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2008.06.12 (Thu)

事物の見え方

秋葉原の件についてもう少し書く。
書かざるを得ないこと自体、動揺が収まらないということだろう。
テロリズムの防ぎ方 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-209.html

日本の同僚とこの件についてメールを遣り取りしていて、随分と違った切り口で事態を見ているな、と感じた。
たぶん、彼女は社民主義に立つ労働法(?)研究者であるのに対し、自分はアメリカンな思考に毒された法と経済学崩れだという辺り、世界に対する基本的な視角が違うのだろうな、とは思うのだが;


今回の件についての諸々の見方について、幾つかの対抗軸を整理してみる。
別に前記同僚の見解はどれで、というものではなく、ブログ論壇に見られる諸見解につき、特に、自分はそうは捉えないのだが、という意見を理解するために。
また、以下の諸点はそれぞれ独立ではなく、ある軸においてある立場をとれば他の軸における特定の立場と親和性が高いということはあるだろう。
1. (a)行為者に着目するか、(b)行為に着目するか。
後者に着目する場合、行為者が「誰」であるかやその「動機」については二次的、ないしは置換可能な見方をすることになる。すなわち、世を儚んだ若者による攻撃と、カルト集団による攻撃と、ヤクザによる攻撃と、敵対的外国の工作員による攻撃とを、並列的な、基本的に同質のものとして把握することになる。

他方、「行為者」に着目する場合、彼がなす行為は絶望に駆られた逸脱行動であれば同様に横に並べて考察の対象となる。他者に無差別に斬り掛かる若者は滅多に出てこないとしても、硫化水素の流行も野良猫の虐待も同様の絶望の徴表として、並列的にカウントし得ることになる。
2. (a)社会・経済的要因に着目するか、(b)心理的・個人史的要因に着目するか。
この事件を「格差社会」論に引き付けて語るのは2(a)の典型である。その中でも、派遣労働一般の問題を論じるものから、彼の職場の状況を特定的に論じるもの(*1)まで幅がある。

他方、「心の闇」論は後者の典型。主流マスコミはこのタイプの言説が強調されているのではないか。(*2)

もっとも、2(a)と2(b)は独立ではなく、2(a)→2(b)というタイプの議論もある。
2(a)型の議論は社会一般の構造的問題を俎上に載せようとするのに対し、2(b)型の議論は「犯人」の「特殊性」に問題を還元しようとすることによって、ある種の“矮小化”を狙うことになる。

以上のようにこのレベルの議論は1(a)と親和性が高い。
自分は「無差別殺傷・通り魔事件」という点(1(b))に着目したので、昔から通り魔事件はあったし、むしろ近年は減少傾向にある、という認識(*3)を前提に、近時の(政策対応を含む)社会・経済状況の変化を強調する、冒頭で触れた同僚の議論に乗れなかったのだが、1(a)「行為者」に着目すると他者への攻撃以外の逸脱行動も俎上に載せ得るという点に気付いて反省した、のがこのエントリを書き始めた動機。

但し、このレベルの議論は1(b)とも結び付き得る。
「ダガーナイフ規制論」や「歩行者天国自粛論」「ネット監視論」は1(b)-2(a)のコンボ。
これに対して「ナイフを使う奴次第」論で反論するのは1(b)-2(b)。
3. 彼を、同様の属性を持った集団の(a)代表として位置付けるか、(b)特殊事例として位置付けるか。
前述の通り、2(a)は3(a)と、2(b)は3(b)と親和性が高いが、一応議論のレイヤーは分けることができる。
「同様の孤独感に苦しむ若者」などという議論は2(b)-3(a)のコンボ。

3(b)の主張には、「俺も苦しいが俺はこんなことしない」という同様の立場に立つと思われる人が自分は違うことをを強調するものの他、今後彼の勤務先がさらに強調されるようになった際にはそうした企業は彼の特殊性を強調するであろう、というのも含まれ得る。しかし、両者はその主張の動機と性質が大きく異なることにも留意。


自分は、今回の事件の理解という点では、基本的に1(b)の立場に立つ。
先に「関係者が粛々と司法手続を進めることを希望するに尽きる」と書いたのもその意。

理由は幾つかある。
教科書的には、行為を罰するという近代刑法の基本公式に従うから、ということになる。(「罪を憎んで人を憎まず」とはそういう意味であろう?)

もう少し踏み込めば、「自らの想像を絶する他者」の存在を認める--市民社会のルールに従って行動さえしていれば--という規範的要請の帰結でもある。
「想像を絶する他者」を「想像のつく範囲内」に押し込めようとするのはそれこそ暴力的な思考態度ではないのか? 「想像を絶する他者」を「想像を絶する他者」のまま取り扱うのが“彼”を個人として尊重することになるのではないのか。

そうだとすると私見は、特に政策対応のレベルで、1(a)-2(a)-3(a)型の議論(「若者は派遣労働等、経済的・社会的に不安定な地位を強いられており、それを改善していくことが肝要である」の類)を否定することになるのか、と問われそうだが、積極的に否定するつもりはない。
そこに社会問題が存在する以上、それへの対応を考えるというのはあってしかるべきものである。
しかし、そこに存在する社会問題は、今回の事件が起ころうと起こるまいと対応されるべき性質のものなのではないのか? にも関わらず、今このタイミングで「それ見たことか」とばかりにこの種の議論を持ち出すのは、自らの従来の政治的主張を強調するために今回の事件を利用しているようで、被害者側に心情的に寄り添う自分としてはある種の違和感を禁じ得ない。

当の悪戦苦闘している若者の立場からしてみても、「諸君をこのままの状態にしておくと俺達に牙を剥くから救済するよ」というのは、不誠実極まりない物言いではないのか。「諸君の現状がそれ自体として問題だから対応する」と言うべきところであろう。
ここでしたり顔で「格差社会」を云々するのは、「俺は違う」という同様の若者の主張(前述3(b))をどう把握するのだろうか。(1(a)-)2(a)-3(a)型の議論は、自らを安全地帯に置いたまま、当事者の“立場”を“代弁”しているとポジショニングしているようなのだが、そのズレに自覚的なのだろうか。

また、かかるショッキングな事件に依拠する形で「格差社会を放置すると社会不安が増大し」論を強調するのは、むしろバックラッシュを起こしかねないとの指摘も重要だと思われる。
加藤智大は格差社会の代弁者ではない - the deconstruKction of right
「「だったらセキュリティ上げて君たちを排除する」」(*4)
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080609/1212966011

さらに、社会・経済状況を改善して逸脱行動が減少させ得るとしても、それは確率的なものであって、ゼロにすることはできない。(*5)
仮にゼロにできると(しようと)すれば、逸脱行動を完全にコントロールしうるほど、社会・経済問題での政策実行と逸脱行動との間の因果関係についての確実な知見が存在する、というありそうもない想定に依拠するか、あるいは逸脱行動を許さないほど徹底的に個人の行動を管理するというむしろ望ましからざると思われる政策対応を採用することになる。
社会・経済問題への政策対応で逸脱行動を減少させるべきだとしても、(事実レベルでも規範レベルでも)ゼロにはし得ないと認識するのであれば、残った不条理にどう対応するのか、という問題は残らざるを得ない。残念ながら、そのような不条理は時々起こってしまうし、不条理をなくすことが不可能であるのならば、如何に不条理と付き合い、如何に不条理のダメージを軽減していくかが肝要であり、このレベルでのプラグマティックな政策対応も考えねばならない。
これが先日のエントリでタケルンバ卿の見解に同調した趣旨(*6)

【関連】

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テーマ : 政治・経済・時事問題 - ジャンル : 政治・経済

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