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2008.06.01 (Sun)

ゆうきのしるし

「勇気」と変換しようとして、
最初に出てきたのが「優季」…ォィ
次がに出てきたのが「祐麒」…orz

何てこったいATOK 2008…と思おうとしたが、MS-IMEからインポートしたユーザー辞書が悪いのか(汗)
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21:07  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.01 (Sun)

哲学イルヨ

あー、「αシノドス」登録しようと思って忘れてた。
なので見落としを発見したので補足。

メルマガ「αシノドス」に掲載されたマーサ・ヌスバウムのインタビュー記事を、訳者の藤本拓自氏が自身のブログに転載している。
哲学と公共生活 - スマイル・トレーニング・センター
http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20080523/p1
『αシノドス』vol.2にヌスバウムの翻訳を寄稿しました - スマイル・トレーニング・センター
(「訳者解説」からの転載。) http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20080426/p1
冒頭でヌスバウムはアメリカにおける哲学の軽視を嘆き、(具体的にはオランダを参照して)ヨーロッパの状況と対比させている。
さらに藤本氏は、これを「哲学イルヨ問題」を取り扱ったものとし、氏が以前に翻訳・寄稿したローティの「哲学イラネ問題」と「あわせて読みたい」としている。

ヌスバウムもローティもちゃんと読んでいるわけではないので論評は控えるが、先日、話題にしたアメリカの「反知性主義」とアメリカ-ヨーロッパの対抗と重なるということで言及。
そうすると、ローティは“アメリカン”でヌスバウムはヨーロッパ的ということか。前者は分かる気がする。後者は…彼女は古典研究から出発したからということか。

ヌスバウムのインタビューのメインは、医療倫理、国際開発、文学といった諸分野における哲学のrelevancyを論ずる。
法への言及も含む(*1)


ちょっと細かい突っ込みになってしまいますが、一部法律関連の訳語についてコメント:
哲学と公共生活 - スマイル・トレーニング・センター
「もしその事務所が奉仕基本(料金無料)の訴訟を扱っているなら、」
原語は"pro bono"でしょうか…そうですね。
Eurozine - Philosophy and public life - Martha Nussbaum, Stelios Virvidakis Interview with Martha Nussbaum
"...if the firm takes on cases on a pro bono basis (charging no fees)..."
http://www.eurozine.com/articles/2007-01-05-nussbaum-en.html
田中英夫先生(『英米法辞典』)は「公益追求訴訟」としていますが、最近の実務家や法社会学者の書いているものだとカタカナで「プロボノ」(「プロ・ボノ」)とするケースが多いように思います。法律家以外は使わないので意訳してやるのは読者層を考慮すると適切ですが…って、Wikipediaにも載ってるな。
"~ basis"は何に基づいて弁護士報酬を算定するか(*2)、ということですので、私なら強く意訳すると
「もしその事務所が公益への貢献のために弁護士報酬無料で事件を引き受ける場合には」
といった辺りでしょうか。

哲学と公共生活 - スマイル・トレーニング・センター
「最良の刑事弁護士は、彼女に非常に刺激を受け、レイプ法を書き換え、もっと適切なものにしようとしています。」
具体的な刑事事件に批判的に言及した後でこのセンテンスが出てきて、「刑事弁護士」というとこの事件の被告人=訴追されている男性の弁護人を連想してしまったので、一瞬混乱しました。立法活動に携わっているのはそれとは別の人だと思われます。
原語は"the best criminal lawyers"で、"lawyer"の語感ともかかわるのですが、"lawyer"はもちろん「弁護士」でもあるのですが、もうちょっと広くアモルファスに、「法律の専門家」「法律の訓練を受けた人」縮めて「法律家」ぐらいのニュアンスかと思います。

さらに蛇足:
哲学と公共生活 - スマイル・トレーニング・センター
「実際、マッキンノンは、「ああそうね、それこそがいつもとっても残念に思っている、アンドレアのヒューマニズムなのよ」と言うことでしょう。」
このような女性の発言を「女言葉」で訳すのはジェンダー・ステレオタイプだと言われそうな気がして勇気が要るのですが、逆にフォーマルな言葉にするのもニュアンスが消えると言われそうな気がして、難しいところです(恐らくその辺りも考慮されて訳語を選択されているのだと思いますが)

【関連】

Versions of Democracy - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

20:55  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.01 (Sun)

米国型違憲審査制についての覚え書き

差し当たり、憲法訴訟に議論を限定するが;
例によって、大雑把な要約または未検証の仮説の域を出ないが、司法部による違憲審査and/or憲法訴訟について引っ掛かる点を覚え書きとして。
憲法学者はこうした問題をずっと考えてご飯を食べているわけだし、基礎的問題というのはなかなか解決しないからこそ基礎的問題なのだろうが、自分的にはその次の問いへ行きたいのだが。

司法部/裁判官の政治的アカウンタビリティ

先に
Versions of Democracy - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
*4 しかしながら、フランスにせよドイツにせよ、大陸型の憲法裁判所は、アメリカのそれに比して、より明確に政治的性格を規定されているように思われるのはどう解すべきか。むしろ、形式的政治性と実質的政治性との捻れに着目すべきか。
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-199.html
こう書いたのは直接的には、アメリカの司法審査に関する議論が--当の裁判官自身によるものも含め--いずれも、「政治的にアカウンタブルではない裁判官が」との枕詞を伴うことへの「?」感からである。
確かに直接人民に基礎を置くものではないとしても(*1)、大統領はしばしば裁判官とりわけ最高裁裁判官の任命を任期中の最も重要な課題であると考えるし、その人選においても議会上院による承認の際の審査においても、実質に立ち入った議論がなされる。
これは、裁判官の人事に事実上、政治的決断(=政治的責任の引受)が介在しない日本から眺めれば、本当に「政治的にアカウンタブルではない」のか、と見える。
ヨーロッパの状況についてはきちんと理解しているとは言い難いが、制度的にはフランスの憲法院もドイツの憲法裁判所もその人員の構成については制度的に政治システムが責任を持っていると了解している。これによりその判断の民主的正統化については明確になるわけだが、その割りには活動が「大人しい」との印象も持つ。これが「形式的政治性と実質的政治性の捻れ」と表現した点。(*2)(*3)

“主観訴訟”の政治性

Marbury v. Madison判決で、Marshallが司法部による違憲審査を打ち出した際、彼はそれを憲法上、司法部に与えられている権能に基礎づけた。
"It is emphatically the province and duty of the judicial department to say what the law is. Those who apply the rule to particular cases, must of necessity expound and interpret that rule. If two laws conflict with each other, the courts must decide on the operation of each.
So if a law be in opposition to the constitution; if both the law and the constitution apply to a particular case, so that the court must either decide that case conformably to the law, disregarding the constitution; or conformably to the constitution, disregarding the law; the court must determine which of these conflicting rules governs the case. This is of the very essence of judicial duty...
The judicial power of the United States is extended to all cases arising under the constitution.
Could it be the intention of those who gave this power, to say that, in using it, the constitution should not be looked into? That a case arising under the constitution should be decided without examining the instrument under which it arises?
This is too extravagant to be maintained."
Marbury v. Madison, 5 U.S. 137, 178-179 (U.S. 1803)
ところでそもそも、司法権を行使するためには事件・争訟(Cases or Controversies)であることが要求される(*4)

そうであるとすると、
Versions of Democracy - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
コメント
「…アメリカ法では、私達ならば「客観訴訟」と看做すであろう争いについても、主観化してしまう傾向があるように感じます。このようにすれば、「政治的性格」をもつ紛争であっても、通常の私権を巡る紛争と同じく、単なる「主観訴訟」として争うことができるので、ことさら違憲審査権を「政治的性格」を帯びたものとして構成する(「抽象的規範統制」等々)必要がないのかなあというように思っていました。」
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-199.html
この点、私の理解する論理関係は逆である。
アメリカ(連邦憲)法においては、司法権の行使において事件性・争訟性が要求される以上、そこから引き出される憲法訴訟はそもそも“主観訴訟”でしかあり得ない。「主観訴訟として争うことができる」のではなく「主観訴訟として争わなければならない」。
従ってその下での課題も、如何に“主観訴訟”に政治的トピックを持ち込むか、というものになる。
「政治的紛争が主観訴訟になる」のではなく「主観訴訟が政治的紛争になる」のが、アメリカ法のフェアな理解だと思われる。(*5)(*6)

機能的「抽象審査」?

しかしながら、アメリカ法においても、(当事者適格とも訴えの利益とも訳し得る)standing--事件性・争訟性の判断の基礎である--が緩やかに認められること(*7)、プラス、法令の執行自体を差し止める判決が可能であることから、事実上、機能的に抽象審査を採用するのに近い状態が実現しているのではないか(*8)、と評価することもできる。もちろん確実にそう言うためには、やはり共通のベンチマークを設定した上での比較研究が必要となる。

「裁判所による人権保障」

「近代憲法下では、個人の人権を保障するための裁判所の役割が重要である」という命題は、憲法の教科書の最初に書いてある、法学部の憲法の(法学部でなくても)授業の最初の時間に教えられる、事柄である。
しかし、歴史的に眺めてみれば、そのような状況が確立したのは比較的最近のことである。かかる観念の母法国とすら言えるアメリカにおいてさえ、長い間、憲法訴訟の中心は連邦制の論点であった。Lochnor時代において「人権規定に基づいて立法を違憲無効とする」とは、最低賃金法や労働時間規制を無効化することを意味した。

個人の権利に関する訴訟が憲法訴訟の中心となるのは、ニュー・ディール期の憲法革命を経た後、1940~50年頃と考えられる。極端に言えば、アメリカでも「裁判所による人権保障」が確立するのは第二次大戦後のことである。無論その際には、Brown判決(*9)を嚆矢とするWarrenコートが重要な役割を果たしたことは言うまでもない。(*10)Carolene Products footnote 4(*11)や編入理論の確立もこれに貢献しているだろう。

理論の探究と法概念

ところで、「法」が客観的に実在するものだと考えられる限り(*12)、前述のように司法部による違憲審査を法を述べるという司法権それ自体から引き出すこともさほど難しいことではない。
しかし、そのような法観念は20世紀前半までには消滅、あるいは少なくとも大ダメージを受けていた。リーガル・リアリズムによる挑戦もある。そしてかかる観念を決定的に敗北せしめたのはErieドクトリンの確立(*13)によるSwift法理(*14)の判例変更であろう。

かかる法観念の変化と、(個人権を基礎とする)憲法訴訟の活発化とが、近接した時期において起こっている。このことが、明文規定なき司法部による違憲審査を如何に正統化するかという、現在も続く憲法理論の中心的課題(*15)の背景にある。

ヒーローとしての裁判所?

ところで。
現在の憲法の通説的立場は、それを主唱した学界の(現在の)重鎮がその頃、学説を確立したことから、Warrenコートをパラダイムとして想定しているように思われる。少なくとも、「その後の連邦最高裁は保守化している」とか、日本において「アメリカでは積極的に違憲判断をしているというのに、日本では」という類の議論をする研究者(*16)については、そう言えるのではないか。
しかし、これはより長い歴史的スパンに立ってみた場合、適切な見方なのだろうか。むしろWarrenコートの時期のほうが特異な時期として把握したほうがフェアな理解のではないか。


パズルをパズルのまま書き散らしてあります。
誤りの訂正お願いします。 >識者

テーマ : アメリカ合衆国 - ジャンル : 政治・経済

01:49  |  アメリカ法  |  TB(1)  |  CM(3)  |  EDIT  |  Top↑
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