関の選択が流動的になることで、問題が解決するのだとすれば、Google Health等の医療情報のポータビリティ技術の確立により問題状況それ自体が解消してしまうかも知れない。これに関連しては著者自身にもHIPPAの研究がある。
*8 ここら辺りは詰めていくと、他者論、コミュニケーション論にもつながっていくように思われるが…
*9 いや、このエントリを書きながら読み返すと確かにキーワードとしては出てきているのだが、ちょっと提示の仕方が弱いというか。
*10 ここら辺の話はネット規制絡みで最近の日本での話題でもある。
*11 こう書いたからといって"illegal"なアクションだ、と言っているわけではない。
*12 アメリカのコンテクストでは、寄付の集まり易さという財政的利害に直結し得る!
*13 なお、*7参照。
*14 蛇足だが、若干の訳語について。趣味の問題もあるのだが、こうしたほうが意図が明確に伝わるのでは、ということで。
「共同体」(126頁):原語は"(local-)community"。日本語で「共同体」というと社会学の術語のような、よく言えば中立的、悪く言えば余所行きの語感があるが、英語だと特にこのコンテクストでは、実際に顔が見える具体的な人間関係(の集積)を指しているように思える。カタカナの「コミュニティ」だと、そういうニュアンスも込めようとしているのかも知れないが、役所が無理矢理トレンディ(死語)な言葉遣いをしようとしているように思える。"local"という修飾が付いていることも考え合わせて、前記ウェットな泥臭さを表現しようとしてやれば、「地域社会」辺りではないか。
「代弁者」(250頁):原語は"advocate"とのことだが、意思を第三者に対して表明するという意味での「代弁」よりは、患者の利益の「擁護者」ではないのか。
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