儀礼的関心?2008-07-01 Tue 01:57
(都市)社会学に「儀礼的無関心」という概念がある。
儀礼的無関心とは - はてなダイアリーこの考え方自体は−−自らの行動に鑑みても−−腑に落ちるのだが; そして以下の現象自体は比較文化や海外マナーブックでよく指摘されている事項だが; アメリカの社会の中に身を置いていると「本当か?」と思うこともある。 というのも当地では、見知らぬ他人と(も)目が合うと、前記ゴフマンの引用にあるように視線を逸らす前に、ニコリとスマイルする。それから、視線を逸らす。 日常的に。例えば、廊下ですれ違う際に。エレベーターに乗り込む際に。 そこにあるのを、単なる「無関心」としては把握しきれないように思う。 むしろ、スマイルすることで形式的な友好関係をアピールするという、「儀礼的関心」とでもいうべき現象があるのではないか。 …そこから先は社会学者さんよろしく。 「承認」はどのようにして得られるのか? - Thirのはてな日記 |
社交としての宗教2008-07-01 Tue 01:24
学部生の頃、ウェーバーを読んでいて(*1)、「教会」に関する記述がぴんと来なかった。何故、社会学における考察の対象として教会がそのように重要なのだろう? 宗教=内心に関わるのだから、外に現れた行動を対象とする学においては二次的な要因に留まるのではないか。
アメリカに来て、こちらの空気を吸って、認識を改めた。 宗教/教会というのは、教義=世界観の提供という側面も重要だろうが、実際の生活においては、まずは社交の場として機能している。(*2) 他の局面に加えて、教会((で)の活動)という形で、生活に側面が一つ加わっている。 ヨーロッパの状況はよく知らないが、同様か、本家らしくより強く浸透しているのだろう。 「承認」と「宗教」の関係を問うのならば、後者による世界観の提供という側面に行く前に、そのような「社交」の回路としての側面を無視すべきではなかろう。 もっとも、「社交」に注目するのであれば別に「宗教」にリンクさせる必要はない。生活に「宗教」という側面があれば「社交」の回路が一つプラスで確保される、ということである。 むしろ日本社会へのインプリメンテーションという意味では、宗教に限らず、「社交」の回路を見直す、というのが現実的な戦略として有効であろう。 戦後日本社会は生活における「社交」を徹底的に破壊してきた。大概の人付き合いを企業の内に回収していき(*3)、残ったのは子供の学校を通じた関係位であろうか。 そこで、新たな「社交」の回路を、多様・多元的に、展開するのが望ましい。(*4) で、その萌芽は既にあり、例えばネット上のつながりのオフ会などというのはそのようなものとして把握できるだろう。(*5)ということで、自分は現状を楽観はしていないがあまり悲観もしていない。 承認欲求って昔から政治権力や宗教の源泉だよ - 雑種路線でいこう 承認欲求・マズロー周りの、最近の記事クリップ&私見 - シロクマの屑籠(汎適所属)
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