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2008.12.31 (Wed)

Re: thinking through models

秋の私法学会には(当然)出ていないし(*1)、言及されている遣り取りについても不知だが、年が変わる前に--日本時間では既に変わっているか--釣られておこう。

hopping around: thinking through models
「僕のペーパーで提示しているモデルは,現存する全ての法ルールを説明しきれるわけでは,当然ない。なのに,「そのモデルでは,この部分を説明できないから,根本的な欠陥がある」なんて批判されると,はぁ?と思ってしまうわけ。
現実世界ってのは,そのまま直視すると複雑怪奇だから,そのある側面を切り取って単純化したモデルを使って分析を行う。だから,モデルと現実とはイコールでは当然あり得ない。↑のような批判は,こういった「モデルを使った思考様式」というのを根本的に理解できていないから出てくるんぢゃないかと。」
http://www.law.tohoku.ac.jp/~hatsuru/hop/2008/12/thinking_through_models.html

もう少し質問者にfavoralbeな解釈もあるのではないか。「モデルを使った思考様式」からも「根本的な欠陥がある」と発言できる場合があるのではなかろうか。

差し当たり、説明理論に議論を限定する。
規範(理)論だともう一捻り必要(*2)

説明されるべき事象(の候補)として、(ここでは法現象が説明対象と措定されているから)ルールAとルールBがあるものとする。
モデルαを使ってルールAを説明するものとする。

1.
ここで、ルールAよりもルールBのほうが説明されるべき事象として重要だ、と考えられるのであれば、モデルαに基づくルールAの論証は、ルールBについて説明できないことを以て論難できる。
もっとも、いずれの事象が「説明されるべき」かはまた別の規範的考慮に基づくのであり、内在的には論証できない。

2.
モデルβを使ってルールBが説明されるものとする。
この場合、モデルαとβの関係が問題となる。
  1. モデルαとβとがそれぞれ独立にルールAとBを説明する場合:特に悩むことなく両者が併存する。
  2. モデルβはルールBと同時にAをも説明し、かつαと両立する場合:βはαの拡張であるといえる。βに基づく論証はαに基づく論証よりも優れたものだといえる。が、思考のsimplicity等のためにα-Aに(差し当たり)焦点を絞るということはあり得る話であって、これを棄却する必要はない。(*3)
  3. モデルβはルールBと同時にAをも説明し、かつαと両立しない場合:この場合であれば、βに基づく論証はαに基づくそれよりも優れたものであるといえる。論証(α, A)の論者はαを拡張したα'(*4)を以て、Aと同時にBを説明しなければ、論証(β, A, B)に負けてしまう。α'の提出に成功した場合が一番面白い。2つの理論が、いずれがより優れているかを競うことになる。(*5)

もちろんもりた先生は差し当たってルールBは置いておいてAに焦点を当てることが重要だと考えてかかる報告を為したのだろうから、「Bが言及されていない」というのは問題設定を共有していないないものねだりの議論ではある。(1)ルールAよりも/に加えてBに(も)焦点を当てるべきことの論証を伴っていない、(2)モデルβへの(少なくとも)見通しを伴っていない、ということが元記事のテクストに現れていないverbalないしnonverbalな要素から読み取れたからこそ、もりた先生は批判されているわけであろう。

そうした、行間を意図的に読まず、小学生のようにあえて表面上のテクストのみに反応しているという意味で、当エントリは釣られエントリである。

もちろん、私自身が「モデルを使った思考」ができていないという可能性は大いにある。なにしろ私は事案の細部にこだわりcasuistic-ityを以て旨とする、common lawyerなのである(笑)
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19:09  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.31 (Wed)

年の瀬、雪の上

当地の大晦日はきれいに晴れました。
裏庭 足跡
雪の上に、何かの動物の足跡
そういえばそんな絵本もあったな


雪の上の痕跡といえば;
派遣・期間工切りのニュースに触れた時、かさじぞうの話を思い出した(*1)
あれも、年を越せるかという話だった。
18:10  |  身辺雑記  |  TB(0)  |  CM(1)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.30 (Tue)

韻文

ことばのうつくしさ - 蒼き月の囁き
あきのゆうひに てるやまもみじ
こいもうすいも かずあるなかに
まつをいろどる かえでやつたは
やまのふもとの すそもよう

たにのながれに ちりうくもみじ
なみにゆられて はなれてよって
あかやきいろの いろさまざまに
みずのうえにも おるにしき
http://d.hatena.ne.jp/nayuta77/20081228/1230452372
…つい縦読みしてしまった。
ちはいお…千早×伊織か。
やあでも りなろる…なんかクトゥルフ関係の召喚の呪文みたいだ。 とか。

元記事は日本語の美しさに関する記事なのにorz
失礼しました(mOm)

テーマ : - ジャンル : 小説・文学

02:46  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.29 (Mon)

common law

夏に考え始めたままほっぽり出していたままの一般条項を少し進めようと思ったら、行路氏によって召喚されていたらしいのを見落としていた。
2ヶ月も後の遅レス申し訳ありませんが(*1)、年を跨ぐのはさらにみっともないので今の内に書いておきます。(*2)

フェアユースと「コモンロー」 - 下級役人のつぶやき - Yahoo!ブログ
「◆「コモンロー」とフェアユース
池田信夫氏のブログで、フェアユース規定について「英米法のコモンローの考え方」と述べられていることは、馴染みのない人には誤解を招くかもしれない。
「コモンロー」というと、広い意味で、判例を法源として認める英米などの法体系の総称として使われる場合や、いろいろな意味合いがあるが、狭い意味で使った場合には、ローマ法と異なる法理念によって解決が図られた判例の集積というような意味合いもある。そういうことで考えると、フェアユースは、実は、「コモンロー」ですらないらしい。
…フェアユース規定は、導入された1976年の米国の著作権法改正の議会資料を見ると、エクイティの原理の一つとして適用されてきたものらしい。エクイティ…〔とは〕要するに、コモンローとして判例で集積されてきた法体系でも解決ができなかった事柄について、そういう例外的事例について解決を図るための法理らしい。
……英米法の体系でも、漏れてしまっていた事柄を解決するための他の法理(しかも皮肉なことにローマ法!)の導入ということが、フェアユースの本質なのだとしたら、これを日本のような制定法の世界に持ってくることは……、いや、大変だ。エクイティが、王政のような集権権力を前提として、行政・立法・司法の三権の分立の狭間の法の欠如をカバーする理念ということなのなら、そもそも、制定法主義の日本とは、根本からぶつかることになるかもしれない。
少なくとも、中山先生の言うような米国法と同様のものを、ということにはならないだろう。やったとしても、米国法と同様の文言のものを、新たに制定法として設けるということに過ぎず(※)、効果は大きく違ってくるかもしれない。……
※ これは、全く意味合いが違う。制定法文化の中では、制定法で書いた要件は、その要件に従って解釈されるだけだが、米国法のフェアユースが、元々が制定法でも判例法でもカバーしきれない範囲を、別法理によって解決する仕組みなのだとしたら、同じ要件で日本法にフェアユースを導入したとしても、その妥当範囲がまるっきり異なることになる。 」
http://blogs.yahoo.co.jp/kouro16/17520284.html#18424141

コモン・ローの多義性

"common law"概念の多義性についてはWikipediaでも冒頭に一項割かれているが…ちょっとこの書き方だとぼやけちゃいますね。この点は英語版のほうがクリアに書いてある。(*3)
教科書的には(少なくとも)3つの"common law"概念を区別する必要がある。
  1. イングランドに端を発する・一定の共通する性質を伴った法体系、の全般、という意味での「英米法(*4)
    (反対概念は「大陸法Civil Law / Continental Law」)
  2. 裁判所が事件毎に下した判断から引き出される規範という意味での「判例法
    (反対概念は議会等による「制定法statutes / statutory law」
  3. イングランドの歴史上、2種類の裁判所の系列があり、その内の一方で運用されていた(判例)法を指す(最狭義の)コモン・ロー
    (反対概念は「エクイティ」)
(*5)

もっとも、概念としてはこのように一応区別できるのだが、英語としては同じ語であることも確かなので、実際のコンテクストでは微妙にイメージが重なってくる(重なってきてしまっている)場合もある。このような場合、訳出に苦慮することになる。
例えば、ある時点で採択された制定法により、それ以前の法状態とは異なる現行法の原則が宣明された場合、現行法たる制定法通用以前の法状態について「common lawでは~」と書かれていることがある(*6)。この場合、確かに「制定法がない時点での法状態」という意味では「判例法」なのであるが、そう訳出すると消えてしまうものがある。こうしたコンテクストで筆者が伝えたいのは「英米において中世以来、伝統的な」「制定法によって改革される以前の」(≒「古臭い」)というようなニュアンスである。この場合、前記A.とB.とが混交したような語法になっている(*7)

ついでに書いておくと;
経済学系統の人を中心に、「余計な政府規制をなくせ」という意味合いで、「政府規制をやめてコモン・ローに委ねよ」といったことが言われることがある(*8)
この場合、政府の規制は議会制定法の授権になるものだから(*9)、前記B.的な意味で(制定法ではなく)「裁判所による規範形成に委ねよ」とも了解できる。
しかし他方、この種の議論はしばしば政府の介入を嫌う経済的保守ないしリバタリアンからなされる。そして(現代において)コモン・ロー(B)がカバーする領域として代表的なものは財産権(物権)法・契約法・不法行為法といった民事基本法である。そうすると、「政府規制をやめて、民事基本法を基礎としてなされる私的秩序形成に委ねよ」という意味とも了解できる(*10)。そして日本のコンテクストに照らすと、日本において民事基本法がどのように供給されているかに鑑みれば、このような議論は強く意訳すると「民法に委ねよ」というものとも了解できる(*11)

エクイティの位置付け

さて、繰り返しになるが、コモン・ロー(C)とエクイティの区別についてである。
14世紀頃以来、イングランドでは2系統の裁判所が存在した。一方の系統の裁判所で運用されていた規範(のセット)が最狭義のコモン・ロー(C)であり、もう一方の系統の裁判所(大法官府)で運用されていた規範(のセット)がエクイティである。
そうした意味で、エクイティも判例法=コモン・ロー(B)である。

もっとも、現在においては裁判所も手続も原則として統合されている。また、実体的規範についてもエクイティ上のルールがカタマリとしてあるというよりコモン・ロー(C)由来のルールと混ぜこぜになっていることも多い(*12)
さらに、(「エクイティも判例法だ」といった舌の根も乾かぬ内で申し訳ないが、)議会が制定法を採択する際には従来の判例法=コモン・ロー(B)を念頭に置いてルールを策定する場合も多い。そしてそのように参照された規範がエクイティ上のものである場合もあり、すなわちエクイティ由来のルールが制定法として採択される場合もある(*13)
従って、現代においては、「かつて大法官府(という系統の裁判所)において運用されていた規範に淵源を有する、規範群」といった後ろ向きな形でしかエクイティを定義できないかも知れない。

また、エクイティがローマ法由来であるとの命題も支持し難い。
確かに、エクイティがローマ法とは無関係であるとも言い切るには勇気がいる。エクイティを管轄した大法官(Lord Chancellor)は、初期の頃、しばしば聖職者でもあったから、教会法経由でローマ法的要素が流入した可能性はある。しかし法制史家でない身では確実に言い切ることはできない。(*14)
だが、エクイティがローマ法由来とは言い難い、とはいえる。これは、大陸法--ローマ法を継受したはずの--が伝統的に知らない、英米法に特有の法制度が、しばしばエクイティ起源であることを指摘すれば足りる。例えば、信託、クラス・アクション、ディスカヴァリの如く。

フェアユースと裁判所の権能

さて、フェアユースの話に戻れば、行路氏の言及している「1976年の米国の著作権法改正の議会資料」というのはH.R. Rep. No. 94-1476(*15)のことだと思われる。
同レポートの65頁、フェアユースを規定する法案(後の1976年著作権法)107条の一般的背景を説明している箇所の第2段には"the doctrine is an equitable rule of reason"とのフレーズが見える。
この"equitable"を「エクイティ上の」と読むかどうかも論点である。英語で"equity""equitable"とあっても、コンテクストによって、前述の意味で一定のまとまりと特徴を持った法規範のセットという意味での「エクイティ」という意味なのか、あるいは(日常的な語法により近い)価値原理としての「衡平」という意味なのかは読み分ける必要がある(*16)。例えば同じ段落には"balancing the equities"とのフレーズがあるが、これは後者の意味であろう。

ただ、このコンテクストではどちらで読んだとしても問題はない。"an equitable rule of reason"というのは、従来の規範が内容はどのようなものであるのか--明確な線引きを伴ったルール化はできず、いくつかの考慮要素を念頭に事案に即して判断する--ということを述べるためにあるフレーズである。
三権との関係で、フェアユースが判例法--コモン・ロー(B)--であることは、同段も裁判所の運用について語り、より明確には前段で"case law"とあることから読み取れる。前述の通りエクイティも判例法たり得る。

以上のような意味で、フェアユースが「エクイティ」であるが故に「判例法とも制定法とも異なる」とするのは読み込み過ぎなように思われる。議会と司法部との対抗関係という観点からは、淵源において判例法=司法部起源であり、運用において司法部による規範形成の余地が大きい、という点を押さえておけば足りる。そしてこの内、前者についてはともかく後者--司法部主導の規範形成--については、日本法を含む大陸法も一般条項という形で回路を有している、という点は以前指摘した

だが、もう一捻りある。
エクイティも判例法だとしても、どのような判例法か?
エクイティの特徴として、裁量性や弾力性・柔軟性を指摘されることがある。救済を与えるかどうかは事案に即して裁判所が裁量的に判断し、救済の内容もall-or-nothingではなくやはり事案に即して謂わばテーラーメイドで決められる。
要するに、裁判所のフリーハンドの余地が大きい。
"common law power"(*17)に基づいて判例法を発展させる権能に加えて、英米の裁判所はかかるエクイティ上の裁量も有する。こうした幅広い権能を行使することで、英米法の法域において司法部は法の世界を駆動する中心としての役割を占めているわけである。
翻って、日本の裁判所にそのように振る舞う準備と覚悟はあるか。以前立てた問いに戻ってくることになる。

【関連】

一般条項の溜息 - アメリカ法観察ノート
一般条項の憂鬱 - アメリカ法観察ノート
コモンロー的なるもの? - アメリカ法観察ノート

テーマ : アメリカ合衆国 - ジャンル : 政治・経済

23:54  |  オレ辞書  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.27 (Sat)

冬物ディスカウント

今日もプラスの気温で本格的に雨。根雪がだいぶ減っていた。
こう気温の寒暖の差が激しいと、冷え込みそれ自体より体力が削られるなぁ。


アメリカ仕様のモノ(*1)は大味だが力づよく、着るものも例外ではない。
そこで、(基本的に着るものは古いものを日本から送って帰りに処分して身軽になろうと思っているのだが、)冬物のコートについては買って帰ろうと思っていた。実際、10年前の在外研究の際に買った(*2)コートは札幌でもずっと着ていたし(*3)

クリスマス商戦が終わってからのほうが安くなっているかと思い、今日まで待った。
確かにディスカウント率が大きくなっていた。
が、数日前に物色した時よりも吊してあった商品の数も明らかに減っていた。
皆な考えることは一緒である。
After a Season of Discounting, Stores Cut Some More - NYTimes.com
By STEPHANIE ROSENBLOOM
Published: December 26, 2008
"Now shoppers are expecting even better deals, as they do every year, in the post-Christmas clearance sales."
http://www.nytimes.com/2008/12/27/business/economy/27shop.html?ei=5070&emc=eta1
19:14  |  身辺雑記  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.25 (Thu)

法科大学院の規模

法科大学院の定員について、合計4000人程度がいいのではないかとは私も以前書いたが、日弁連も同じ数字を出してきた。
NIKKEI NET(日経ネット):社会ニュース-内外の事件・事故や社会問題から話題のニュースまで
「法科大学院の定員4000人に削減を 日弁連が意見書
日弁連は24日、新司法試験合格率が想定を下回っている法科大学院の入学定員について「充実した少人数教育を実現するには(現在の全国計約5800人から)4000人程度に減少させることが考えられる」とする意見書を公表した。
意見書は「大規模校でも100人規模の削減」を求め、削減の指標として司法試験の合格実績を過度に考慮してはならないと主張。「(定員は)教育の機会均等の理念から、全国に適正配置されることが必要。地方の法科大学院の犠牲の上に削減が進められてはいけない」としている。」
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20081224STXKD038724122008.html
意見書本体はここ


ダークな試算をしてみた。

現状の定員5825人を4000人にするとすると、74校に均等割りすれば24.7…一校当たり約25人の定員削減となる。
08年4月の時点で最も小規模なLSは定員30人なので25人削減だとインパクトが足りないので(*1)、一律30人削減することにする(*2)

現行定員30人の機関から定員30人を削減すると定員が0になるのだが、該当は9校。
これを、本年度(2008年度)の新司法試験の結果に当て嵌めると、該当校出身の合格者(≒かかる定員削減が行われた場合、新司に合格すべきなのにLS教育を受けられないであろう者)は(全2065人の合格者中)32人(約1.55%)となる(*3)

しかしこの計算はちょっとフェアではない。他の(=定員31人以上の)LSへのインパクトを十分に評価していない。そこで
  1. 08年司法試験の実受験者数をベースに(*4)
  2. 定員削減分を新司不合格者が優先して吸収するものとする。つまり
    1. 不合格者数が定員削減分以上の場合には、0
    2. 受験者数が定員削減分よりも少ない場合には、全合格者数を計上する
    3. 定員削減分を不合格者で吸収できなかった場合、吸収できなかった人数を計上する
    定員削減が行われた場合、適性・能力の向かない順にLSに入学できないだろうと想定するわけで、そんなに変な想定でもあるまい。
これに該当する者の数は、合計73人(約3.5%)(*5)
ちなみに1校当たり定員25人削減として同様の計算をすると、合計41人(約1.9%)(*6)


日経(*7)の記事では「大規模校でも」削減としているが、意見書では「大都市の大規模校において」100名規模の大幅な定員削減(4頁)としており、この記事の書き方はちょっと。
「大規模校ほど責任を果たす」として、総定員の削減数を現行の定員に比例配分するとする。現行定員30人の機関で9人の定員削減(*8)、以下同様に50人校で16人、100人校で31人、最大規模の300人校(*9)で94人の定員削減となる(*10)
これに対して前段と同様の計算を行うと、インパクトを受ける人数は合計6名のみ(*11)


意見書は、司法試験の合格者数を基準とする定員削減は「もともと大規模校に有利な」要素だから 定員削減は進まないだろうとする。
卒業生数=受験者数が増えれば合格者数が増えるのは当然だが、それでは合格についてはどうか。新司法試験の結果について、「大規模校ほど責任がある」といえるだろうか。
LS別の08年度新司法試験の合格率(*12)と実受験者数との相関係数を計算すると、+0.608。
LS別の合格率と学生定員との相関係数を計算すると、+0.585。
散布図はこんな感じ:
08新司LS別結果・散布図 (*13)

2006~08年の新司法試験結果を通算してみると、LS別合格率と(のべ)実受験者数との相関係数は、+0.639。
同じくLS別合格率とこの間の学生定員から予定される卒業生数(*14)との相関係数は、+0.642。(*15)
散布図:
06-08新司LS別結果・散布図

LSの規模と新司の結果との間には因果もあるかも知れない。例えば、「受験仲間が多いほど情報交換や勉強会がスムーズにいったりモティベーションを相互に高め合ったりできる」の如く。しかし本エントリではあくまでも相関しか見ていないのには注意。

さて、本当に「大規模校の責任」なのであろうか。
LS教員(及びそれに引き摺られた法学部教員)の不足(*16)指摘されている(というか現場レベルではずっと昔からいわれてきたのがようやっと表に出てきた)わけで、そうするとLSの数が減らない調整はやっても意味がない。

本エントリで指摘した点を知って知らずか、意見書は「定員削減の指標として、司法試験の合格実績を過度に考慮することがあってはならない。指標とされるべきは、あくまでも教育内容のいかんであって、試験の結果はその表 れの1つであるに過ぎない」と書いているのだけれども…それを日弁連が言っちゃあマズい気が。もし試験がLSの「あくまでも教育内容」を適切に反映できないのだとすれば、反映できるような試験を設計すべきなはずで。(*17)
今、日弁連(を含む法曹関係者)に求められているのは、法曹としての適性・能力を明確に定義することではなかろうか。
一連の司法制度改革でそうした作業が皆無だったとはいわないが、極めて抽象的な“題目”"Kanoncanon"に留まっていたように思える。
そうではなくて、具体的に測定可能な程度までにbreak downした上で、その内のどれが試験によって測定可能なのか、どれが教育機関で教育可能なのか、そもそも「試験」や「教育」という回路に馴染むものなのか、選り分けていく作業が必要なように思われる(*18)。さもなければ、いつまで経っても試験によって何が測定されるべきなのか、法学教育によって何が訓練されるのか、定義されない。
逆に、司法試験によって法曹としての適性・能力--の少なくとも重要な部分--を測定できていると考えるのならば--日弁連は新司法試験についてそのように評価していると了解しているが--、法科大学院の定員調整においてもこれが主要な指標となるのはやむを得まい。

【関連】

分母と分子 - アメリカ法観察ノート
法律家の能力 - アメリカ法観察ノート
Faculty Presentation - アメリカ法観察ノート

テーマ : ロースクール(法科大学院) - ジャンル : 学校・教育

22:14  |  日本社会  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.24 (Wed)

Happy Holidays!

買い出しに行ったら、「あなたにはお花をあげたい人、いますか?私にはいます。それは、あの、あなたです」とやよいの声で脳内再生されたのでつい買ってしまってアメリカ経済の景気回復に貢献する。
門松?
というか、門松に見えねくね?w
というわけで年明けまで置いておくことにする。
15:49  |  身辺雑記  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.23 (Tue)

HUSCAP

おぉ、HUSCAPがクリスマスモードだ。
HUSCAPトップ・クリスマスモード

テーマ : ★大学生活★ - ジャンル : 学校・教育

01:09  |  札幌  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.23 (Tue)

【陪審】死刑への“拒否権”【裁判員】

裁判員制度に対する反対論の論拠として、「意(良心)に反して死刑判決をすることを強いられる」という点が挙げられることがあるのだが、これがどうもよく理解できない。
ある裁判員が当該犯罪が死刑に値しないと思えば、端的に死刑判決に反対すればよいだけの話ではなかろうか。

このような主張をする前提として、刑事訴訟に対するイメージが、私の持っているものとちょっと違うのではないか--そして私の持っているイメージは近代司法の原則に従っていると了解しているのだが--と思うことがある。
刑事訴訟における裁判所=司法部というのは、要はハードルである。訴追者たる国家=執行部(≒検察)がこのハードルを越えることができなければ国家は刑罰権を発動できない、という話であって、それ以上でもそれ以下でもない。(無罪推定則に端的に現れているように)刑罰権の発動に当たっては発動しない方向でバイアスが掛かっている。「無罪」は「無実」を意味しない。従ってハードルがずり落ちてしまうのは問題だが、ハードルが上がる分には問題がない。だからこそ合衆国憲法では陪審審理を受けることが被告人の権利なのである。

で、冒頭のような反対論を言う人は、どうも刑事訴訟に於ける裁判所の機能を“ハードル”とはイメージしていないように思える。むしろ、“あるべき刑罰”を探求する主体、自ら的を狙っている者、のようなイメージなのではないか。だが私見によると的を狙っているのは検察なのであって、合議体はむしろ“的”のほうだ、ということになる。
故に、「コミュニティの価値観を持ち込む」非専門家の判断者(*1)が、「これは死刑に値しない」と思えば、死刑判断に投票しないという形でハードルが上がるだけであって、そこに何ら問題はない、はずである。

結果として死刑判決が減っても、それはそれで結構だろう。私は死刑廃止論に与しないという意味では存置論者に分類されるだろうが、伝家の宝刀は軽々しく抜かないことに価値があるのである。

逆に検察側が本気で死刑判決を狙うとすれば、確実に死刑判決に反対しそうな候補者を判断者から排除する戦術が執られるはずである。アメリカでも陪審員選任に際しての死刑反対論者の取扱や死刑の代替刑(*2)の説示については判例法が発達している(*3)。裁判員になりたくない人は死刑反対論を強硬に主張してみるのもいいかも知れない(*4)

しかし反対票を投じてもなお、多数決で破れて死刑判決となってしまったが(*5)、それを下した裁判体に自らも加わったことで当該判断を自らにattributeされるのはイヤだ、という向きもあろう。
そういう人向けには判決後に記者会見でも開いて「私は死刑判断に反対しました」と主張する場を与えるのが結構だろう。あいにく現行法上の守秘義務はそういう可能性を封じているが。そうやって「私は反対しました」という人ばかりになって「じゃあいったい誰が賛成したのだ?」と“藪の中”になるのもまた…司法にとっては最悪であるが、言論を封じるほうがもっと悪い。(*6)


ここまで話の枕のはずだったのだが…長いな(笑) ここから本題。

十二人の怒れる男」にあるように、米国において小陪審における伝統的な決定方式は12人の陪審員の全員一致である。
が、20世紀後半になってこの要請は緩和されている、ということも、例えば百選65事件(*7)で述べられている通りである。

が、死刑判断においては伝統的な12人全員一致の要請が維持されている。
従って、個々の陪審員は死刑判断に対して実質的に拒否権を有していることになる。
In Georgia, Push to End Unanimity for Execution - NYTimes.com
By ROBBIE BROWN
Published: December 16, 2008
http://www.nytimes.com/2008/12/17/us/17death.html?ei=5070&emc=eta1
ジョージア州のhigh-profileな事件で、とある陪審員が本当にこうした“拒否権”を行使して、死刑判決にならなかったという話題。
州立法部はこれを機に全員一致要件の緩和を狙っているようである。
が、本当にそうした立法が成立すれば、第6修正か第8修正かあるいは端的に第14修正かはともかくとして、陪審の構成に掛かる最高裁の判断を誘発することになろう。
要注目。

【関連】

【書評】藤田政博『司法への市民参加の可能性』 - アメリカ法観察ノート
【陪審】市民による量刑【裁判員】 - アメリカ法観察ノート
popular constitutionと「教育」 - アメリカ法観察ノート

テーマ : アメリカ合衆国 - ジャンル : 政治・経済

01:05  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.22 (Mon)

最近寒さネタしか書いていない気がするが

本日も最高気温-15度。というわけで相変わらず冬眠中のクマ状態。

こう寒いのはコタツがないからだ
と思い立ったのだが、生憎コタツを入手するのは禁止的にハードルが高い。
とりあえず電気ヒーターをデスク下の足下に置いてみる。
…ぬくい。もっと早くこうすればよかった。
おこたは偉大である。
23:43  |  身辺雑記  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.20 (Sat)

めでたさも 中くらいなり クリスマス

明日からまた冷え込むらしい。
なので食料を買い込んでおく。冬眠前のクマのようなものである。
実際、大学も今週までがテストだったから、週明け以降はほとんど人がいなくなることだろう。


アパートの近所にgrocery storeを含むショッピング・モールがあるのだが、というかそれがあるからこのneighborhoodに住むことにしたのだが;
クリスマス・シーズンということで書き入れ時
…のはずなのだが、不景気の為かイマイチ盛り上がりに欠ける気がする。
こちらの気のせいだろうか。
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2008.12.15 (Mon)

ちょ、おまっ

昨日は最高気温8度、雨。
今日は晴、最高気温-13度!
この差は何よ。と地元の人も言っていた。

アパート・大学間の足はバス。幸いバス停はアパートの目の前にあるが(*1)、寒い中外で待ちたくないので、通過時刻を睨んで直前に部屋を出るようにしている(*2)。が、エレベータが来ずに戸惑ったりすると、目の前をバスが走り去ってしまうことがあるのは悲しい。バスの本数自体はそこそこあるのだが便の時間的分散が偏っているので、次がしばらく来ないときはなおさら。

アパートの暖房のパフォーマンスが安定しないというか、日によって差が大きい。
同じ設定にもかかわらず、あちっ、華氏80度って摂氏に直すと25度超、夏日・熱帯夜じゃんという時もあれば、寒っ、全然パワー不足という時もある(だから数日前にヒーターを買った)
どうも、単純なことだが、外気温が暖かい日は暖房の効果も暖かく(暑く)、外気温が寒い日は暖房の効果も足りないようだ。
……それって期待されている効果と逆orz
20:10  |  身辺雑記  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.12 (Fri)

Dwokin v. Posner

シカゴ大のJurisprudenceの先生が喋りに来たので聴きに行く。
DwokinもPosnerも「裁判官はどのように思考するか」について書いているが、前者は倫理的規範論の議論をしていて、後者は記述理論・説明理論を探求しているんだから、そもそもすれ違っているんじゃね、という論旨。
…のはずなのだが、ペーパーを入手できていなかったにもかかわらず、ペーパーの内容自体は説明されなかったので、十分に咀嚼できていない。これから読む。

質疑応答も、両者はどう関連付けられるか、よりも、前者についてはどうだ、後者についてはどうだ、という感じだった(笑)

テーマ : アメリカ合衆国 - ジャンル : 政治・経済

23:53  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.12 (Fri)

Norton 360 v.2.0 + Firefox 3.0 =

ノートン 360 v.2.0を入れた。
Firefoxのパフォーマンスが目に見えて落ちた。
これはひどいというレベル。

テーマ : ソフトウェア - ジャンル : コンピュータ

22:23  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.11 (Thu)

労働関係への構えの相違

独自の視点とユーモアあるブログを書かれるちきりん氏が、ロスジェネを中心とする労働問題を軸に労働をめぐる言説を整理している。
ロスジェネ労働の問題とそれをめぐる言説、特にいわゆる左派からの主張に対して持つ違和感については以前から考えていて、いずれ機会があればエントリにしようと思っていたのだが、こう鮮やかに書かれちゃうともう書く必要はないなぁ、と。
そこで考え途中の事項をコメントしてそれに替えることにする。
見解の相違 - Chikirinの日記
意見A
  1. 給与とは、生活費分配ではなく、仕事の成果の対価である。
  2. したがって、誰であれ仕事の対価に見合わない不当に高い給与をもらうのはおかしい。
  3. 労働者は「仕事を通して得られるスキルと経験」を積むことにより、仕事の対価である報酬を増やすことができる。
  4. なんらかの追加的な支出を求める場合、どこからどうやって捻出するのか、ということをセットで考えるのは“責任ある立場の者として”当然である。
意見B
  1. 給与とは、生活必要資金の個人への分配分である。
  2. したがって、仕事の対価に見合う額より大きな額をもらっている人がいても、それがその人の生活に必要な額であるなら、その額は正当な額である。
  3. 労働者がスキルや経験を得て“より生産性の高い労働者”に進化することの利益は必ずしも労働者には還元されない。(得をするのは資本家ばかりだ。)
  4. 自分たちが要求することの財源を、要求する側が考える必要は全くない。それは為政者、経営者、権力者の仕事である。(彼らはそれだけの権限と富を独占している。)
〔引用者注:箇条書きをリストに書き換え、一部を省略した。〕 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20081211
左派(ちきりん氏の整理では「意見B」)の主張に対して「違和感」を感じる、と書いたように、基本的に自分は意見Aの立場であることは明らかにしておく。
意見Aのほうが経済関係のより包括的な記述だと考える。B4の主張は、本当にそれだけの財源があることを指摘しなければ他の主張は空論になるはずだし、にもかかわらずそれをしないとすれば無責任な言説であろう。あえて挑発的な言い方をすればその種の主張は「クレクレ厨」に見えてしまう、というのが自分の持つ「違和感」のコアにある。(*1)
しかし非難するだけでは建設的な批判にならないので、何とかその背景を理解した上で「オレはその立場は採らない」というのが知的に誠実な態度であろう。また、明らかに意見Bの立場には立たないのであるが、本当に意見Aでうまく行くのかについても若干の留保がある。というのが本エントリを書き(その元である思考を巡らせ)始めた趣旨。


ちきりん氏の整理を若干敷衍すると:

<相違点2’>ないし<相違点0>
給与の性質の前提、ないし基本的な構えとして、「これだけ働いたのだからしかるべき分をよこしなさいよ」という意見Bの論者はつきつめていくと、価値について労働価値説的に考えているのかな、というのがあるように思える。
他方、意見Aの論者は基本的に効用価値説的に考えているのではないか。「あなたがofferするものは他者からどれだけ欲されるか」が思考の出発点としてあり、そして労働もその例外として考えない。
つまり古典的なマル経と近経の対抗軸だなぁと。

こう整理してやると、意見Bの論者が「これだけ努力/苦労しているのに報われないのはおかしい」という方向に傾くのに対し、意見A的には「苦労と努力は違う。他者から求められような方向にエネルギーを向けなければ、どんなに汗をかいてもそれが他人から欲されるものでなければ無駄な苦労である」という方向になることも理解しやすい。

また、意見A的には「どれだけ求められるか」が重要であることから、労働問題の解決には総需要を増やすのが先決、という発想になる。意見Aがリフレ派と重なりやすい所以。(*2)

<相違点3’>ないし<相違点5>
企業・会社、ないしこれ(ら)と労働との関係の見方についても、両者は違う見方をする。

意見Aの論者は「自分が労働によって提供したものは、最終的に需要者に到達する」と考える。直接部門の労働者であればこの関係は分かり易いが、間接部門であっても“間接”的には。
もちろん独立自営業に従事していればその関係は明白なわけ(*3)だが、そうでない場合であっても、企業/会社というのは最終需要者へ到達する商品を生産するために必要な諸々のインプットを整序するデバイスとして位置付けられることになる。
もっと平たい言い方をすれば「お客さんの顔が見えている」。たとえ直接に顧客に接しない職種であっても。
こうした発想からは、労働者がもっと頑張って「会社に貢献」することは企業を通じて社会に価値を創出しているものと了解されるし、よって望ましい事柄となる。

意見Bの論者は、もっぱら労働者(=自分)と“会社”との二者関係に着目する。そして労働関係とは両者の間で資源を奪い合う闘争として把握されることになる。顧客という第三者は考慮に入っていないし、協力して価値を創出するという発想にも行かない。(*4)(*5)(*6)

この点の相違はさらに、「市場」それ自体への構えの差にもなってくる。
意見A的には、市場とは需要と供給とを効果的に(*7)結び付けるシステムであり、自らの可能性を広げる淵源であり、要は基本的に「よいもの」である。
他方、意見B的には、市場とは個々人には如何ともし難いという意味で(悪い意味で)所与のものであり、そしてその動かしがたさは(会社を通じて)労働者に抑圧的に迫ってくるもの(*8)として立ち現れる。基本的に「よくないもの」「やばいもの」であり、精々「必要悪」である。意見Bの論者がしばしば市場を「弱肉強食」の世界として描写し、「必然的に」格差をもたらす、と主張することにも通じる。(*9)


他方、労働者への分配の財源の大きさに関する<相違点1>については、ちきりん氏の見解に対して異論がある。
この点、意見Bが資本家から労働者への分配の移転によってパイが膨らむと考えるのに対し、「意見Aの方は、「労働者全体」に回る資金は同額である、という前提のもとで「労働者内でのその資金の分配方法」を問うてい」るとするが、これはちょっと違うと思う。
むしろ(意見Aのほうがより経済エコシステムを幅広く俯瞰していると考えれば)労働への分配は資本コスト等との均衡関係として決まる、という見解として理解すべきように思われる。(資本家から奪うことで?)いくらでも膨らませることができるとは考えていないという点ではちきりん氏の言う通りだろうが、一定の限界がある・無限ではないというだけの話であって、固定的なものと把握する必要はない。

故に、この点の対抗軸は右肩上がりの成長をしている間は隠蔽されることになる。
他方、大きな成長が望めない現時点における具体的な政策対応としても含意があり、それは具体的には例えば内部留保の取扱である。
賃金抑制はもう限界:NBonline(日経ビジネス オンライン)
大企業の内部留保で日本経済が肺炎になる
2008年8月20日 水曜日
竹中 正治
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20080818/168133/
企業が必要以上に内部留保を貯め込んでおり、その結果としてお金の巡りが悪くなって経済がshrinkしているのだとすれば、(税制等によって?)それを吐き出させる方向で政策誘導してやるのがよい、ということになろう(*10)

内部留保を吐き出させるという形で財源全体を膨らませれば、意見Aと意見Bとの相違は表面化しない。
もっとも、(先の記事で竹中氏も指摘しているが、)内部留保を賃金として吐き出すか配当として吐き出すかという違いはあり、ここで初めて「労働者か資本家か」という話になる。
ところで、「資本家」とは誰か、という点も確認しておくべき論点だろう。(*11)
ここで、外国資本を想定すると、「配当を増やす」とは所得が国外へ流出することを意味する(*12)
「機関投資家」とは、銀行や保険会社や年金基金--要するに“庶民”が“お金を預けている”ところなわけである。
日本では「資本家」が見え難い。意見Bの論者が想定するような、“庶民”の生活を脅かす諸悪の根源としての「資本家」は--自然人として(*13)--、本当にいるのであろうか。--たぶんいるのだろう。だとすれば意見Bの主張者が為すべきは、日本における「資本家」を炙り出すことだろう(*14)。しかし実際はそのような作業は行われることなく、「資本家」は「使用者」に、「労資」は「労使」にすり替わるのである。

他方、一般に“マッチョ”な意見Aの論者も、必ずしも「資本家」の視点から語っているわけではないことには注意を要する。むしろ、「勤勉」や「奉仕」といった労働(者)の倫理に立脚した議論を組み立てていることに留意すべきである。つまり、意見Aと意見Bとの相違は「資本家か労働者か」という対立軸ではなく、“労働者”のヴァージョンの相違として把握されるべきである。(*15)
関連して、政策対応との関係でも、意見Aの論者も、労働しない「資本家」にネガティヴなインパクトを及ぼす政策をしばしば支持することに留意すべきである。具体的には例えばフローベース課税の強化よりもストックベース課税の強化を重視することである。(*16)


なお、ちきりん氏のオチは、赤木智弘氏の怨嗟と基本的に同質のものであると了解する。後者を了解できない者は前者も了解できない。

【関連】

で、誰をひっぱたくのか - アメリカ法観察ノート
事物の見え方 - アメリカ法観察ノート
ヴォランティアの成立し得る空間・補論 - アメリカ法観察ノート
大統領選挙:若者の政治参加 - アメリカ法観察ノート
アメリカの裁判官(の給料)とリーガル・サービス市場 - アメリカ法観察ノート

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22:02  |  日本社会  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.03 (Wed)

ねんきん特別便

だいぶ冷えてきたねぇ。12月でこれくらいということは、年が明けるとさらに冷え込むだろう。
当地は内陸だから、札幌よりも寒さは厳しいだろう。札幌は雪は多いけれども気温はそれほどには冷え込まないからな。


日本ではもう忘れられた話題かも知れないが、ねんきん特別便が日本から転送されてきたので記入して送り返す。

それにしても、ねんきん特別便って事実行為としての「確認」の意味しかないんだよね? 膨大な事務コストをかけて、何やってんだろ、という気にもなる。この回答を最終的なものと「みなす」くらいの法律効果を付与すればまだコストをかけるに値するかも、とか思うかも知れないが。
もっとも、学生生活が長くて、ついでに、破綻することが予定されている賦課方式など愚かな制度以外の何ものでもないと考えているので、免除期間が長いのであるが。

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23:04  |  日本社会  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.12.03 (Wed)

受験生である前に、高校三年生であって欲しい

受験生である前に、高校三年生であって欲しい
高校三年の最初のホームルームでの、担任となった先生--30になったかならないか位のまだ若い、数学教師--の言葉。
それなりの進学校(もっとも浪人する者も多かったが)のコンテクストで出てきた言葉。このコンテクストで彼は自身の浪人経験にも触れていたし、その際に「もっと浪人生活を楽しめばよかった」という趣旨(と受け取った)も話していた(*1)(机に向かってするという意味での)勉強だけが人生ではないよ、と。味わいある含蓄を伴った言葉として受け取ったし、故に現在でもよく覚えている。


小学校から大学まで、印象的な記憶を残している教師が何人かいる。当人としては何気なく発した言動なのかも知れないが。
そのような師を何人か持てたということは、幸運であったとも思っている。

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