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2008.06.05 (Thu)

日本人の範囲

最大判決H.20.6.4・平成18(行ツ)135
最大判決H.20.6.4・平成19(行ツ)164
「裁判要旨
1 国籍法3条1項が,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した後に父から認知された子につき,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得した場合に限り日本国籍の取得を認めていることにより国籍の取得に関する区別を生じさせていることは,遅くとも平成15/17年当時において,憲法14条1項に違反する
2 日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した後に父から認知された子は,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したという部分を除いた国籍法3条1項所定の国籍取得の要件が満たされるときは,日本国籍を取得する」
available at
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20080604173431.pdf
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20080604174246.pdf
読み応えのある判決だ。非常に興味深い。
普段アメリカの判決を読み慣れていると、日本の特に最高裁判決の「そっけなさ」が物足りなくなるのだが(*1)、本件は裁判官ががっぷり四つに組んで見解を詳細に著しており、充実した判示である。

恐らく、人権各論(平等)のコンテクストよりは、憲法訴訟総論や、法学基礎論/法解釈方法論に関する事例における重要性を持つものとして位置付けられていくのではないか。
詳細な分析は今後なされるであろうが(*2)、一読して引っ掛かった点を自分の興味に引き付けて若干のコメントを。
国籍法もやはり勉強したことがないので明らかな誤りにはご教示を頂ければ幸甚です。

国籍の獲得の性質

平等条項の関係では、性別×嫡出性という二重の問題が組み合わさっているものの、判断枠組自体は特に目新しくはないだろう。
従って主戦場は、かかる区別の効果の評価ということになる。

法廷意見は国籍の獲得を「権利right」として、反対意見(藤田(結果同意)意見を含む)は「特権privilege」として、把握しているのが、判断を違えた最も基本的な態度の違いであるように思える。
前者は、国際人権法(人権関連条約)を参照していることから伺える。後者は、甲斐中他反対意見の「国籍法は,…どのような要件を満たす場合に,日本国籍を付与するかということを定めた創設的・授権的法律であ…る」という判示に最も明確に現れている。

ただ、法廷意見のように解したところで、これが、抽象的な「(いずれかの)国籍を取得する権利」(=無国籍にならない権利)を指すのに留まるのか、さらに踏み込んで「日本国籍を取得する権利」を意味するのか、については読み方が分かれるかも知れない。
判示の文面からは少なくとも前者は読み取れるが、後者を読むには若干強い読み込みが必要なのではないか。
さらに後者のように解したところで、それが請求権的なものか、確認的なものか、あるいは形成権的なものか、という論点もあろう。

ところで
「 日本国籍は,我が国の構成員としての資格であるとともに,我が国において基本的人権の保障…を受ける上で意味を持つ重要な法的地位でもある。」
これは書き損じ? 外国人の人権享有は、権利の性質上制約される場合があるとしても、一般論としては肯定される、というのが判例・通説だと理解しているのだが(*3)。その割には法廷意見もその他の意見もさらっとこう書いて誰も気にしていない。

社会状態の位置付け

立法目的と、社会の変化によるその変容について、法廷意見はやや詳し目の判示があるのだが、これをどう理解すべきか。
キーワードは「日本社会との結び付き」である。この有無ないし程度が評価の鍵となっているのだが、これは一体どういう性質の議論なのか。
もっぱら、立法事実レベルの問題として、国籍法にどのような要件を定立すれば合理的な「日本社会との結び付き」ありと言えるか、という問題として取り扱っている、というのが普通の読み方であろうか。

だがもっと踏み込んで、個別の事案において「日本社会との結び付き」を判定すべきという話にまで行くのか。これは立法裁量の範囲の問題として処理すべきか? 先の「日本国籍を取得する権利」とその性質の問いに絡む。
逆に、「日本社会との結び付き」がないと言える場合が出てきたらどうするか。

海外の動向、社会科学的データの取り扱い

海外の動向や、社会における国際的な人の移動、国際的家族形成、非嫡出子への見方などについても、法廷意見や横尾他反対意見が参照している。
これは、法的議論においてどのような性質を持った参照なのか。立法事実の探究の一要素?
アメリカの一部の(だが極めて有力な)議論のように、そういうソースを参照すること自体が問題だ、という観念はいずれのサイドにもない(両者の差異は、データから引き出される教訓や論点との関連性についての評価の差に留まる)とは言えそうだが、それ故に、かかる参照の性質・正当性の根拠がかえって曖昧である。
【2008/06/06 23:07追記】
特に、海外の動向の参照について、本件が国籍という国際的アスペクトを持つ事案であったことが何らかのrelevancyを持っているのか、が気になった。
ということを書き忘れていた。

違憲判断と実定法規範の解釈の構造

本判決は、違憲な条項に対する司法的救済を明確に与えた点も大きい。
ただ、その際に、あくまでも実定法規範(国籍法3条1項)“限定解釈”という手法を採っていることにも注意が向く。
つまり、与えられている救済(remedy)は通常の司法的救済の範囲内ですよ、ということを強調している。より明確にいえば、原告らに国籍が付与されるのはあくまでも(再解釈された)国籍法3条1項の効力によるものであって、それとは無関係に「憲法から直接引き出される司法権の効力」のようなものに基づいているのではないのだ、ということである。

憲法訴訟において違憲判断する場合一般を念頭に置いてこのようなアプローチを採用しているのか。あるいは、国籍については憲法上、明文で「法律でこれを定める」(10条)とある以上、何らかの法律の条文に引っかける必要があると考えられた、国籍関係の特殊な問題なのか。分析と見極めが必要であろう。

他方、かかる解釈が可能であるかについては、法解釈方法論によって評価されるべきだが、最近はあまり人気のないテーマではある。

【関連】

国籍法最高裁判決雑感 ~ Don de Fluir - いしけりあそび - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/isikeriasobi/53769250.html
代理人の弁護士さんのブログ。
国籍法違憲判決 - 企業法務戦士の雑感
日本人の範囲・枕 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
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23:34  |  日本社会  |  TB(1)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.05 (Thu)

日本人の範囲・枕

出身は普通の高校…のはずだが、個性的な教師が独自の授業を展開する学校で、その中でも独自性が強かったものに社会科の中の「倫理」がある。
履修したことがある人は分かるだろうが、この「倫理」という科目、中身は要するに思想史である。
そして我々の履修した「倫理」は、教科書なんか脇へ追いやって、その先生が独自の授業をしていた。1学期は西洋思想から、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを中心に古代ギリシア思想と、キリスト教思想・神学(*1)。2学期は東洋思想だということで、儒学と老荘を中心に古代中国哲学と、仏教哲学。
社会科が公民と地歴に分かれる前で、基本的に「倫理」は大学受験に関係ないと思われていた(*2)からそんな授業も全くOKだった。今ではセンター試験の選択肢を増やすために重要性が高まっているはずだから、生徒側の突き上げでそんなわけにもいかないだろう。学生の側も受験に関係ない授業をわざわざ選択するくらいだから、その授業を受けているクラスは変わったヤツや面白いヤツが多かった。自分が前者に属するのは言うまでもない。

さて、3学期はどうするかということで、日本人の思想をやるんだ、と。
その前提として「日本人」とは誰だ、ということが問題になるが、さしあたって「日本語を母語とする者を日本人と想定する」ということで、議論を進めた。
実際には、福沢諭吉を読んだ。詳しい内容はもはや覚えていないが、今から思えばたぶん丸山の読み方を下敷きにしていたのではないかと思う。


この、日本語を母語とする者を日本人として把握する、という考え方は、非常に説得的であり、印象に残った。
簡にして要を得ている。
なおかつ、「日本人」を考えるに当たって国家を前提とする必要もない。
包摂の基準として過剰なものを要求せず=外延が狭くなり過ぎず、にもかかわらず一定の共通の基盤も提供している。

無論この基準は、近代的国家・国籍の成立する以前も含めた「日本」をも同定するメルクマールとして立てられている。
また、「国語」の概念自体、近代になって構築されたものであり、そう単純ではない。
現代の世界には複数の言語が使われている社会/国家も少なくないことも了解している。
従ってその取扱には慎重さを要するが、それでもなお、この「日本語を母語とする者」という基準は、rule of thumbとして、自分が「日本」を考える際の思考の出発点としているし、また社会現象の理解に当たって「言語」の問題系を気にする背景にもなっている。
404 Blog Not Found:News - 婚姻要件の国籍法規定は違憲
「まだどこの国でも導入されていない「被教育主義」を採用すらして欲しいと思う。例えば義務教育を一定以上受けた児童は、成人時に国籍取得の権利を与えるなど。私は3年でいいと思う。15歳までなら、これだけあれば日本語を一生忘れないほど身につけることが出来るし、上記のようなケースにも対処できる。」
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51061043.html

【関連】

日本人の範囲 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

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23:32  |  日本社会  |  TB(1)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.05 (Thu)

【書評】三瀬朋子『医学と利益相反』

以前もちらりと書いたが、自分は医事法はきちんと勉強していない。
従って本書にコメントする資格があるかは疑わしいが、学会報告を聴くことができない替わりにここに書いておくことにも何かの意味があるかも知れない。
『医学と利益相反』
  • 『医学と利益相反--アメリカから学ぶ』
  • 三瀬朋子(著)
  • 弘文堂、2007年
  • ISBN=9784335354113
本書は、製薬業界に代表されるように医学研究が企業(起業)化するのに伴い、医療現場の医師も医学研究に経済的stakeを有するようになった「利益相反」問題につき、アメリカ(法)の状況について論じる。
自らの関与する未確立の治療法を、目の前の患者に勧めるか、という状況を「利益相反」として把握した上で、これに対するアメリカ法上の規制を、連邦法(主に医学研究にかかる連邦行政規則)、州法(主にインフォームド・コンセント法にかかる判例法)、民間団体等の倫理指針等の「ソフト・ロー」の3つのレベルで検討している。
著者は本書の課題を、ルールの内容とルールの形式とし、さらに前者につき、金銭的利益相反が法的に禁止されていないのは何故か、と、利益相反問題においてインフォームド・コンセントはどのように位置付けられるか、を挙げる。後者は特に、規制における「ソフト・ロー」の意義を問題とする。

問題状況の設定

さて。
冒頭に「本書にコメントする資格があるか疑わしい」と書いた。
議論の内容は理解はするのだが、その主張がすとんと腑に落ち切らない。
しかしその理由も明らかで、私が不勉強故に(*1)前提としている問題状況をきちんと把握してない、ということだろう。

無論、著者はきちんと問題状況の設定をしている。当該研究者及びその所属研究機関が経済的利害を持つベンチャーの製品に関する治験に、被験適格がないにもかかわらず患者を参加させ、死亡させたという、1999年のゲルシンガー事件から議論をスタートさせている。
ここで私が持つ疑問は、ゲルシンガー事件の問題をどこまで一般化できるか、である。この事件では、患者に治験適格がなかったことの他、既に重篤な副作用が認識されていたこと、インフォームド・コンセントが不十分であったこと等が指摘されており、「こりゃあマズイだろう」と一見して言えるような事案である。しかし、スキャンダルを契機として規制を組み立て始めると、過剰規制にならないか(*2)。異なる問題状況に対して規制の網をかけてしまうことになるのではないか。

これは恐らく、医療/医学における認識と「知」のあり方にも関わる。そこにはどうしても不確定な要素が残らざるを得ない。
  1. (ゲルシンガー事件のように)どう見てもこれはアウトだろう、という例がある一方で、
  2. ダメとも評価できるし、OKとも言える、という場合もある(*3)
  3. その先にはもちろん、誰が見てもセーフ、という状況もあり得る。
また、判断の対象についても、
  1. 患者の病状の局面における治験の適格性、というのと、
  2. 予定されている(未確定だが成功すれば好ましい結果の得られる)新療法への適応
という局面の差があるだろう。(*4)
これらを一緒に扱ってよいのだろうか、というのが医療現場を知らない素人にはよく分からない。

規制の必要性と目的

問題状況を問題として把握したとしても(「何とかしなければ!」)、それは規制が必要であることを必ずしも帰結しない。規制するとしても、直接の行為規制が必要であることを必ずしも帰結しない。
本書は、問題状況を指摘した上で「なぜ金銭的利益相反が禁止されていないのか」という問いを立て、これについて「バイオ産業の保護育成」という外在的政策目的を以て答える。しかし、このそれぞれの関係はこのように直結するのか。「問題→だから禁止」というのはショートカットではなかろうか。この問いに外在的政策目的を以て答えるのは「本当は禁止すべきなのだが」という考慮が隠れているのではないか。
本書でも前半で、幾つかの規制態様の候補について概観している(98~105頁)。しかし、一つ重要な政策の選択肢が抜けているように思われる。「放っておく」という選択肢である。別の言い方をすれば、「問題→だが放っておいても自ずから矯正されるだろう」とは言えないのは何故か、という疑問である。ゲルシンガー事件のようないい加減な治験をして安全性の確認が不十分な医薬品・療法を世に出せば、市場の力で淘汰されるであろうし、プラス、アメリカの状況なら民事サンクションだけでも恐るべきものを食らうであろう。「評判」や「信頼の低下」というインフォーマルなサンクションも無視できない。そうしたものに任せることはできないのは、何故か。

規制するとしても、直接の行為規制は必要か。むしろそれはエンフォースメント・コストが高くなってしまうのではないか。より控え目だが効果的に適切な行動を確保できる手段はあるのではなかろうか。
例えば、特許の申請の際に、適切なプラクティスに従っていることの証明を求め、これがないと特許を認めない、などというスキーム(*5)も考えられるのではなかろうか。

こうした疑問は、読み進めるとある程度解消する。州インフォームド・コンセント法を検討する箇所では、カリフォルニアのムーア判決を参照して、「医師の持つ金銭的インセンティヴを開示されることは、患者の権利に含まれる」とする。「患者の権利」を満たそうとすれば、例えば間接的スキームでは不十分だ、ということになる。(*6)
しかしさらに進んで、何故患者にかかる権利を付与するのか、という問いはどうだろうか。ムーア判決の理由付けは、この問いに対し(形式論としてはともかく)実質的政策根拠を説得的に提示しているだろうか。
患者Pは医師Dから、研究途上の新療法αを勧められた。DはPに対しαの利害得失については十分に説明したが、Dがαの成功につき有している金銭的利益については開示しなかった。Pは、この分野について詳しい別の医師Eに対しαに関するセカンド・オピニオンを求め、これに基づいてDの提案を受け入れてαを受けた。
この状況において、Pは一体「何」を「失った」のだろうか。Dの持つ利害をEが知っていた場合と知らなかった場合とで違いはあるか。(*7)
このように問題を設定した上でなお、「患者の権利」をrecognizeするとすれば、ある種の「人間の尊厳」の観念に訴えた上で、自らに対して侵襲をなす者にはある種の(経済的な?)「無垢さ」「清廉潔白性」「純潔性」を求める観念を導入する必要があるように思われる。もっとぶっちゃけた表現をすれば、「自分の利益を隠して俺の身体に触れるなんてキモチワルイ」という感覚を、正面から法益として認めることになる。(*8)
もっとも、「キモチワルイ」という感覚が原理的に正当化できないとしても、事実として多くの市民がそのような感覚を持てば、社会的・政治的回路を通じてやはり政策課題として上ってこざるを得ないかも知れない。これは前述の「評判」「信頼」との論点とも関係し、後述する。

もっとも本書もこの、何故患者にかかる権利を付与するのかという問いに無自覚なわけではない。特に終章で、開示義務の実際的効果について社会心理学的研究を参照しつつ検討する箇所でこの問題を前景化している。今後の課題とのことなのでさらなる検討を期待したい。

このように本書は、提示された問題状況との関連で、(拡張された?)「個人の尊厳」、「科学的客観性」、「バイオ産業の保護育成」という複数の政策目的を挙げる。
しかし、こうした政策目的を、アメリカ実定法の検討から抽出するというアプローチを採っているが故に、かなり後のほうになってから出てくる、という感もないではない。早い段階で、「ここで関連する政策目的はコレとコレとコレです」と明示的に提示した上で(*9)、その相互の関連をより踏み込んで検討してあると、本書の枠組みがより明確になったのではないか。
議論の順番として、「バイオ産業の保護育成」という外在的な政策課題があり、事実として先行してしまったが、「個人の尊厳」「科学的客観性」という別の価値で歯止めをかけようとしていますよ、というストーリー構成になっている、ように読むのだが、果たしてそうなのだろうか。ぱっと見でも、科学的客観性を欠く研究が「保護育成」に値するものとは言えないように思える。「キモチワルイ」感を無視した研究は、(それが承認された法益であろうとなかろうと)一般的支持は得られないかも知れない。こうした、複数ある政策目的の関係を、相互補完的なものとして早い段階で提示してあると、本書の構成はより堅牢なものになったように思われる。

「ソフト・ロー」の広がり

さて、本書は問題の解決にあたり、アメリカ医師会や世界医師会等の民間団体が発表した、倫理基準の果たす機能を強調し、これをソフト・ロー論のコンテクストに位置付けようとする。国家法(ハード・ロー)とは異なるソフト・ロー・アプローチの利点・欠点を指摘した上で、機能するソフト・ローのあり方として、ハード・ローとソフト・ローの協働、「ハード・ローと自主規制の共同規制」「規制された自主規制(regulated self-regulation)」を挙げる。(*10)
「ハード・ロー」か、ポリティクスか
本書は、AMA等の研究者団体による自主規制が、連邦厚生省によるフォーマルなルール(連邦行政庁によるregulation)策定の「脅し」の環境下で策定されたことを指摘し、以てハード・ローとソフト・ローの協働の事例として取り扱う。
そうであろうか。これはまさしく「脅し」なのであって、それ自体は法的なアクションではない(*11)。これは法的なスキームの連関の事例であろうか。政治的環境を察知した研究者団体がそれに先回りした、というポリティクス、と呼ぶほうが的確なのではなかろうか。もっともここら辺りは「ソフト・ロー」概念自体が発展途上であるために今後鍛えられるべき面ではある。

これは、団体側がかかる倫理規範を策定した動機にもかかわる。
彼らは(単に)、問題を放置することによって世間の風当たりが強くなり、自分たちの活動がし難くなることを回避しようとした、だけではないのだろうか(*12)。積極的に問題を解決しようとした、というより、利己的、自己保身的な行動だったのではなかろうか。ここでは前述の「評判」「信頼」という契機が絡む。
もっとも、「利己的なアクションだからケシカラン」と主張するつもりは毛頭ない。各々のアクターが自己利益を追求した結果として社会全体としての利益が達成されるのであれば、そうしたシステムは安定する。
自主規制のレベルないし単位
そう考えると、果たして「自主規制」をする単位は研究者団体である必要はあるのであろうか。もっと下のレベル(例えば大学や病院レベル)で倫理規範を策定し、それを公表してコミットメントを表明することで、より(先端的and/or実験的医療を求める)患者が集まるという「競争」の可能性が生まれるかも知れない(*13)。実際、本書は大学レベルでの倫理規定の存在を指摘している。

もっとも、こうした状況は別に医療・医学研究に特有ではない。例えば企業が、顧客の利益保護のために一定の行動やビジネス・スキームを宣言し、それにコミットする、というのはよく見られる現象である。これにより同業他社と差別化して既存顧客のロイヤルティーを確保するとともに新規顧客を集めようとしているわけだが、同業他社も同様の行動を起こして結果的に業界内で一定の方向に収斂するというのもよくある話である。機能する市場のよき面である。

また、以上のように考えると、初めのほうで提示されている自己規律は信頼の根拠たり得るかという問い(35頁)の答えも見えてくる。自己のルールに従っているということそれ自体ではなく、当該ルールのコンテンツ、それが外部から観察可能か、実際にそれにコミットしているかが問題なのである。
他の事例?
ところで、かかる「ハード・ローとソフト・ローの協働」というのは、別に医学研究の分野だけに見られる現象ではないし、最近の現象でもない。
  • 業界団体が自主規制を策定し、それが法的拘束力を持つというのは、ニュー・ディール期の全国産業復興法(NIRA)の採用したスキームである。
  • U.C.C.は、"usage of trade"という形で包括的に、あるいは"commercially reasonable"という文言を通じて個別的に、業界の商慣行を取り込んでいる。
  • 近時の行政実務(特に環境行政)における、協調的法執行。
こうした諸現象と、本書で取り扱われた法現象の間には、どのような異同があるのであろうか。

このような視角から眺めると、ニュー・ディール期の行政国家化の発展を理論的に再編成しようとした、プロセス学派が改めて重要性を帯びることになるやも知れない。

というわけでまとめると

さて。
冒頭に「本書にコメントする資格があるか疑わしい」と書いた。
この分野は不勉強なので知らなかった情報が書いてあり勉強になるのだが、ただ上に挙げたような“行間”が気になってしまった。恐らくこの“行間”は医事法研究者にとっては共有されているものなのであろうが、門外漢はそこで引っ掛かってしまう。
そうした“行間”を埋めてもらえれば素人にも助かるのだが、という無い物ねだりが本エントリの趣旨、ということになる。(*14)
Cigarette Company Paid for Lung Cancer Study - New York Times
By GARDINER HARRIS
Published: March 26, 2008
http://www.nytimes.com/2008/03/26/health/research/26lung.html?th&emc=th
At One University, Tobacco Money Is a Secret - New York Times
By ALAN FINDER
Published: May 22, 2008
http://www.nytimes.com/2008/05/22/us/22tobacco.html?_r=1&ex=1212120000&en=f207e2acce96fc17&ei=5070&emc=eta1&oref=slogin

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