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2008.03.09 (Sun)

裁判所のソフト・パワー

ここしばらく、アメリカ憲法訴訟におけるコモン・ロー的特性のモチーフを気にしている。
数週間前の木曜の憲法理論ゼミは、このモチーフに関連してStraussの論文(*1)がassignmentだった。
教授は説得的な議論だと思ってassignしたようだったが、学生側はなかなか懐疑的な態度を崩さなかった。自分は「実際に裁判所が行っている作業の記述理論としては説得的だが、新規novelな判断を基礎付けるための規範理論としては不十分」と学生側の懐疑を受けて私見を述べた。
自分「裁判所の判断に対する国民の信頼といった外在的要素が存在するだろう。」
教授「なぜ信頼している?」
自分「現代型憲法法理が形成されたのは20世紀中庸以降。ニュー・ディール以来の州法の改革者としての連邦のモチーフ、特に公民権運動で果たした役割の記憶があるのではないか。」
教授「どうやって実証する?」
自分「…orz」

確かに、司法部、特に連邦司法部、中でも連邦最高裁に対するアメリカ国民の信頼・威信は高い。政府の他の部門や法律家一般に対する信頼は必ずしも高くない(低い!?)にもかかわらず。
社会調査でもそのような結果が出ているし(*2)、2000年の大統領選挙が連邦最高裁判決で最終的に決着したことはまだ記憶に新しい(*3)。 最終的な結論の内容に不満がないわけではないが、それがしかるべき手続に則って下された決定である以上、それに従う、という観念と態度。その普及。(*4)

アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する - カッペの契約法
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-23.html
アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する - カッペの契約法・補論
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-128.html
先のエントリでは(国家の暴力装置に訴えてでも)裁判所の決定を貫徹しようとしない日本国政府の態度を遺憾としたわけだが、その際に念頭にあったのは(他の幾つかのブログでも見られたように)人種別学禁止という(連邦)司法部の決定を実行するために(連邦)軍が投入された事例が念頭にあったのは確かだ。

しかし、アメリカの裁判所も、少なくとも暴力や財政という面で大した力を持っているわけではない。「権力の三部門の中で、司法部が比較の余地なく一番弱い部門であることは、争うまでもなくたしかである。」「司法部は剣にも財布にも縁はな…〔い〕。司法部は、つまるところ力も意志ももたず、ただ判断するにすぎない…。しかも、その判断を有効に実施するためにも、結局は行政部の助けをかりなければならないのである。」(*5)
人種別学解消のための連邦軍の投入も、アイゼンハワー大統領の決断=執行部が重い腰を上げて行動に移った、という性質のものである。


だが他方、その威信、それに対する信頼、その判断に対して尊重すべきとの態度が社会内に広く存在すれば、たとえ物理的あるいは経済的な実際上の威嚇が特になかったとしても、裁判所はその判断を実現していくことができるのではないか。
このことを国際関係論の言葉を借りて表現すれば、司法部がソフト・パワーを有していると言える場合があるのではないか。

その上で前述の点を再言すれば、現代=20世紀の第4四半期以降のアメリカにおいては、裁判所、特に連邦裁判所は大きなソフト・パワーを享受していると評価できそうである。
しかし、歴史的に、常にそうであったわけではない。
間違いなく、1857年3月7日の時点では裁判所のパワーはゼロであっただろう。
1950年代でもかなり怪しい。何しろ、人種別学命令の執行のために連邦軍=ハード・パワーを投入しなければならなかったことは、ソフト・パワーの欠如を示す。
しかるに現代では、司法部はそれなりのソフト・パワーを持っていると言えそうで、それは何故か、パズルである。この間に何があったのか。私見の仮説は冒頭の通りだが、どうやって実証するか。歴史家ならぬ自分としては茫漠として雲を掴む気分。


その上で、日教組vsプリンスホテル事件におけるホテル側に対する「批判」の意義だが、このように考えると、裁判所のソフト・パワーを示すものだと解釈する可能性もありそうだ、というのが先のエントリで留保した点である。
しかし、ここで定式化した「ソフト・パワー」とは、たとえ自らの好まない結論であったとしても、決定に従うという観念ないし態度である(*6)
「裁判所の決定に従わないプリンスホテルはケシカラン」とホテル側を「批判」している者でも、半分くらいは攻守が変われば別のことを言い出すような気がする。今回は偶々裁判所の結論が自らの望むものであったから支持しているだけだとすれば、そんな態度は法の支配への忠誠ではない。
従って、先の解釈も眉に唾をつけて考えるべきだろう。

もっと言えば、日本人はもっぱら帰結の好ましさのみに着目する。それが出だされるforumを分節化して尊重する、という態度に薄い。これは左右を問わない。左の旦那様の言説が常に息詰まるものになる所以である。

【More・・・】

*1 David A. Strauss, Common Law, Common Ground, and Jefferson's Principle, 112 Yale L.J. 1717 (2003).
*2 ABAによる調査等を紹介するものとして、前田智彦「アメリカ国民の司法観と2000年大統領選挙」アメリカ法2001-2号326頁、野村賢「アメリカ国民の目から見たアメリカ司法」判時1729号14頁(2000年)参照。
*3
『ブッシュ対ゴア』
  • 『ブッシュ対ゴア--2000年アメリカ大統領選挙と最高裁判所』
  • 松井茂記(著)
  • 日本評論社、2001年
  • ISBN=9784535512986
同書でも司法部の威信はテーマの一つだった。
*4 別の例を挙げれば、前アラバマ州最高裁長官Roy S. Mooreをめぐる騒動がある。彼は、自らの宗教性を前面に出してアピールし、保守的な新南部の州であるアラバマの州最高裁長官に当選した。(アラバマでは裁判官を選挙で選出する。)当選後、裁判所の庁舎に十戒のモニュメントを設置したが、(連邦憲法上の)国教禁止条項に違反すると訴えられ、連邦裁判所での敗訴が確定した。しかし、彼はその判決の執行に従わず、結局州最高裁長官の地位を追われた。(モニュメント自体は、陪席裁判官会議が規定に従い長官の権限を剥奪する形で除去の決定をなしたため、組織体としては判決に従った形になった。)
注目すべきはその際のリーズニング。Mooreは国教禁止条項違反の行為をしたから職を失ったわけではない。そうではなく、(連邦)裁判所の決定に従わなかったことが、法のintegrityを維持し、法を尊重する倫理規範に違反する、との理由付けであった。宗教性を強調することで大衆的人気を得て三権の長にまで上り詰めた人物を、宗教関係の理由付けで免職するとすれば重大な政治的・社会的抵抗に遭うであろう。懲戒審判ではそうした理由付けは回避されたわけだが、替わりに採用された論理は、仮に一般市民の感覚とは異なる判断が下されたとしても裁判所の決定は尊重されなければならない、引いては連邦・州関係も含めた司法のintegrityは確保されなければならない、という観念・了解が市民の間で共有されていることを前提とする。そして実際、その通りであるようである。
*5 The Federalist, No. 78 (A. Hamilton).
『ザ・フェデラリスト』
  • 『ザ・フェデラリスト』
  • アレグザンダー・ハミルトン(他)(著)
  • 岩波書店/岩波文庫
  • ISBN=9784003402412
*6 その点で、オリジナルのナイの意味からのズレはあるので、ここで導入した「司法部のソフト・パワー」概念自体も鍛えていく必要がある。
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テーマ : アメリカ合衆国 - ジャンル : 政治・経済

22:22  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

やっぱりソフト・パワーってのはハード・パワーあってのものなのだろうと、例の事件を見て感じた。日本だと、小さくいえば執行法の問題。
takabee |  2008年03月15日(土) 15:03 |  URL |  【コメント編集】

●ハード・パワーとソフト・パワー

んーと、確かにハード・パワーとソフト・パワーのインタラクションという論点はあるのですが;
ハード・パワーが効力を発揮するには、別に実際に行使される必要はないのですよ。典型的には、別に軍事力は行使されずとも保持しているだけで侵略に対する抑止効果はあるわけです(というかたぶんそのほうが望ましい)。
国内的法執行の側面に翻訳すると、執行されるだろうからここは従っておこうというのは、まさしく国家の暴力装置の発動を予期して行動を決定しているわけで、ハード・パワーの問題。
このエントリーでソフト・パワー概念を導入することで解けないかなと思ったパズルは、現実的な法執行が(少なくともimminentには)予期されない場合でも、司法的決定に自発的に従う(べきと社会的に了解されている)場合があるのでは、という局面。
まぁ、(もっぱらドメスティックな問題ばかり考えているので忘れがちなのだけれども、)国際法というのはまさしくソフト・パワーだけでなんとかやっていこうワールドだよな、ということも思い出しました。
IZW34 |  2008年03月16日(日) 09:59 |  URL |  【コメント編集】

うーむ、しかし結局ソフトパワーとハードパワーの境界線はあいまいだよなあ。「司法的決定に自発的に従う(べきと社会的に了解されている)」ということを、少なくとも権力側が期待しているとき、それは良心の自由を侵害するおそれがあるし、法学者ないし立法者がそれを期待するのは怠慢というものだと思う。ただソフトパワーをまったく計算に入れないというのもナンセンスだとは思うが。
ソフトパワーが発揮されるときは、多かれ少なかれ、ハードパワー「的」「なにか」を背負っているのではと思う。国際法の場面でもそう変わらないのでは?
takabee |  2008年03月16日(日) 13:08 |  URL |  【コメント編集】

そこはそれ、元エントリ「カッペの契約法・補論」で政府の対応を「遺憾」と書いたように、規範論・政策論として「ソフト・パワーがあるから大丈夫だよねー」としているわけではありません。むしろ執行法の不備等、ハード・パワーの欠如が問題だとしている。本エントリは、(特にアメリカの状況について)記述・説明のためのツールとして、ソフト・パワー概念を立ててみたら使えないかなー、という趣旨。

むしろ日本に“ソフト・パワーへの過信”が蔓延しているのでは、という認識はあります。法律に「Aを禁じる」と書いたからAが世の中からなくなるって、そんなバカな話があるかい。(田中成明先生が「法規万能主義」として批判している点。さらに元ネタがあるかは未調査。)
(但し、元々「裁判所の」ソフト・パワーの話をしているので、法律一般のコンプライアンスの問題とはズレがあることに注意。)

なお、主権が正当性を主張/要求(claim)することは正当なのであって、「司法的決定に自発的に従う(べきと社会的に了解されている)」ことへの権力担当者の予期とそれに基づく行動自体は何ら良心の自由とは関係ありません。社会構成員の側には(権力担当者の正当性要求があってもなお)従わない自由がある限り。従わない自由があるはずにもかかわらず、自発的に従うとすればそれはどういうことなんだ、というのが、ソフト・パワー概念を導入して解きたい問い。
(無論、主権の側による正当性の独占--宗教国家とか、共産主義国家とか--が前提とされれば、また見え方は大きく変わってくる。)

国際法における実力行使は…すみません、自分で振っておいて何なのですがよく分かってません。国家実行がなければ法の存在自体も認識できないのは確かですが。
IZW34 |  2008年03月17日(月) 06:59 |  URL |  【コメント編集】

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