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2008.03.20 (Thu)

【書評】大屋雄裕『自由とは何か』

渡米直前に頂いたので、そのまま荷物に入れて飛行機の中で読んだ。
一読して、個々の記述に特に異論があるわけではないものの、全体としてはストンと落ち切らないという感想を持った。
そのまま本棚にあったのだが、偶々Amazonで「おすすめ」されていて(笑)レビューが目に留まった。ちょうどよい機会なので再読して読書感想文を書いておくことにする。
『自由とは何か』
  • 『自由とは何か--監視社会と「個人」の消滅』
  • 大屋雄裕(著)
  • 筑摩書房/ちくま新書680、2007年
  • ISBN=9784480063809
もとより、本書の仮想敵(笑)である安藤馨氏の論稿は未読だし、氏の新著も読んでいない(物理的にアクセスできない)。従って著者の問題意識を共有できているかは怪しいのだが。

初読で腑に落ちなかったのは次の2点の感想を持ったから:
  • 監視社会はどこ行っちゃったの?(副題にもあるのに)
  • オチが弱いのでは?
再読してギャップは縮まったものの、完全には埋まり切っていない。

監視社会論

よくある監視社会(警戒/批判)論(本書では具体的には田島泰彦氏が参照される)に対し、この問題に対する著者の構え方には幾つかの特徴がある
  1. 監視は監視される者の益のためになされることがある。
  2. 監視する主体は国家とは限らない。
  3. 監視される者が監視されていることを意識しているとは限らない。
こうした認識から単純な監視社会批判論が斥けられるし、そのこと自体に異論はないが、「監視社会マズイっしょ」の反対は明らかに「監視社会セフセフ」とはならない。
(前記1に関連して)監視が善意や被監視者の欲望や民主的決定によって導入されることは、実際の監視が本当に被監視者の益となっているかは担保しない。
(前記3に関連して)監視されていることを被監視者が気付かなければ、彼が路地裏に入り込んだ/入り込まされたままそこから出てこないこともまた、気付かれないかも知れない。

ここでスルーされてしまっているのは、視線の一方性の論点である。この論点自体の存在は、ポル・ポトやベンサム/フーコーのパノプティコンを参照する形で取り上げられている。しかし、この論点は存在自体が指摘されるだけでそれ以上立ち入っては検討されない。(*1)
例えば、「監視は有益である/たりうる」という主張と視線の一方性の問題とを止揚する解として、如何に監視者を(被監視者が)監視するかといったアイディアも検討されてよいのではないか。

もっともこの点は著者の立論を崩すものではない。著者の主張は「たとえ監視が善意に満ちて被監視者が監視に気付かないとしても~」というものだからだ。

事前と事後

第2章後半から、著者の立論の軸は事前規制/事後規制の対抗に移る。
監視→先取りという形で監視の問題系を事前規制の問題系へと展開させていくわけだが、他方、事後規制(の容易化)のための監視の利用(の可能性)についても指摘される。すなわち、監視は事前規制・事後規制のいずれとも結びつき得るのであって、事前-事後という対抗軸に監視の問題系は必ずしも重なり合わないわけだが、以降の著者の立論はもっぱらこの事前-事後の対抗を軸として展開される。このことが監視社会論がどこかへ消えてしまったように思える所以ということになる。

ところでここで事前規制として主として想定されているのが、アーキテクチャによる支配である(*2)
ここで(認識なき)事前規制としてアーキテクチャが挙げられ、他方、法規制を事後規制として位置付ける(136頁)のはLessigに従ってのことだと思われるが、法規制にも事前規制は山ほどあることは指摘しておかないと行政法学者に叱られるような気がする(汗)(*3)

なぜ「個人」?

認識なき(特徴その1)事前(特徴その2)規制としてのアーキテクチャによる支配に対比される形で、第3章では、これとは相容れない(少なくとも緊張関係に立つ)事後的な責任の引き受けをコアとする擬制としての近代的な「個人」の観念が抽出される。

この部分が食い足りない。
アーキテクチャの権力の浸透に伴う「個人」の解体を「魅力的」としつつも、そのような立場は採用しないとする。しかし、「個人」とは擬制なのだ/擬制に過ぎないのだとすれば、何故そのような擬制を欲するのか、あるいは何故そのような擬制が望ましいのか、という論証が重要になるはずである。一応、
  • 近代派刑法学の徹底としての社会主義刑法の経験(165~168頁)
  • アーキテクチャ設計者の想定を超えた発展の可能性(の確保)(170~175頁)
  • 完全なアーキテクチャが実現していないこと(204頁)
  • 事前の効用の不可能性/事後の効用の変更可能性(同)
といった点が指摘されている(もちろんこれらは相互に関連しあっている)のだが、もっと紙幅を割いてよい論点のはずだ。(*4)

この点を補完する私論を試論すれば(*5)、本書で挙げられているのは、「個人」を想定することで、
  • 本人にとってご利益(ごりやく)があるのでは、という一人称の視点
  • 社会全体にとってご利益があるのでは、という三人称の視点
である。もう一つ、二人称の視点もあってよいのではないか。すなわち本書では責任を追及「される」ことの重要性が指摘されるわけだが、責任を追及「する」側にとっても(*6)「個人」を想定することはご利益があるのではないか。例えば、責任の追及先を、ホモ・サピエンスとしての個体の範囲と一致させるのは、端的に便利で明快なシステムだ。(*7)(*8)(*9)(*10)


「個人」が消滅すれば、あるいは斜め下へ連想を跳ばす

恒久的平和を願えば 道はひとつ
そのままのあなたでいて
なにも知らない無垢な瞳のまま
神に委ねてみてください
だが、この一節は次のフレーズから導かれていることを忘れるな、ということだろう。
愚民の皆さ~ん、こんばんは~!(*11)
あなたは愚民になりたいか。もちろん愚民になる自由も、ある。

【More・・・】

*1 と言うか、いつパノプティコンが出てくるかなーと思いながら読んでいたので、思いの外出てくるのが遅かった、という感想を読みながら持った。
*2 と言うか論述の順番としては、(超)監視→需要の先取り→アーキテクチャの権力→ここからその特徴としての事前性を指摘する、という展開になっている。
*3 と言うか(「と言うか」多いな(笑))日本人は事前規制好きだよねー。そして官製不況に陥るという罠。でもそれは司法改革でやめようってことじゃなかったのか。ここら辺は山岸先生の言う安心社会と信頼社会という話にもつながっていくだろうけれども、このエントリではやめておく。
『信頼の構造--こころと社会の進化ゲーム』
  • 『信頼の構造--こころと社会の進化ゲーム』
  • 山岸俊男(著)
  • 東京大学出版会、1998年
  • ISBN=9784130111089

*4 さらに背景には、著者と論敵である安藤氏とで社会に対する基本的な構えの差も見出すことができる。著者は基本的に「世の中はまだまだ発展の余地があるし、従ってどんな未来かは見通し尽くすことはできない」と発想するのに対し、安藤氏は「世の中は袋小路にあり、残っている問題は既存のパイをどう分配するかだけだ」という構えがあるのではないか。もっとぶっちゃけて言ってしまえば、「失われた15年」の前の記憶があるかどうかという、世代の差もあるのかも知れない。(もちろん冒頭で触れた通り安藤氏の著作を直接読んではいないので、ここは著者の紹介に依拠した憶測であり、修正することにやぶさかではない。)
*5 もちろん、とりあえずの思い付きであって他にもいろいろ可能性はあろう。
*6 この発想は、前述の「監視する者-監視される者」についての発想とパラレル。
*7 例えば、多重人格者が周囲にとって混乱をもたらすのは、この想定が崩れるからだ。
*8 これを敷衍していくと自己責任論になる--最近人気がないのだけれども(笑)
*9 メインストリームに関連性の薄い細部へのツッコミ・その1
もちろん現在の目から見ればそこで測定されている能力と官僚としての適正に関係があるのかどうか疑わしい部分もあるだろうが(詩作の力と行政官としての能力にどんな関係があるのだろう?)(39頁)
とりあえず言語運用能力は測定できるのでは。より積極的に、詩作と統治能力の連関を主張するものとして、
『平安朝の漢詩と「法」 』
  • 『平安朝の漢詩と「法」 --文人貴族の貴族制構想の成立と挫折』
  • 桑原朝子(著)
  • 東京大学出版会、2005年
  • ISBN=9784130361224
*10 メインストリームに関連性の薄い細部へのツッコミ・その2
ディプロマ・ミルの議論(41~42頁)をここに配置するのはスワリが悪い気が。このコンテクストで議論されているのは中間団体による資格認定の排他性=過少性であるのに対し、ディプロマ・ミルの問題点は資格認定の過剰さにある。
*11 「洗脳・搾取・虎の巻」楽曲制作:MOSAIC.WAV、企画・原作:StudioGIW(スタジオギウ)
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テーマ : 法律全般 - ジャンル : 政治・経済

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