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2008.06.29 (Sun)

爆熱!

週末はロースクールの図書館が閉まってしまう。
全学の図書館は土曜日は開いているのだが、日曜日はやはり閉まる。
とにかく暑いので、涼める所を探さないといけない。
カフェで粘るという選択肢もあるのだが、で実際にその選択肢も行使するのだが、半日くらいならともかくさすがに丸一日粘るのは難しい。

Logan Circle
暑い日に当然水場はこうなる。

という訳で、今日はAcademy of Natural Sciences=フィラデルフィア自然史博物館(Philadelphia's Natural History Museum)に行ってきた。
「西半球で最古の自然科学に関する機関」というわりにはパッとしなかったかも(汗) ベンジャミン・フランクリンの街なのに。

恐竜
シロクマ
恐竜は男の子のロマンということでw

面白かったのはチョウの部屋。
高温多湿に保った温室風の部屋で、チョウを放し飼いにしていてそこに入っていける。
蝶
こんな感じ。
追加料金2ドルが必要なのだが、払った方がいい。

メンデル展をやっていた。
メンデルのエンドウ豆の実験の紹介+その後の遺伝研究の展開の紹介。
これって、ほんの150年前の話だったんだよね。


その後、ロダン美術館に寄る。
考える人
地獄の門
考え中 国立西洋美術館にもあるやつ
カレーの市民
カレーの市民
「カレーの市民」だが、 「カレーのブルジョワ」だと思うとちょっと印象が変わる。
手
ひっさぁつ、シュァイニング、フィンガー!
写真写りがイマイチなので後日差し替えるかも。
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23:42  |  身辺雑記  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.26 (Thu)

D.C.の銃規制は違憲

D.C.といっても桜が咲き続けている島のことではなく、District of Columbia。
コロンビア特別区(首都ワシントン)の銃所持規制法につき、連邦最高裁は違憲判断。
District of Columbia v. Heller, 2008 U.S. LEXIS 5268 (No. 07–290, June 26, 2008)
available at
http://www.supremecourtus.gov/opinions/07pdf/07-290.pdf
5:4、法廷意見はScalia。
判旨:
  1. 第2修正は個人が銃を保持する権利を保障している。
  2. この権利は無制約ではなく、伝統的に行われてきた規制を撤廃するものではない。
  3. 本件D.C.の規制は違憲な規制に当たる。
中身はこれから読みます。
長くなったので要約の一部を削りました。単純な削除ではなくコメントアウトしただけですので、ソースには残っています。
一晩でアップしたかったけれどもダメだったなぁ(汗)
【2008/06/27 23:44追記】
"A well regulated Militia, being necessary to the security of a free State, the right of the people to keep and bear Arms, shall not be infringed."
U.S. Const. amend. II
available at http://www.law.cornell.edu/constitution/constitution.billofrights.html#amendmentii

【事案】

D.C.法は拳銃の所持を原則として禁止している。
未登録の銃器の携帯は禁止され、拳銃の登録は認められていない。
また、一般に拳銃の携帯は禁止されるが、警察は期限1年の携帯許可を発することができる。
合法に所持している銃については、分解するか、弾丸を抜き取るか、トリガーロック等を施して保管しなければならない。

Hellerは警察官であり勤務中の拳銃の携帯を認められていた。自宅での銃の保持を求めて許可を申請したが拒否された。
そこでHellerは、第2修正に基づいてこれらの執行を差し止めを求めて出訴した。

【法廷意見】

Scalia執筆。Roberts、Kennedy、Thomas、Alito同調。

第2修正の前段(*1)は後段(*2)の目的を示すが、限定はしていない。

独立期の理解に照らした後段の文言解釈によれば、
  • "the Right of the People":個人の権利であることを示す。
  • "Arms":武器一般を指し、軍事上の兵器に限定されない。
  • "bear Arms":武器の携帯一般ではなく、暴力的対決のために武器を携帯することを指す。しかし民兵としての組織的活動に限定されるものではない。
中世以来のイギリス、及び植民地時代のアメリカの経験に照らすと、武器を保有することは個人の権利として独立以前から認識されてきたし、後段はそのような権利を保障している。(II.A.1)

前段の
  • "Militia":全ての壮健で武器を帯びることのできる男性を指す。
  • "State":「州」の意味に限定されない。

前段は目的を示すが、唯一の目的として後段を限定するものではない。独立期においてはむしろ、自衛や狩猟の目的が重要であった。
第2修正を民兵としての活動に関するものとしてのみ読むことは、連邦議会が民兵を規律する権能を保持している以上、背理である。(II.A.2, 3)

同時期に採択された州憲法、その後の注釈、判例法もこの解釈を支持する。
奴隷解放運動に関連して自衛のための武装の権利が説かれ、南北戦争後も黒人に対する武器の保持の禁止が問題として意識されていた。(II.B, D)

連邦最高裁の関連判決も個人の権利としての理解に反するものではない。反対意見の依拠するMiller判決(*3)も専ら規制される武器の種類に依拠した判断であり、民兵に関連した活動か否かは関係ない。(II.E)

個人の権利としての武器を保持する権利は無制約ではない。 本判決は第2修正の保障の範囲を検討するものではないが、武器を隠し持つことの規制、犯罪者や精神障害者による、あるいは(学校や政府庁舎等)sensitiveな場所における火器の所持の禁止、火器の取引における条件等の規制といった、伝統的な規制に疑問を投げかけるものではない。

第2修正の保護が及ぶのは、「その時代における一般的な(common use at the time)(*4)武器に限られ、「危険で異常な武器(dangerous and unusual weapons)」には及ばない。
現代戦において主要な兵器の禁止が認められるとすれば、前段と後段の乖離が生じることになるかも知れないが、このことが権利についての解釈を変じることはない。(III)

自衛の権利が第2修正の中核にはあり、アメリカにおいて広く好まれている拳銃という武器を自宅に所持し、自宅と家族の防衛のために使用することを禁じることは、審査基準の如何にかかわらず合憲とはなり得ない。
本件D.C.法ほど厳格な規制は歴史的にも他にない。D.C.側は他の武器は認められているとするが、拳銃は自衛の武器としてアメリカ人の最も好むものであり、これを完全に禁じることはできない。

本件D.C.法が保管中の銃を使用不可能にするよう求めている点についても、自衛に使用できないとするものだから違憲である。
控訴審は許可制度については無効としなかった。Hellerに対して許可が与えられれば救済としては十分であるから、許可制度については検討しない。(IV)

【Stevens反対意見】

Souter、Ginsberg、Breyer同調。

独立期の人々の関心は民兵制度にあった。
自衛や狩猟といった他の目的が第2修正にはないことは、同時期の州憲法には含まれていることと対照を為す。第2修正前段は後段の意味を画する。"[O]f the people"の文言は民兵以外のコンテクストに権利を拡大するものではない。(I, II)

イギリスの権利章典はアメリカ建国者のそれとは異なる関心の下で採択されたものだし、民兵に関連付ける限定句はない。
第2修正採択後の注釈は、関係ないか、むしろ民兵論を支持する。
南北戦争後の立法は限定された重要性しか持たないし、また(黒人)民兵の武装解除の問題を取り扱っていた。(III)

独立期の制定法によれば、武器の保持はむしろ義務であった。
19世紀の先例(*5)によれば、第2修正は武器を保持する権利など与えておらず、禁止の名宛人も連邦議会である。
20世紀に入ってからの銃規制立法も特段の反対も受けずに成立している。銃規制に対して第2修正に基づいた無効主張ができないことは、確立しており異論なきものであった。
Miller判決は民兵と非民兵の区別に基づいて下されたものだし、そこでは本件で法廷意見が検討した資料が既に検討済みである。(IV)

法廷意見はテクストと歴史に基づかず、確立した了解を覆して新たな権利を宣明し、立法者が利用可能な政策の選択肢を奪っている。(V)

【Breyer反対意見】

Stevens、Souter、Ginsberg同調。(*6)

自宅での自衛目的も含め、銃規制は植民地時代からなされてきた。(II)

原告の主張する厳格審査を法廷意見は採用していない。また銃規制に関連した政府の利益は市民の生命と安全等のやむにやまれぬ利益であるから、理論上の厳格審査基準の採用であっても、実践的には規制がもたらす負担についての利益のバランスを審査することになる。かかる利益のバランシング審査を採用すべきであるし、そうした先例もある。この場合、一般に立法部の判断を尊重すべきであるが、最終的な判断は裁判所が下す。(III)

免許要件については判断しない。
保管条件規制については自衛の例外を認め得るので、よって憲法判断を回避すべきである。法廷意見は植民地期の規制については黙示の自衛の例外を読み込みながら、本件D.C.法についてはそうしていない。(IV)

登録要件については、まず本件規制採択当時及び現在の状況に照らすと、D.C.政府が対応しようとしている銃による重大な被害という問題の存在が認められるし、かかる規制は効果的ではないとの原告らの指摘についてはそうした政策決定は立法部の持つ立法裁量に委ねられる。(IV.A)
第2修正の目的の内、規律ある民兵の確保、狩猟等のレクリエーションについては、本件規制によって特に影響を受けない。(IV.A.1, 2)
自衛目的については影響を及ぼすといえるが、政府目的達成のための他の手段はなく、また不均衡な負担とまではいえない。目的に合致した規制であるし、そもそも自衛目的というのは二次的な目的である。独立期のフロンティアと現代の都市とでは生活のあり方が異なる。独立期当時も都市では規制があったし、当時は拳銃はポピュラーな武器ではなかった。明確な基準の不在は訴訟を招く。(IV.A.3~D)

法廷意見の議論は根拠が薄弱だし、現代への適用としても不適切である。(V)

【若干のコメント】

・裁判官の顔触れからして、武器保持を個人の権利として認めた上で、規制の余地を広めに残す、という辺りが落とし所だろうと思われたが、ほぼそれに沿った判断だといえる。

それでは解釈論としてはどうかと問えば、文言解釈という点ではStevens反対意見のほうが説得的なように読むが、前後の歴史の流れへの定位という点では法廷意見のほうが迫力がある。
第2修正前段自体が何だかよく分からない条項で、同様のものは他にあまり見当たらない。法廷意見はこれを実質的に空文化してしまったわけだが、それを言えばStevens反対意見のほうも(現代のコンテクストに照らすと)第2修正全体を空文化する解釈なわけで、そういう意味ではいずれも五十歩百歩ではある。(*7)

・解釈の態度に捻れがある。
普段、憲法の原意を強調する側が19世紀における理解を強調する。
他方、"living constitution"の考え方を持つ裁判官が専ら独立期に焦点を合わせ、その後の展開を重視しない。"living constitution"の考え方を一貫させるのならば、仮に採択当初は個人の権利としては認められていなかったとしても、その後の歴史によってそのように理解されるように至った、とする可能性が開かれるのではないのか。そうしないのは何故なのか。

・他方、法廷意見における歴史への依拠の仕方も、ちょっとどうなのか、という感もある。
そもそも、裁判所がその権威を以てこのような形で歴史を書くこと自体(*8)が、ある種、公定の歴史を書く、という営為に見える。それは如何なものか。他の歴史の見方は如何なる地位に立つのか。もっと慎重であっていいのではないか。(*9)

・より具体的な歴史の見方について。
法廷意見は歴史の検討の分析を権利章典から始めるわけだが、そこではチャールズ2世、ジェームズ2世による政敵の追い落としが主たる関心であった。ここでは、封建的自由人vs絶対王政型王権、中世vs近世という対抗が主題である。
アメリカ独立期においては、少数派が牛耳る連邦政府の常備軍による人民の抑圧を民兵組織が牽制する、という構図が想定された。ここでは、執行権=常備軍(傭兵を含む)vs国民一般の軍事動員・国民軍の創設、近世vs近代という対抗が主題である。
そして、(フロンティアを含む)領域vs現代型都市、顔の見える地域社会vs隣人とは会ったこともないマンション、近代vs現代という対抗。

法廷意見の歴史描写は確かに迫力があるのだが、それぞれのエピソードの間にはズレがあるのではないか、中世-近世-近代-現代という位相の差を、本当に法廷意見のように一貫したものとして描写することができるのか、疑問が残らざるを得ない。

・英国権利章典を議論の出発点とすることは、ある種のアイロニーを帰結する。
英国権利章典の関心は、王権が反抗的な政敵を武装解除することを防ぐことにあった。ここでは危険は王権からやってくる。
他方、本判決は自衛のために武器を保持する権利を認めたわけだが、この場合、自衛の対象たる危機はどこか他からやってくる。犯罪者かも知れないし、野生動物かも知れないし、独立期であれば先住民かも知れないし、外敵かも知れない。

英国権利章典的コンセプトに従えば、執行権に抗する者こそが、武装の権利を認められるべき中核ということになる。そうだとすれば、最も強く権利を保障されるべきは合衆国政府に敵対するテロリスト、ということになるのではないか!?(抵抗権!)
第2修正の権利の保護は"law-abiding, responsible citizens"にのみ及ぶとされているが、このコンセプトからすると背理なのではないか?(*10)

・独立期のフロンティアの状況を想定していた第2修正が、現代の都市的生活に適合し得るのか、という疑問はBreyerも提出している。
この緊張は法廷意見も認識していないものではない。意見の末尾では
"We are aware of the problem of handgun violence in this country, and we take seriously the concerns raised by the many amici who believe that prohibition of handgun ownership is a solution... Undoubtedly some think that the Second Amendment is outmoded in a society where our standing army is the pride of our Nation, where well-trained police forces provide personal security, and where gun violence is a serious problem. That is perhaps debatable, but what is not debatable is that it is not the role of this Court to pronounce the Second Amendment extinct."
としている。

かつて連邦議会がD.C.に適用される法を直接に立法していた頃は、地方部出身の議員の賛成が得られず銃規制法が通らなかった。D.C.が立法の自立性を確立してまず行った作業の一つが本件立法であった。にもかかわらず、という皮肉。都市と領域との相互理解の困難。

しかしこの点、Breyerの批判も弱い。一方で前述のように指摘しながら、他方で「独立期の人々も都市において銃規制をしていた」と論じる。自ら主張を弱めてしまっている。

・法廷意見は、第2修正の保護範囲は無限定ではなく、「合法な目的のために遵法精神ある市民によって典型的に保有された(typically possessed by law-abiding citizens for lawful purposes)」武器にのみ及び、「自宅での自衛のためにアメリカ人の選択する最もポピュラーな武器(the most popular weapon chosen by Americans for self-defense in the home)」を禁止してはならないとする。
これに対してBreyerは「そんなこと言われても分かんないよ!」と批判する。この批判は理解できるが、あまり的を射ていない。
というのも、批判に際しては前提として、これらの判示を機能的な概念として把握しているわけだが、法廷意見においてはそのようなものとしては扱われていない。法廷意見におけるこれらの判示は、機能的なものとしてではなく、実体を伴ったものとして扱われている。このように言われて中身(外延)をぽんとイメージできる者は、法廷意見が腑に落ちる。要するにアメリカ人の銃に対する信仰が告白されているのであり、必ずしも言語化されない、かかる文化的conventionが(密?)輸入されている。
従って、例えばダガーナイフを規制したとしても恐らくは合憲とされるであろう。

・上訴が取り上げられた時点で
見えない自由がほしくて 銃を - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
「仮に今度最高裁が憲法上の権利としての銃保持をrecognizeするとすれば、保守派版のRoe v. Wade判決みたいな位置づけになるのだろう。
そうなると、「権利」をめぐる議論状況が入り組んでくると予想。一方の権利を擁護して他方の権利を擁護しないというのは、不可能なポジションではないかも知れないけれど、かなり特定性の高い社会の構想に依拠した主張になるだろうから、恐らく正当化のハードルは上がる。」
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-80.html
と書いたわけだが、この予測は維持する。
Landmark Ruling Enshrines Right to Own Guns - NYTimes.com
By LINDA GREENHOUSE
Published: June 27, 2008
"Despite the decision's enormous symbolic significance, it was far from clear that it actually posed much of a threat to the most common gun regulations."
http://www.nytimes.com/2008/06/27/washington/27scotus.html?ex=1215230400&en=9a73a3ff8c61aed2&ei=5070&emc=eta1
本件法廷意見は明示的に規制の余地を残しており、実際問題としては現行の銃規制が一挙に流動化するということはないだろう。しかし、Roe判決後の中絶問題の展開に照らしてみれば、D.C.自体も含め各地の政府は、可能な規制を求めて諸々の施策を案出していくのだろう。そしてそれらが訴訟で争われていくことになる。

今後の展開においては、本判決が「自衛目的で」拳銃を保有することの権利性を認めたことを、どこまで強く読むかがポイントとなるだろう。拳銃の携帯を市条例が禁じた場合に、「自衛目的だから」と違憲を主張するのはどうだろうか。一応、法廷意見はconcealed weapon acts武器の携帯に対する規制(*13)の合憲性を仄めかしてはいるが。
仮に銃の携帯の規制が許されるとすると、本判決のholdingとしては、(第4修正の問題領域とも重なる)「自宅」の問題系が重要性を持つことになる。そうなるとさらには、プライバシーの問題系へと連なっていくことになる。本判決法廷意見の構成員はその可能性を認識しているだろうか。

・本件は連邦直轄地たるD.C.にかかる事件であるから、第2修正が直接に問題となる。州に対する権利として編入されるかは全く判断されていない。法廷意見の判示や力点の置き方からすると、編入を認めることを仄めかしてはいる。(*12)
こうなると裁判官の顔触れがどうなるか、延いてはこの秋の選挙がどうなるかに強く依存することになる。

・この論点が問題になるのは、連邦政府が、編入が認められるとするとより一般に政府が、かかる規制を為すからである。
政策的・実践的にも理論的にも面白い問いは、私人が行ったらどうなるか、というシチュエーションであろう。
例えばある民間マンションで、「武器を室内に保管する場合には管理人室で登録したものに限り、また、分解等、無力化しておくこと」という規約が定められていた場合、どうなるか。(恐らくその代償として、入口には24時間武装した警備員が常駐するとかされているのだろう。)
あるいは地域社会一般に拡張して、あるneighborhoodがrestrict covenantの手法を使って同様の施策を講じたらどうか。(この場合の代償はintensiveな警備員の巡回、などといったものだろう。さらにその先にはgated communityがある。)
このような場合にShelley判決のルール(*11)は適用されるだろうか。

Landmark Ruling Enshrines Right to Own Guns - NYTimes.com
"Mr. Obama, who like Mr. McCain has been on record as supporting the individual-rights view, said the ruling would "provide much-needed guidance to local jurisdictions across the country."" (emphasis added)
ウラはとっていないが、この記述が本当だとすると、オバマが「突然に中道化」したとは言い難い。
興味深いのは、犯罪の多いシカゴ南部を地盤とし、銃犯罪に巻き込まれることの多い黒人層を支持基盤とする彼が、何故このような≒銃規制を制約する考え方を支持するか、である。
シカゴはD.C.同様の厳格な銃規制を有しており、既に訴訟が提起されたとのこと。
News Analysis - Coming Next, Court Fights on Guns in Cities - News Analysis - NYTimes.com
By ADAM LIPTAK
Published: June 27, 2008
"In fact, a lawsuit against Chicago's very restrictive ordinance was filed almost immediately after the court's decision. Four Chicago residents and two gun rights groups asked the federal district court there to strike down the ordinance."
http://www.nytimes.com/2008/06/27/washington/27guns.html?ex=1215230400&en=04f2ae721bba8f4f&ei=5070&emc=eta1

【関連】

Don't Fear the Reaper : 速報:連邦最高裁判決
銃を持ってもいいん8だよ:国際弁護士ヒロとやさしく法律を学ぼう!:So-net blog
2008-06-27 - 弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」
銃の所持 最高裁の判決 - アメリカ在住 日本人妻 - 楽天ブログ(Blog)
代替品を認めれば? - つれづれ日記 - Yahoo!ブログ

連邦最高裁2007-08年度開廷期の中間評価 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
アメリカにおける軍事組織の(原)イメージ - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
Get Your Gun - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
見えない自由がほしくて 銃を - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
Roberts Courtの保守傾向 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

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13:41  |  アメリカ法  |  TB(2)  |  CM(3)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.23 (Mon)

固有名詞の英語読み

先の「ワルソー=ワルシャワ」からの絡みで。

最近の中等教育では、(中国語圏を除く)海外の固有名詞は現地読みで統一されているのだろうか。
自分の頃はちょうど移行期で、「プトレマイオス(トレミー)」とか「カエサル(シーザー)」とかいう案配だった。でも「アリストテレス」は「(アルストートル)」ではなかったな。
高校の世界史の教科書が厄介で、西洋の中世以降の人名を英語読みで統一していた。その代わりに巻末に対照表が載っていて「チャールズ=シャルル=カール=カルロス」とか無駄に覚えたのだが、でも「エカテリーナ2世」を「キャサリン2世」はないだろう、と思った。

英語で遣り取りするとなると逆に現地読みで覚えている知識を英語読みにする必要があって面倒なのだが、前記の通り自分は端境期の教育を受けているから何とか対応できる。完全に現地読みオンリーになったら英単語として一から覚え直さなければならないのだろう。
特に困るのが中国語系統の語で、こちらの頭の中には漢字の日本語読みで入っているのだが、英語では基本的に中国語読み。当の中国人と英語で話すときもなかなか単語が出てこなくて困るのだが、諦めて筆談に切り替えることも。

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2008.06.23 (Mon)

Warsaw

Warsaw
〔固有名詞(地名)〕
ワルシャワ。ポーランドの首都。

「ワルシャワ」を英語読みすると「ワルソー」になることに今日ぶち当たった。
「ワルソー条約」って「ワルシャワ条約」って意味だったんね。
恥ずかしー(>_<)

あ゛でも、「ワルシャワ条約機構」の「ワルシャワ条約」と混同しないためか知らん。
「ワルシャワ条約機構」なんて、最近の若いもんは知らないんだろうなー(笑)

調べた…本当っぽい(*1)

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2008.06.23 (Mon)

不法行為改革の到達点とロビイング

アメリカは訴訟社会、というのはまぁ人口に膾炙した話だが、や、ここ20年くらい、1980年代後半以降のアメリカ法の動きはむしろ逆、プロ・ビジネスの方向に動いているよ、とは以前からちらちらと書いているが;

To the Trenches - The Tort War Is Raging On - News Analysis - NYTimes.com
By JONATHAN D. GLATER <br /> Published: June 22, 2008
http://www.nytimes.com/2008/06/22/business/22tort.html?th&emc=th
そうしたものの内、「不法行為改革tort reform」と呼ばれる議会立法に関連して、ロビイング団体の動きについて、合衆国商工会議所(United States Chamber of Commerce)とアメリカ正義/司法のための協会(American Association for Justice)(*1)に焦点を当てたレポート。もちろん前者がビジネス側、後者は潜在的原告/被害者≒市民側、ではなく原告側弁護士の団体。

若干前者が優勢、というニュアンスの書きぶりで、このこと自体は私自身の見解とも一致するから異論はない。

若干付け加えるとすれば、アメリカは既に時代が一周しているのではないか、ということ。
どういうことかと言えば、民主党は原告側弁護士の政党だ、ということ。2006年の選挙で連邦議会を奪回し、ひょっとするとホワイトハウスも、ということになれば、ビジネス側有利の立法は一段落し、むしろ逆方向に振り子が振れ出すことは大いにあり得る。
John Edwardsなどその典型みたいなタイプで、彼が副大統領候補にでもなるようなことがあれば、流れは明確になるのではないか。


ところでかかる制約に対して原告側弁護士は「市民の権利が回復されないのはケシカラン」と言うわけだが、(そしてもちろん「でも本当に守りたいのは自分らの利益だろ」とツッコまれるわけだが)
"[T]he caps hurt the very people who most need help -- low-income people who sustain injuries, Mr. Stevens said. People who earn a lot of money can claim significant lost income as part of their injury. The unemployed, children, the elderly or anyone else with little earning potential stands to recover less for the same injury than someone in the work force. Plaintiffs' attorneys often get a percentage of the amount awarded to a client, so the limits mean they have a greater incentive to sue on behalf of a rich injured victim than a poor one.
"I have not filed a lawsuit for a child or a stay-at-home mom in a medical malpractice claim since 2002, because they regrettably lack economic value in the tort reform scheme" now in place in Mississippi, Mr. Stevens said."
非経済的損害(慰謝料等)にキャップがかかると、低所得者が被害を被った場合の損害額が小さくなって、賠償額の一定割合を受け取る成功報酬制で弁護士が受任しなくなって、低所得者に不利に働くよ、と。

イギリスや大陸諸国とかなら「じゃあ法律扶助を拡充しましょう」という話になるところだが、そうはならないのがアメリカン(笑)

【関連】

謝罪する医師 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
アメリカの裁判官(の給料)とリーガル・サービス市場 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
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テーマ : アメリカ合衆国 - ジャンル : 政治・経済

01:37  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.21 (Sat)

夏の夜の夢

ブログのテンプレートを変えてみた。夏らしく。
でも夏の星座ではない。
最低限表示できる形にして、微調整は追々。


Vistaをクリーン・インストールし直してから表示フォントが綺麗でなかったので、しばらく様子を見るつもりだったFirefox 3への移行を急遽やることにした。
サーバが重くて24時間の祭りには不参加だったが。

…直らない。
各種設定を調べる。
Windowsのアンチエイリアシングをオフにしていたせいじゃないか。Firefox関係なしorz

その新しいFirefox 3、評判はいい。
速い!とあちらこちらで言われているが、Tab Mix Plusが未対応なのでタブの数を少なめで運用して数十のタブを開きっぱなしでの作業を回避しているので体感的にはよく分からな…かったのだが、Tab Mix Plusがないのはあまりに不便なので開発中バージョンをインストール。
うん、確かに軽快かも。

これを機にアドオンの見直しもしようと思っている。
この際だから書き出してみるか。

現在入っているアドオン

Adblock Plus (+ Adblock Filterset.G Updater)
定番だがユーザーCSSでそこそこ対応できるのとフラッシュ等にくっつくマークがうっとうしいので入れたまま無効化してあった。きちんと運用するか削除するか思案中。
Auto Copy
オレ的神拡張ナンバーワン。こいつのおかげで作業効率が格段に上がった。他のアプリを使っていてもAuto Copy付きFirefoxのように操作して(=テクストを選択するだけでクリップボードにコピーしたつもりになって)しまう(汗)
ペースター(*1)と組み合わせると鬼に金棒。
早くFirefox 3に対応を!
Better Gmail 2
Gmailを利用するようになった際に。
DownThemAll!
時々便利だが使用頻度は高くない。邪魔じゃないから入れてある。
FireGestures
昔からチューチューマウス(*2)のIEナビを使っていたので、最近入れたこれとどう棲み分けるかは模索中。
一番の目当てはジェスチャーでサイドバーにGrepSidebarやMouseoverDictionaryを開けないかだったのだが、今のところできていない。
GooglePreview
ちょっと遅いので、通信速度次第で便利と思ったりうっとうしいと思ったり。
GrepSidebar
特に長いテクストを調査する場合の作業効率は大きく変わる。
IE View Lite
IEは基本的に使わないので、これさえあれば十分。
Make Link
ブログを書く際には重宝。最新版でテクストの改行にbrコードを付すようにもなったし。
MouseoverDictionary
便利かと思ったのだが、起動するのが面倒なので思ったより使っていない。
ワンクリックで立ち上がるともっと使うのだが。(キーボード・ショートカットを使え?そりゃそうなのだが。)
OutSidebar
サイドバーは基本的に好きではないのだが、使わなければならない状況でコンテンツ表示エリアが狭くなるのもイヤなので、それを避けられるこのアドオンはいい感じ。
これまた早く3に対応を。
Page Update Checker
ちょっとニブチンだが最低限の仕事はしていた。がアップデートの見込みはなさそうなので乗り換えるか…
ScrapBook
これまた便利。Webページのちょっとメモからちゃんとした記録まで。このデータが壊れるとかなりダメージ大きい。
問題点はすぐにScrapBookしてしまうのでデータがとっちらかっていることぐらい(汗)
Searchbar Autosizer
地味だけど、効果的。
Tab Mix Plus
たいていのタブ関連アドオンを代替できる、と思う。普段は気付かないが、ないと不便で有難みに気付く。
XUL/Migemo
日本語入力システムをオフにした状態でキー入力すると自動的に立ち上がって検索を始めるのが便利だったのだが、ある時からLivedoor Reader(ウェブ版)とコンフリクトを起こすようになった(それまでは問題なかったのに)。不便なので自動起動を切ってあるのだが、早く元に戻したい。
テキストリンク
入れてみたら地味に便利だった。

昔入れてあったけど削除したアドオン

All-In-One Search button
検索語ハイライト機能を期待して入れたのだが、うまく動かなかった。その後に入れたGrepSidebarのほうが便利。
All-in-One Sidebar
GrepSidebar、MouseoverDictionaryを手軽に起動できないかと思ったのだが、どうもうまくいかなかった。
CopyURL+
より多機能なMake Linkに置き換え。
FireDictionary
イマイチ使い勝手悪し。辞書も力不足だし。英辞郎の辞書データを使えるMouseoverDictionaryの出現で役目を終える。
Fasterfox
入れっぱなしだったが効果はあまりよく分からなかった。評判もよくないのでFirefox 3への移行を機に削除。
Grab and Drag
長いテクストを読むのに便利かな、と思ったのだが、イマイチ使い勝手が悪いのと不安定だったので削除。近々にまた入れてみて安定動作&使い勝手を試してみるつもり。
LeechBlock
作業効率上がるかな、と思ったのだが、あまり変わらなかった(爆)
Session Manager
Firefox 2.0にバージョンアップした際に、標準機能になったので削除。
ThinkVantage Password Manager
格闘の様子は以前書いた通り。
分割ブラウザ
長いテクストのブラウズに使えるかな、と思ったのだが、今はノートパソコンのディスプレイの大きさしかないのでご利益を感じられなくなり、削除。広い外部ディスプレイでの作業がデフォの環境になれば、また入れるかも。

追加検討中

  • Aging Tabs
  • AutoPager
  • BetterSearch … GooglePreviewを置換?
  • Cache Status、CacheViewer … キャッシュについてはあまり気にする必要はないか?
  • CustomizeGoogle
  • easyGestures … FireGesturesに取って替わるか?IEナビとのコンビネーション如何
  • FoxSaver
  • ImageTweak
  • Link Evaluator
  • PicLens
  • ReminderFox か Toodledo … Firefoxを手帳化。
  • Resizeable Textarea
  • Save File to … DownThemAll!で手の届かない部分を補完するか。
  • Snap Links … Tab Mix Plusよりも便利?
  • Update Scanner … Page Update Checker置換
  • Video DownloadHelper
  • Google ノートブック か Zotero … ScrapBookとの相性/使い分け
  • マルチプルタブハンドラ
…厳選しないと大変なことになりそう(汗)

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13日の金曜日 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
Firefox 2.0.0.8 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
01:04  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.17 (Tue)

Summmer of Love

"Summer of Love"と言えば「エウレカセブン」しか思い出さないが、あれもヒッピー・ムーブメントへのオマージュだしな。団塊の世代の自画自賛というか。

Same-Sex Marriages Begin in California - NYTimes.com
By JESSE McKINLEY
Published: June 17, 2008
"...[G]ay couples across California inaugurated the state's court-approved and potentially short-lived legalization of same-sex marriage on Monday ...
The weddings began in a handful of locations around the state at exactly 5:01 p.m., the earliest time allowed by last month's decision by the California Supreme Court legalizing same-sex marriage."
http://www.nytimes.com/2008/06/17/us/17weddings.html?th&emc=th
カリフォルニアの同性愛婚禁止法違憲判決が発効=同性愛婚が法律婚として有効に。
予想が外れた…
カリフォルニア同性婚禁止違憲判決 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
「まぁこの判決があっさり発効するとは考えにくいわけで、反対派は州憲法改正を発議して、今秋の選挙の際に一緒に州民投票に付すでしょうな。その際には判決執行のstayが申し立てられることは確実だし、裁判所は認めると予想。」
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-189.html

California Braces for ‘New Summer of Love’ - NYTimes.com
By PATRICIA LEIGH BROWN
Published: June 14, 2008
http://www.nytimes.com/2008/06/14/us/14weddings.html?ex=1214366400&en=aeb4e17459a7e64b&ei=5070&emc=eta1
それでもって、カリフォルニア州内で婚姻関係に入りたい同性愛カップルを集めようとホテル業界中心にwktkしているとのこと。
2004年の判決で同性愛婚が認められ(なければならないとされ)たマサチューセッツ州婚姻法では州民しか婚姻できなかったのに対し、カリフォルニアではそういう限定がないのだと。
一昔前は「渡り鳥離婚」が抵触法上の論点だったわけだが、今度は「渡り鳥結婚」が論点になる、と。

ではその効果はどうかと言えば、一般に他州の同性愛婚の効果を認めない州が多いが、
New York to Back Same-Sex Unions From Elsewhere - NYTimes.com
By JEREMY W. PETERS
Published: May 29, 2008
http://www.nytimes.com/2008/05/29/nyregion/29marriage.html?ex=1212724800&en=6d4cc0628aceb54e&ei=5070&emc=eta1
ニューヨークは認めるってさ。

でも普通の婚姻と同じということは、破局についても同じ。
Gay Couples Find Marriage Is a Mixed Bag - NYTimes.com
By PAM BELLUCK
Published: June 15, 2008
"Some same-sex spouses have split up, including Julie and Hillary Goodridge, the lead plaintiffs in the case that paved the way for same-sex marriage in the state."
http://www.nytimes.com/2008/06/15/us/15marriage.html?ex=1214280000&en=6c9f52d83f8e2830&ei=5070&emc=eta1
マサチューセッツの判決の原告だったカップルも別れたとのこと。知らなかった。

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団結 時に衝突 あとくされないように とりあえず円満 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
カリフォルニア同性婚禁止違憲判決 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

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22:46  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.16 (Mon)

68 = 911 or 226 ?

こうしてブログ・エントリを書き続けること自体が、テロリズムの完成を手伝っていることになるのかも知れないが;
先日のエントリコメントに対する回答を考えていて、自分が何故、ある種の焦燥感を感じているかが少しクリアになったので、もう一言書く。

秋葉原の事件を「オタクにとっての911」とする見方もあるが、自分はむしろこれを二・二六事件に比定しているのだ、ということに気付いた。
確かに攻撃対象という点では、ワールド・トレード・センターと秋葉原とは、経済活動の中心ないし象徴という点で共通点がある。二・二六事件のような政治の中枢ではなく。何故、そちらを狙わなかったのか、との旨のブロガー氏も多い。

しかし他方、経済・社会関係が不安定な中、政治の無策に閉塞感・無力感を強めているところに対するある種のブレイク・スルーと見る空気があるのではないか。
仮に実行犯がそのようなことを意識していなかったとしても、受け止める側に、そのような視角があるのではないか。
これは、二・二六事件で決起した青年将校たちの心情と共通するものではないのか。
また、911事件での攻撃者はアメリカの“外”から来たのに対し、秋葉原の事件では二・二六事件と同様に政治共同体の“内”から輩出されているという共通点もある。
(無論、グローバリゼーションが進行する中、単純に“内外”で区分することはできないという批判はあろうが、現在でも相対的な差異としてはこのように言っても誤りではあるまい。)
【2008/06/16 21:32追記】
そして自分は、それが怖い。
政治よりもテロルを優先してしまうことが。
確かに自分も、政局の現在には批判的ではある。
しかし、本件を二・二六事件に比定できるのならば--そして二・二六事件は挫折したことで逆説的に、軍国主義への方向性を確実にした。
“あの時”の教訓を生かすのならば、
あえて本件を「ただの粗暴犯」として淡々と処理し、
あえてロスジェネの労働・社会問題を本件から切り離す必要があるのではないのか。

自分も現在の政治を擁護するつもりはないが、
政治システム(a political system; a system of politics)を擁護する者として、そう考えるのである。(*1)
天漢日乗: 秋葉原通り魔殺傷事件(その9)「加藤の乱」就職氷河期世代の叛乱→追記あり
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2008/06/9_3d6c.html
「加藤の乱」を平成の血盟団事件にしないために - 雑種路線でいこう
「テロリストでさえない非モテ連続殺人犯をヒーローにしてはいけない。けれど彼の凶行を我田引水で意味付けて、安穏としている政権に喫緊の政策課題を突き付けるのはペンの力だ。それで世の中が動いたとして、それは彼の凶行のお陰ではない。」
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20080615/pen

【関連】

事物の見え方 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
テロリズムの防ぎ方 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
で、誰をひっぱたくのか - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

テーマ : 政治・経済・時事問題 - ジャンル : 政治・経済

02:10  |  日本社会  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.15 (Sun)

13日の金曜日

一昨日は13日の金曜日だった。
ということに気付いたのはその前の夜だった。
まぁだからどうこうということもないけどな、と思ったが。

あったorz

昼食から戻って仕事を再開しようとPCを立ち上げようとすると、起動しない。真っ暗なまま、マウスだけが表示されて、その先のログイン画面が表示されない。
ウンともスンとも言わないので穏やかならざる方法でシャットダウンし、再び電源を入れてみるが、結局同じ症状が繰り返されるだけ。
biosの設定画面や(プレインストールされている)リカバリ・ユーティリティの画面は普通に表示されるので、ハード側ではなくWindows側の問題と思われる。
そういえばしばらく前から、ログイン画面が表示されるのがもっさりする印象があった。その辺りで読み込まれるべきファイルが壊れたとか、そういうところかも知れない。

しかしともかく動く状態になってくれないと困るわけで、幾つかの方法を試してみる。…が、バックアップからリカバリをしても症状は変わらず、結局クリーン・インストールをする羽目に。
Windows 95/98時代はクリーン・インストールは安定的な動作のための年中行事みたいな感じだったし、今でもそれを見越したHDDのパーティションの編成になっているが、XP時代は全く用がなかった。
それなのにVista不安定。キライ。

そのお陰で結局、この週末はThinkPadの復旧で潰れる羽目に。グアンタナモの判決を読もうと思っていたのに。
自分がX61と格闘している間に日本では大きな地震があったようで。
被災された方にお見舞いを申し上げます。


FirefoxとThinkVantage Password Managerの相性が悪いのは前から分かっていたので放っておいてあったのだが;
再インストールの過程でプレインストール・ソフトもアップデートした際に、TVPMもオートでアップデートされた模様。
そうしたら、Firefoxの他のアドオンとのコンフリクトを防ぐために、TVPMを無効化することもできなくなっていた。無効化ボタンが表示されない。
FirefoxからTVPMを削除できないことも分かっていたので、じゃあとWindowsからアンインストール…したけどFirefoxから消えていない。

ここで白旗を揚げてGoogle先生の教えを請う。
どうやら2月頃のアップデートでかなり重い症状が発生した模様で、幾つかの解法が提案されていたが、TVPMをアンインストールしてしまった自分には適用できない。
extensions.rdfをいじるといい、という解法を見つけたので、RDFもXMLも分からないままいじってみる。一応、消えたみたいに見えるけれどもちょっと不安。
extensions.rdfを削除してFirefoxを立ち上げると新しいextensions.rdfが生成される、とあったのが引っ掛かって試してみる。…消えた!? extensions.rdfの中にもTVPMに関する記述はない。

というわけで、ThinkVantage Password ManagerとFirefoxとの相性が悪くて、もう消してしまいたい!という方のために次のような解法は如何でしょうか:
  1. TVPM(というかClient Security Solutionか)をWindowsからアンインストールする
  2. Firefoxのプロファイル・フォルダからextensions.rdfを削除する
  3. Firefoxを再起動する
技術的な中身は分かっていない人間による提案ですので自己責任でお願いします(汗) もちろん実行する際にはextensions.rdfのバックアップをとることもお忘れなく。
うまくいった方はコメントででもお教えいただけますと、後のチャレンジャーの方が助かります(^o^)


このエントリをほぼ書き上がったところで、ボタンの押し間違いで消してしまったorz
ツイていないときは徹底的にツイていない。

【関連】

X360 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
Firefox 2.0.0.8 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
23:22  |  身辺雑記  |  TB(2)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.13 (Fri)

世界の中の連邦最高裁

連邦最高裁の2007-08年度開廷期も残り実質2週間で、判決ラッシュが続いている。
6月12日付の判決は5件中3件が国際関係絡みの事案。もちろんそういう事件は時々あるわけだが、カタマリになって出てくるとやはり「おや」という気分になる。
Boumediene v. Bush, 2008 U.S. LEXIS 4887 (Nos. 06-1195 and 06-1196, June 12, 2008)
available at
http://www.supremecourtus.gov/opinions/07pdf/06-1195.pdf
大騒ぎになっているグアンタナモ絡みの判決はこれ。
Munaf v. Geren, 2008 U.S. LEXIS 4888 (Nos. 06-1666 and 07-394, June 12, 2008)
available at
http://www.supremecourtus.gov/opinions/07pdf/06-1666.pdf
こちらもイラク戦争絡みの事案。アメリカ人がイラク領域内で犯罪行為を行ったとしてアメリカ軍に拘束されたので、イラク政府に引き渡すな、と主張(消極)。

この2件は21世紀に入ってからのアメリカ外交・軍事からスピンオフした事件。
3件目は、20世紀後半のアメリカ外国・軍事のモチーフ=冷戦の、ある意味負の遺産。
Republic of the Phil. v. Pimentel, 2008 U.S. LEXIS 4889 (No. 06-1204, June 12, 2008)
available at
http://www.supremecourtus.gov/opinions/07pdf/06-1204.pdf
マルコス政権の海外隠し資産に関する事件。論点は主権免責と内国民事手続の関係。
最近の若いもんは「マルコス政権って、何?」なんだろうなぁ(汗)

まだシラバスしか読んでないけど。どれを読もうかしらん。
後の2件も面白いことを言っているっぽい。

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02:02  |  アメリカ法  |  TB(1)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.12 (Thu)

事物の見え方

秋葉原の件についてもう少し書く。
書かざるを得ないこと自体、動揺が収まらないということだろう。
テロリズムの防ぎ方 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-209.html

日本の同僚とこの件についてメールを遣り取りしていて、随分と違った切り口で事態を見ているな、と感じた。
たぶん、彼女は社民主義に立つ労働法(?)研究者であるのに対し、自分はアメリカンな思考に毒された法と経済学崩れだという辺り、世界に対する基本的な視角が違うのだろうな、とは思うのだが;


今回の件についての諸々の見方について、幾つかの対抗軸を整理してみる。
別に前記同僚の見解はどれで、というものではなく、ブログ論壇に見られる諸見解につき、特に、自分はそうは捉えないのだが、という意見を理解するために。
また、以下の諸点はそれぞれ独立ではなく、ある軸においてある立場をとれば他の軸における特定の立場と親和性が高いということはあるだろう。
1. (a)行為者に着目するか、(b)行為に着目するか。
後者に着目する場合、行為者が「誰」であるかやその「動機」については二次的、ないしは置換可能な見方をすることになる。すなわち、世を儚んだ若者による攻撃と、カルト集団による攻撃と、ヤクザによる攻撃と、敵対的外国の工作員による攻撃とを、並列的な、基本的に同質のものとして把握することになる。

他方、「行為者」に着目する場合、彼がなす行為は絶望に駆られた逸脱行動であれば同様に横に並べて考察の対象となる。他者に無差別に斬り掛かる若者は滅多に出てこないとしても、硫化水素の流行も野良猫の虐待も同様の絶望の徴表として、並列的にカウントし得ることになる。
2. (a)社会・経済的要因に着目するか、(b)心理的・個人史的要因に着目するか。
この事件を「格差社会」論に引き付けて語るのは2(a)の典型である。その中でも、派遣労働一般の問題を論じるものから、彼の職場の状況を特定的に論じるもの(*1)まで幅がある。

他方、「心の闇」論は後者の典型。主流マスコミはこのタイプの言説が強調されているのではないか。(*2)

もっとも、2(a)と2(b)は独立ではなく、2(a)→2(b)というタイプの議論もある。
2(a)型の議論は社会一般の構造的問題を俎上に載せようとするのに対し、2(b)型の議論は「犯人」の「特殊性」に問題を還元しようとすることによって、ある種の“矮小化”を狙うことになる。

以上のようにこのレベルの議論は1(a)と親和性が高い。
自分は「無差別殺傷・通り魔事件」という点(1(b))に着目したので、昔から通り魔事件はあったし、むしろ近年は減少傾向にある、という認識(*3)を前提に、近時の(政策対応を含む)社会・経済状況の変化を強調する、冒頭で触れた同僚の議論に乗れなかったのだが、1(a)「行為者」に着目すると他者への攻撃以外の逸脱行動も俎上に載せ得るという点に気付いて反省した、のがこのエントリを書き始めた動機。

但し、このレベルの議論は1(b)とも結び付き得る。
「ダガーナイフ規制論」や「歩行者天国自粛論」「ネット監視論」は1(b)-2(a)のコンボ。
これに対して「ナイフを使う奴次第」論で反論するのは1(b)-2(b)。
3. 彼を、同様の属性を持った集団の(a)代表として位置付けるか、(b)特殊事例として位置付けるか。
前述の通り、2(a)は3(a)と、2(b)は3(b)と親和性が高いが、一応議論のレイヤーは分けることができる。
「同様の孤独感に苦しむ若者」などという議論は2(b)-3(a)のコンボ。

3(b)の主張には、「俺も苦しいが俺はこんなことしない」という同様の立場に立つと思われる人が自分は違うことをを強調するものの他、今後彼の勤務先がさらに強調されるようになった際にはそうした企業は彼の特殊性を強調するであろう、というのも含まれ得る。しかし、両者はその主張の動機と性質が大きく異なることにも留意。


自分は、今回の事件の理解という点では、基本的に1(b)の立場に立つ。
先に「関係者が粛々と司法手続を進めることを希望するに尽きる」と書いたのもその意。

理由は幾つかある。
教科書的には、行為を罰するという近代刑法の基本公式に従うから、ということになる。(「罪を憎んで人を憎まず」とはそういう意味であろう?)

もう少し踏み込めば、「自らの想像を絶する他者」の存在を認める--市民社会のルールに従って行動さえしていれば--という規範的要請の帰結でもある。
「想像を絶する他者」を「想像のつく範囲内」に押し込めようとするのはそれこそ暴力的な思考態度ではないのか? 「想像を絶する他者」を「想像を絶する他者」のまま取り扱うのが“彼”を個人として尊重することになるのではないのか。

そうだとすると私見は、特に政策対応のレベルで、1(a)-2(a)-3(a)型の議論(「若者は派遣労働等、経済的・社会的に不安定な地位を強いられており、それを改善していくことが肝要である」の類)を否定することになるのか、と問われそうだが、積極的に否定するつもりはない。
そこに社会問題が存在する以上、それへの対応を考えるというのはあってしかるべきものである。
しかし、そこに存在する社会問題は、今回の事件が起ころうと起こるまいと対応されるべき性質のものなのではないのか? にも関わらず、今このタイミングで「それ見たことか」とばかりにこの種の議論を持ち出すのは、自らの従来の政治的主張を強調するために今回の事件を利用しているようで、被害者側に心情的に寄り添う自分としてはある種の違和感を禁じ得ない。

当の悪戦苦闘している若者の立場からしてみても、「諸君をこのままの状態にしておくと俺達に牙を剥くから救済するよ」というのは、不誠実極まりない物言いではないのか。「諸君の現状がそれ自体として問題だから対応する」と言うべきところであろう。
ここでしたり顔で「格差社会」を云々するのは、「俺は違う」という同様の若者の主張(前述3(b))をどう把握するのだろうか。(1(a)-)2(a)-3(a)型の議論は、自らを安全地帯に置いたまま、当事者の“立場”を“代弁”しているとポジショニングしているようなのだが、そのズレに自覚的なのだろうか。

また、かかるショッキングな事件に依拠する形で「格差社会を放置すると社会不安が増大し」論を強調するのは、むしろバックラッシュを起こしかねないとの指摘も重要だと思われる。
加藤智大は格差社会の代弁者ではない - the deconstruKction of right
「「だったらセキュリティ上げて君たちを排除する」」(*4)
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080609/1212966011

さらに、社会・経済状況を改善して逸脱行動が減少させ得るとしても、それは確率的なものであって、ゼロにすることはできない。(*5)
仮にゼロにできると(しようと)すれば、逸脱行動を完全にコントロールしうるほど、社会・経済問題での政策実行と逸脱行動との間の因果関係についての確実な知見が存在する、というありそうもない想定に依拠するか、あるいは逸脱行動を許さないほど徹底的に個人の行動を管理するというむしろ望ましからざると思われる政策対応を採用することになる。
社会・経済問題への政策対応で逸脱行動を減少させるべきだとしても、(事実レベルでも規範レベルでも)ゼロにはし得ないと認識するのであれば、残った不条理にどう対応するのか、という問題は残らざるを得ない。残念ながら、そのような不条理は時々起こってしまうし、不条理をなくすことが不可能であるのならば、如何に不条理と付き合い、如何に不条理のダメージを軽減していくかが肝要であり、このレベルでのプラグマティックな政策対応も考えねばならない。
これが先日のエントリでタケルンバ卿の見解に同調した趣旨(*6)

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2008.06.10 (Tue)

テロリズムの防ぎ方

ここ数日、凄まじく暑い。
暑さで夜も眠れないので、昼間のパフォーマンスも悪い。
今日は夕刻になって一雨来た。これで少しは和らぐだろうか。予報によると明日以降は一段落するらしい。
昨日、書きかけて、消した。
だがやはり書いておかないと区切りが付かないので書くことにする。
ネット上の情報しか入ってこないから空気を読んでいないとは思う。


秋葉原は自分にとっても東京におけるナワバリの一つである。
従って、今回の件は他人事とは思えない。
亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。

ただ、テロリズムの特徴が--そう、これはテロルそのものであろう。「マイクロ」テロリズムでも「サイレント」テロリズムでもなく--そのメッセージ性にあるのだとすれば、そのメッセージを声高に触れ回ることで、テロルは完成する。

既に手遅れで、“ジャーナリズム”なきマスコミはテンプレ通りのワイドショーを繰り返しているのだろうが。

これを書くことには躊躇がある。
自分は「思想の自由市場」の信奉者であるので。
そう、言論は自由だ。
だが、“劇場化”への違和感はどこまでも残る。
「ワイドショーを独占」させることで、彼の望みは完成する--完成させてはテロリストを利することになるのではないのか? それは次なるテロルを呼び出すことになるのではないのか?
「自由」を行使する「ジャーナリスト」の「プロフェッショナリズム」に期待するより他ないのだが。それはどこにあるのだろう。

他方、ブロゴスフィアにおける諸意見の表出については、それほどの違和感はない。
“観客”性は一緒なのではないか、という指摘は大いにある(既にある)とは思うのだが、自分は何らかの線引きはできるように思っている。
マスコミの一方的な切り口による物語り(narrative)が、ある種の「大衆操作」の一つに感じられるのに対し、ブロガー諸氏の意見の表明を市民社会的なるものとして把握するのはナイーヴに過ぎるか。

いずれにせよ、時間が経たなければ冷静な思考はできないであろう。
従って本エントリの趣旨は、追って思考の材料として、混乱しているということ自体を書き記すことにある。


事件それ自体に戻れば、
関係者が粛々と司法手続を進めることを希望するに尽きる。

筆不精者の雑彙 : 秋葉原通り魔事件 現場に居合わせた者の主観的記録
http://bokukoui.exblog.jp/8328490
現場に居合わせた方からのレポート。一次資料として。
秋葉原通り魔事件記事リストと、高速消費される事実のこと(1) - N.S.S.BranchOffice
http://d.hatena.ne.jp/north2015/20080610/1213043476
ブログ上の見解の簡潔かつ秀逸なまとめ。
そろそろ秋葉原の事件について語ってみるか - タケルンバ卿日記
「「住みやすい社会」ってのは「バカなことをしでかさないように規制する社会」じゃなくて、「バカなことをしでかすヤツがいたとしても安全な社会」だと思う。」
http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20080610/p2
政策上の見解としては自分は氏の立場に近い。

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23:43  |  日本社会  |  TB(1)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.07 (Sat)

そうだ ワシントン、行こう。

今回、こちらへ来てからニューヨークへは数度行ったが、未だワシントンに行っていなかった。
急ぎのタスクはないので、ふと思い立ってワシントンへ行くことにした。
いや、別にヒラリーの集会に出掛けたわけではない。地下鉄でヒラリーの名前の入ったTシャツを着た一家を見かけて、「このタイミングでヒラリーか?」と一瞬思ったのだが、ひょっとするとこの集会に出た人かも知れない。

ニューヨークをメガ国際都市・東京に比定するとすれば、ワシントンは巡礼者を集める神殿都市・京都といった辺りであろうか。
神殿都市なのでキャピトル(連邦議会議事堂)
Capitol
の脇には
手水鉢(誤)
手水鉢(誤)がある。
そうするとキャピトルの前の
仁王像(誤)
ここら辺りは仁王像か(誤)?脇には“狛犬”もいたし(誤)

連邦最高裁
一応、連邦最高裁にもお参り。まぁ中も含めて何度も訪れているけれども。

その隣にあるメソジストの建物の前に
torture is wrong
"Torture is Wrong"との宣伝が大きく出ていたのが意味深。
URLに注目:www.TortureIsAMoralIssue.orgですと。

他の神殿(誤)だと
ワシントン記念塔
モールから見たワシントン記念塔。あまりきれいに撮れてないが一応貼っておく。

週末なので、参拝者が集まる礼拝儀式もいろいろと催されていた模様。
冒頭のヒラリーの集会もそうだろうし、
ピンクリボンの看板
ピンクリボンが大きな集会をやっていたらしい。
地下鉄でもTシャツを着た人をたくさん見かけた。


何をしに行ったかといえば、
National Gallery of Art
主な目的はNational Gallery of Artを彷徨うことで。
で、彷徨ってきた、と。
ところで入ったところのRotundaにあった
Rotunda
このハシゴ、前にMoMAで見たような。

何の調査もせずに行ったのだが、特別展でやっていたアフガニスタン展が良かった。
「ソ連侵攻、タリバン政権下で失われたと思っていた文物が、カブールの博物館関係者の個人的努力(と危険!)により生き延びていましたよ」という思いっ切り政治的な臭いのぷんぷんする(笑)展示だったのだが、内容は良かった。
シルク・ロードの中継地として集積され、近代に入ってから考古学的に発見された文物、がメインだったが、迫力があった。
ユーラシアの原野を駆け回っていた人々のパワーを感じるというか。


それにしても暑かった!
2時間電車で南下するとすっかり夏だな。
と思ったら帰ってきても熱帯夜orz 要するに今日が暑い、と。
今日から、か。道民には堪えるなぁ。

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2M - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
はるのいちにち - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
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2008.06.07 (Sat)

『電脳コイル』を観て『メガゾーン23』を連想したのは自分だけだろうか

先週の朝日新聞で『ガンスリ』(*1)が紹介されて、一部で話題になった模様。
朝日新聞の書評で「ガンスリンガー・ガール」が問題作だと紹介される - [ 悠 々 日 記 ]
http://d.hatena.ne.jp/YUYUKOALA/20080529/GunslingerGirl_asahi
Something Orangeさん経由で紙屋研究所の『ガンスリ』評に触れる。というか、これは既に読んでいたや。本(*2)で。
相田裕『GUNSLINGER GIRL』
「任務(テロリストの暴力的絶滅)の性格はまったく問われることなく…」
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/GUNSLINGER.html
確かに、『ガンスリ』では“敵役”の「テロリスト」は無貌だ。(*3)
だが、「カウンターテロリズム」のモチーフに引っ掛かり過ぎているのでは、と思ったことも思い出した。
別に『ガンスリ』の基本モチーフはテロや暴力を使わなくても描けるだろう?(*4) 「フラテッロ」らが共通に取り組むミッション--できれば危険に曝される種類の--さえ設定すればよい。例えば宇宙開発なんてどうだ。
あるいは左翼な方にも文句のつけようのない設定…そうだなぁ、介護現場とか。

と連想したところで気付いた。
なんだ、もうあるや。
それって『愛人[AI-REN]』(*5)じゃん(*6)
『GUNSLINGER GIRLl』は純愛か鬼畜か。 - Something Orange
「しかし、その「愛」すらも単なる洗脳の結果に過ぎないとしたら?」
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080531/p1

ネット書店からのダイレクトメールで、桐野夏生の新刊『東京島』(*7)が宣伝されていた。
メールから引用するのはたぶんマズイので、新潮社のサイトから。
無人島に漂着した
31人の男と
1人の女
…それなんて『ネギま』!?(*8)

テーマ : 漫画の感想 - ジャンル : アニメ・コミック

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2008.06.05 (Thu)

日本人の範囲

最大判決H.20.6.4・平成18(行ツ)135
最大判決H.20.6.4・平成19(行ツ)164
「裁判要旨
1 国籍法3条1項が,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した後に父から認知された子につき,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得した場合に限り日本国籍の取得を認めていることにより国籍の取得に関する区別を生じさせていることは,遅くとも平成15/17年当時において,憲法14条1項に違反する
2 日本国民である父と日本国民でない母との間に出生した後に父から認知された子は,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したという部分を除いた国籍法3条1項所定の国籍取得の要件が満たされるときは,日本国籍を取得する」
available at
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20080604173431.pdf
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20080604174246.pdf
読み応えのある判決だ。非常に興味深い。
普段アメリカの判決を読み慣れていると、日本の特に最高裁判決の「そっけなさ」が物足りなくなるのだが(*1)、本件は裁判官ががっぷり四つに組んで見解を詳細に著しており、充実した判示である。

恐らく、人権各論(平等)のコンテクストよりは、憲法訴訟総論や、法学基礎論/法解釈方法論に関する事例における重要性を持つものとして位置付けられていくのではないか。
詳細な分析は今後なされるであろうが(*2)、一読して引っ掛かった点を自分の興味に引き付けて若干のコメントを。
国籍法もやはり勉強したことがないので明らかな誤りにはご教示を頂ければ幸甚です。

国籍の獲得の性質

平等条項の関係では、性別×嫡出性という二重の問題が組み合わさっているものの、判断枠組自体は特に目新しくはないだろう。
従って主戦場は、かかる区別の効果の評価ということになる。

法廷意見は国籍の獲得を「権利right」として、反対意見(藤田(結果同意)意見を含む)は「特権privilege」として、把握しているのが、判断を違えた最も基本的な態度の違いであるように思える。
前者は、国際人権法(人権関連条約)を参照していることから伺える。後者は、甲斐中他反対意見の「国籍法は,…どのような要件を満たす場合に,日本国籍を付与するかということを定めた創設的・授権的法律であ…る」という判示に最も明確に現れている。

ただ、法廷意見のように解したところで、これが、抽象的な「(いずれかの)国籍を取得する権利」(=無国籍にならない権利)を指すのに留まるのか、さらに踏み込んで「日本国籍を取得する権利」を意味するのか、については読み方が分かれるかも知れない。
判示の文面からは少なくとも前者は読み取れるが、後者を読むには若干強い読み込みが必要なのではないか。
さらに後者のように解したところで、それが請求権的なものか、確認的なものか、あるいは形成権的なものか、という論点もあろう。

ところで
「 日本国籍は,我が国の構成員としての資格であるとともに,我が国において基本的人権の保障…を受ける上で意味を持つ重要な法的地位でもある。」
これは書き損じ? 外国人の人権享有は、権利の性質上制約される場合があるとしても、一般論としては肯定される、というのが判例・通説だと理解しているのだが(*3)。その割には法廷意見もその他の意見もさらっとこう書いて誰も気にしていない。

社会状態の位置付け

立法目的と、社会の変化によるその変容について、法廷意見はやや詳し目の判示があるのだが、これをどう理解すべきか。
キーワードは「日本社会との結び付き」である。この有無ないし程度が評価の鍵となっているのだが、これは一体どういう性質の議論なのか。
もっぱら、立法事実レベルの問題として、国籍法にどのような要件を定立すれば合理的な「日本社会との結び付き」ありと言えるか、という問題として取り扱っている、というのが普通の読み方であろうか。

だがもっと踏み込んで、個別の事案において「日本社会との結び付き」を判定すべきという話にまで行くのか。これは立法裁量の範囲の問題として処理すべきか? 先の「日本国籍を取得する権利」とその性質の問いに絡む。
逆に、「日本社会との結び付き」がないと言える場合が出てきたらどうするか。

海外の動向、社会科学的データの取り扱い

海外の動向や、社会における国際的な人の移動、国際的家族形成、非嫡出子への見方などについても、法廷意見や横尾他反対意見が参照している。
これは、法的議論においてどのような性質を持った参照なのか。立法事実の探究の一要素?
アメリカの一部の(だが極めて有力な)議論のように、そういうソースを参照すること自体が問題だ、という観念はいずれのサイドにもない(両者の差異は、データから引き出される教訓や論点との関連性についての評価の差に留まる)とは言えそうだが、それ故に、かかる参照の性質・正当性の根拠がかえって曖昧である。
【2008/06/06 23:07追記】
特に、海外の動向の参照について、本件が国籍という国際的アスペクトを持つ事案であったことが何らかのrelevancyを持っているのか、が気になった。
ということを書き忘れていた。

違憲判断と実定法規範の解釈の構造

本判決は、違憲な条項に対する司法的救済を明確に与えた点も大きい。
ただ、その際に、あくまでも実定法規範(国籍法3条1項)“限定解釈”という手法を採っていることにも注意が向く。
つまり、与えられている救済(remedy)は通常の司法的救済の範囲内ですよ、ということを強調している。より明確にいえば、原告らに国籍が付与されるのはあくまでも(再解釈された)国籍法3条1項の効力によるものであって、それとは無関係に「憲法から直接引き出される司法権の効力」のようなものに基づいているのではないのだ、ということである。

憲法訴訟において違憲判断する場合一般を念頭に置いてこのようなアプローチを採用しているのか。あるいは、国籍については憲法上、明文で「法律でこれを定める」(10条)とある以上、何らかの法律の条文に引っかける必要があると考えられた、国籍関係の特殊な問題なのか。分析と見極めが必要であろう。

他方、かかる解釈が可能であるかについては、法解釈方法論によって評価されるべきだが、最近はあまり人気のないテーマではある。

【関連】

国籍法最高裁判決雑感 ~ Don de Fluir - いしけりあそび - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/isikeriasobi/53769250.html
代理人の弁護士さんのブログ。
国籍法違憲判決 - 企業法務戦士の雑感
日本人の範囲・枕 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

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23:34  |  日本社会  |  TB(1)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.05 (Thu)

日本人の範囲・枕

出身は普通の高校…のはずだが、個性的な教師が独自の授業を展開する学校で、その中でも独自性が強かったものに社会科の中の「倫理」がある。
履修したことがある人は分かるだろうが、この「倫理」という科目、中身は要するに思想史である。
そして我々の履修した「倫理」は、教科書なんか脇へ追いやって、その先生が独自の授業をしていた。1学期は西洋思想から、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを中心に古代ギリシア思想と、キリスト教思想・神学(*1)。2学期は東洋思想だということで、儒学と老荘を中心に古代中国哲学と、仏教哲学。
社会科が公民と地歴に分かれる前で、基本的に「倫理」は大学受験に関係ないと思われていた(*2)からそんな授業も全くOKだった。今ではセンター試験の選択肢を増やすために重要性が高まっているはずだから、生徒側の突き上げでそんなわけにもいかないだろう。学生の側も受験に関係ない授業をわざわざ選択するくらいだから、その授業を受けているクラスは変わったヤツや面白いヤツが多かった。自分が前者に属するのは言うまでもない。

さて、3学期はどうするかということで、日本人の思想をやるんだ、と。
その前提として「日本人」とは誰だ、ということが問題になるが、さしあたって「日本語を母語とする者を日本人と想定する」ということで、議論を進めた。
実際には、福沢諭吉を読んだ。詳しい内容はもはや覚えていないが、今から思えばたぶん丸山の読み方を下敷きにしていたのではないかと思う。


この、日本語を母語とする者を日本人として把握する、という考え方は、非常に説得的であり、印象に残った。
簡にして要を得ている。
なおかつ、「日本人」を考えるに当たって国家を前提とする必要もない。
包摂の基準として過剰なものを要求せず=外延が狭くなり過ぎず、にもかかわらず一定の共通の基盤も提供している。

無論この基準は、近代的国家・国籍の成立する以前も含めた「日本」をも同定するメルクマールとして立てられている。
また、「国語」の概念自体、近代になって構築されたものであり、そう単純ではない。
現代の世界には複数の言語が使われている社会/国家も少なくないことも了解している。
従ってその取扱には慎重さを要するが、それでもなお、この「日本語を母語とする者」という基準は、rule of thumbとして、自分が「日本」を考える際の思考の出発点としているし、また社会現象の理解に当たって「言語」の問題系を気にする背景にもなっている。
404 Blog Not Found:News - 婚姻要件の国籍法規定は違憲
「まだどこの国でも導入されていない「被教育主義」を採用すらして欲しいと思う。例えば義務教育を一定以上受けた児童は、成人時に国籍取得の権利を与えるなど。私は3年でいいと思う。15歳までなら、これだけあれば日本語を一生忘れないほど身につけることが出来るし、上記のようなケースにも対処できる。」
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51061043.html

【関連】

日本人の範囲 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

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23:32  |  日本社会  |  TB(1)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.05 (Thu)

【書評】三瀬朋子『医学と利益相反』

以前もちらりと書いたが、自分は医事法はきちんと勉強していない。
従って本書にコメントする資格があるかは疑わしいが、学会報告を聴くことができない替わりにここに書いておくことにも何かの意味があるかも知れない。
『医学と利益相反』
  • 『医学と利益相反--アメリカから学ぶ』
  • 三瀬朋子(著)
  • 弘文堂、2007年
  • ISBN=9784335354113
本書は、製薬業界に代表されるように医学研究が企業(起業)化するのに伴い、医療現場の医師も医学研究に経済的stakeを有するようになった「利益相反」問題につき、アメリカ(法)の状況について論じる。
自らの関与する未確立の治療法を、目の前の患者に勧めるか、という状況を「利益相反」として把握した上で、これに対するアメリカ法上の規制を、連邦法(主に医学研究にかかる連邦行政規則)、州法(主にインフォームド・コンセント法にかかる判例法)、民間団体等の倫理指針等の「ソフト・ロー」の3つのレベルで検討している。
著者は本書の課題を、ルールの内容とルールの形式とし、さらに前者につき、金銭的利益相反が法的に禁止されていないのは何故か、と、利益相反問題においてインフォームド・コンセントはどのように位置付けられるか、を挙げる。後者は特に、規制における「ソフト・ロー」の意義を問題とする。

問題状況の設定

さて。
冒頭に「本書にコメントする資格があるか疑わしい」と書いた。
議論の内容は理解はするのだが、その主張がすとんと腑に落ち切らない。
しかしその理由も明らかで、私が不勉強故に(*1)前提としている問題状況をきちんと把握してない、ということだろう。

無論、著者はきちんと問題状況の設定をしている。当該研究者及びその所属研究機関が経済的利害を持つベンチャーの製品に関する治験に、被験適格がないにもかかわらず患者を参加させ、死亡させたという、1999年のゲルシンガー事件から議論をスタートさせている。
ここで私が持つ疑問は、ゲルシンガー事件の問題をどこまで一般化できるか、である。この事件では、患者に治験適格がなかったことの他、既に重篤な副作用が認識されていたこと、インフォームド・コンセントが不十分であったこと等が指摘されており、「こりゃあマズイだろう」と一見して言えるような事案である。しかし、スキャンダルを契機として規制を組み立て始めると、過剰規制にならないか(*2)。異なる問題状況に対して規制の網をかけてしまうことになるのではないか。

これは恐らく、医療/医学における認識と「知」のあり方にも関わる。そこにはどうしても不確定な要素が残らざるを得ない。
  1. (ゲルシンガー事件のように)どう見てもこれはアウトだろう、という例がある一方で、
  2. ダメとも評価できるし、OKとも言える、という場合もある(*3)
  3. その先にはもちろん、誰が見てもセーフ、という状況もあり得る。
また、判断の対象についても、
  1. 患者の病状の局面における治験の適格性、というのと、
  2. 予定されている(未確定だが成功すれば好ましい結果の得られる)新療法への適応
という局面の差があるだろう。(*4)
これらを一緒に扱ってよいのだろうか、というのが医療現場を知らない素人にはよく分からない。

規制の必要性と目的

問題状況を問題として把握したとしても(「何とかしなければ!」)、それは規制が必要であることを必ずしも帰結しない。規制するとしても、直接の行為規制が必要であることを必ずしも帰結しない。
本書は、問題状況を指摘した上で「なぜ金銭的利益相反が禁止されていないのか」という問いを立て、これについて「バイオ産業の保護育成」という外在的政策目的を以て答える。しかし、このそれぞれの関係はこのように直結するのか。「問題→だから禁止」というのはショートカットではなかろうか。この問いに外在的政策目的を以て答えるのは「本当は禁止すべきなのだが」という考慮が隠れているのではないか。
本書でも前半で、幾つかの規制態様の候補について概観している(98~105頁)。しかし、一つ重要な政策の選択肢が抜けているように思われる。「放っておく」という選択肢である。別の言い方をすれば、「問題→だが放っておいても自ずから矯正されるだろう」とは言えないのは何故か、という疑問である。ゲルシンガー事件のようないい加減な治験をして安全性の確認が不十分な医薬品・療法を世に出せば、市場の力で淘汰されるであろうし、プラス、アメリカの状況なら民事サンクションだけでも恐るべきものを食らうであろう。「評判」や「信頼の低下」というインフォーマルなサンクションも無視できない。そうしたものに任せることはできないのは、何故か。

規制するとしても、直接の行為規制は必要か。むしろそれはエンフォースメント・コストが高くなってしまうのではないか。より控え目だが効果的に適切な行動を確保できる手段はあるのではなかろうか。
例えば、特許の申請の際に、適切なプラクティスに従っていることの証明を求め、これがないと特許を認めない、などというスキーム(*5)も考えられるのではなかろうか。

こうした疑問は、読み進めるとある程度解消する。州インフォームド・コンセント法を検討する箇所では、カリフォルニアのムーア判決を参照して、「医師の持つ金銭的インセンティヴを開示されることは、患者の権利に含まれる」とする。「患者の権利」を満たそうとすれば、例えば間接的スキームでは不十分だ、ということになる。(*6)
しかしさらに進んで、何故患者にかかる権利を付与するのか、という問いはどうだろうか。ムーア判決の理由付けは、この問いに対し(形式論としてはともかく)実質的政策根拠を説得的に提示しているだろうか。
患者Pは医師Dから、研究途上の新療法αを勧められた。DはPに対しαの利害得失については十分に説明したが、Dがαの成功につき有している金銭的利益については開示しなかった。Pは、この分野について詳しい別の医師Eに対しαに関するセカンド・オピニオンを求め、これに基づいてDの提案を受け入れてαを受けた。
この状況において、Pは一体「何」を「失った」のだろうか。Dの持つ利害をEが知っていた場合と知らなかった場合とで違いはあるか。(*7)
このように問題を設定した上でなお、「患者の権利」をrecognizeするとすれば、ある種の「人間の尊厳」の観念に訴えた上で、自らに対して侵襲をなす者にはある種の(経済的な?)「無垢さ」「清廉潔白性」「純潔性」を求める観念を導入する必要があるように思われる。もっとぶっちゃけた表現をすれば、「自分の利益を隠して俺の身体に触れるなんてキモチワルイ」という感覚を、正面から法益として認めることになる。(*8)
もっとも、「キモチワルイ」という感覚が原理的に正当化できないとしても、事実として多くの市民がそのような感覚を持てば、社会的・政治的回路を通じてやはり政策課題として上ってこざるを得ないかも知れない。これは前述の「評判」「信頼」との論点とも関係し、後述する。

もっとも本書もこの、何故患者にかかる権利を付与するのかという問いに無自覚なわけではない。特に終章で、開示義務の実際的効果について社会心理学的研究を参照しつつ検討する箇所でこの問題を前景化している。今後の課題とのことなのでさらなる検討を期待したい。

このように本書は、提示された問題状況との関連で、(拡張された?)「個人の尊厳」、「科学的客観性」、「バイオ産業の保護育成」という複数の政策目的を挙げる。
しかし、こうした政策目的を、アメリカ実定法の検討から抽出するというアプローチを採っているが故に、かなり後のほうになってから出てくる、という感もないではない。早い段階で、「ここで関連する政策目的はコレとコレとコレです」と明示的に提示した上で(*9)、その相互の関連をより踏み込んで検討してあると、本書の枠組みがより明確になったのではないか。
議論の順番として、「バイオ産業の保護育成」という外在的な政策課題があり、事実として先行してしまったが、「個人の尊厳」「科学的客観性」という別の価値で歯止めをかけようとしていますよ、というストーリー構成になっている、ように読むのだが、果たしてそうなのだろうか。ぱっと見でも、科学的客観性を欠く研究が「保護育成」に値するものとは言えないように思える。「キモチワルイ」感を無視した研究は、(それが承認された法益であろうとなかろうと)一般的支持は得られないかも知れない。こうした、複数ある政策目的の関係を、相互補完的なものとして早い段階で提示してあると、本書の構成はより堅牢なものになったように思われる。

「ソフト・ロー」の広がり

さて、本書は問題の解決にあたり、アメリカ医師会や世界医師会等の民間団体が発表した、倫理基準の果たす機能を強調し、これをソフト・ロー論のコンテクストに位置付けようとする。国家法(ハード・ロー)とは異なるソフト・ロー・アプローチの利点・欠点を指摘した上で、機能するソフト・ローのあり方として、ハード・ローとソフト・ローの協働、「ハード・ローと自主規制の共同規制」「規制された自主規制(regulated self-regulation)」を挙げる。(*10)
「ハード・ロー」か、ポリティクスか
本書は、AMA等の研究者団体による自主規制が、連邦厚生省によるフォーマルなルール(連邦行政庁によるregulation)策定の「脅し」の環境下で策定されたことを指摘し、以てハード・ローとソフト・ローの協働の事例として取り扱う。
そうであろうか。これはまさしく「脅し」なのであって、それ自体は法的なアクションではない(*11)。これは法的なスキームの連関の事例であろうか。政治的環境を察知した研究者団体がそれに先回りした、というポリティクス、と呼ぶほうが的確なのではなかろうか。もっともここら辺りは「ソフト・ロー」概念自体が発展途上であるために今後鍛えられるべき面ではある。

これは、団体側がかかる倫理規範を策定した動機にもかかわる。
彼らは(単に)、問題を放置することによって世間の風当たりが強くなり、自分たちの活動がし難くなることを回避しようとした、だけではないのだろうか(*12)。積極的に問題を解決しようとした、というより、利己的、自己保身的な行動だったのではなかろうか。ここでは前述の「評判」「信頼」という契機が絡む。
もっとも、「利己的なアクションだからケシカラン」と主張するつもりは毛頭ない。各々のアクターが自己利益を追求した結果として社会全体としての利益が達成されるのであれば、そうしたシステムは安定する。
自主規制のレベルないし単位
そう考えると、果たして「自主規制」をする単位は研究者団体である必要はあるのであろうか。もっと下のレベル(例えば大学や病院レベル)で倫理規範を策定し、それを公表してコミットメントを表明することで、より(先端的and/or実験的医療を求める)患者が集まるという「競争」の可能性が生まれるかも知れない(*13)。実際、本書は大学レベルでの倫理規定の存在を指摘している。

もっとも、こうした状況は別に医療・医学研究に特有ではない。例えば企業が、顧客の利益保護のために一定の行動やビジネス・スキームを宣言し、それにコミットする、というのはよく見られる現象である。これにより同業他社と差別化して既存顧客のロイヤルティーを確保するとともに新規顧客を集めようとしているわけだが、同業他社も同様の行動を起こして結果的に業界内で一定の方向に収斂するというのもよくある話である。機能する市場のよき面である。

また、以上のように考えると、初めのほうで提示されている自己規律は信頼の根拠たり得るかという問い(35頁)の答えも見えてくる。自己のルールに従っているということそれ自体ではなく、当該ルールのコンテンツ、それが外部から観察可能か、実際にそれにコミットしているかが問題なのである。
他の事例?
ところで、かかる「ハード・ローとソフト・ローの協働」というのは、別に医学研究の分野だけに見られる現象ではないし、最近の現象でもない。
  • 業界団体が自主規制を策定し、それが法的拘束力を持つというのは、ニュー・ディール期の全国産業復興法(NIRA)の採用したスキームである。
  • U.C.C.は、"usage of trade"という形で包括的に、あるいは"commercially reasonable"という文言を通じて個別的に、業界の商慣行を取り込んでいる。
  • 近時の行政実務(特に環境行政)における、協調的法執行。
こうした諸現象と、本書で取り扱われた法現象の間には、どのような異同があるのであろうか。

このような視角から眺めると、ニュー・ディール期の行政国家化の発展を理論的に再編成しようとした、プロセス学派が改めて重要性を帯びることになるやも知れない。

というわけでまとめると

さて。
冒頭に「本書にコメントする資格があるか疑わしい」と書いた。
この分野は不勉強なので知らなかった情報が書いてあり勉強になるのだが、ただ上に挙げたような“行間”が気になってしまった。恐らくこの“行間”は医事法研究者にとっては共有されているものなのであろうが、門外漢はそこで引っ掛かってしまう。
そうした“行間”を埋めてもらえれば素人にも助かるのだが、という無い物ねだりが本エントリの趣旨、ということになる。(*14)
Cigarette Company Paid for Lung Cancer Study - New York Times
By GARDINER HARRIS
Published: March 26, 2008
http://www.nytimes.com/2008/03/26/health/research/26lung.html?th&emc=th
At One University, Tobacco Money Is a Secret - New York Times
By ALAN FINDER
Published: May 22, 2008
http://www.nytimes.com/2008/05/22/us/22tobacco.html?_r=1&ex=1212120000&en=f207e2acce96fc17&ei=5070&emc=eta1&oref=slogin

【関連?】

謝罪する医師 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
ヴォランティアの成立し得る空間・補論 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
システムと「個人」の「過失」 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

テーマ : アメリカ合衆国 - ジャンル : 政治・経済

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2008.06.01 (Sun)

ゆうきのしるし

「勇気」と変換しようとして、
最初に出てきたのが「優季」…ォィ
次がに出てきたのが「祐麒」…orz

何てこったいATOK 2008…と思おうとしたが、MS-IMEからインポートしたユーザー辞書が悪いのか(汗)
21:07  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.06.01 (Sun)

哲学イルヨ

あー、「αシノドス」登録しようと思って忘れてた。
なので見落としを発見したので補足。

メルマガ「αシノドス」に掲載されたマーサ・ヌスバウムのインタビュー記事を、訳者の藤本拓自氏が自身のブログに転載している。
哲学と公共生活 - スマイル・トレーニング・センター
http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20080523/p1
『αシノドス』vol.2にヌスバウムの翻訳を寄稿しました - スマイル・トレーニング・センター
(「訳者解説」からの転載。) http://d.hatena.ne.jp/chaturanga/20080426/p1
冒頭でヌスバウムはアメリカにおける哲学の軽視を嘆き、(具体的にはオランダを参照して)ヨーロッパの状況と対比させている。
さらに藤本氏は、これを「哲学イルヨ問題」を取り扱ったものとし、氏が以前に翻訳・寄稿したローティの「哲学イラネ問題」と「あわせて読みたい」としている。

ヌスバウムもローティもちゃんと読んでいるわけではないので論評は控えるが、先日、話題にしたアメリカの「反知性主義」とアメリカ-ヨーロッパの対抗と重なるということで言及。
そうすると、ローティは“アメリカン”でヌスバウムはヨーロッパ的ということか。前者は分かる気がする。後者は…彼女は古典研究から出発したからということか。

ヌスバウムのインタビューのメインは、医療倫理、国際開発、文学といった諸分野における哲学のrelevancyを論ずる。
法への言及も含む(*1)


ちょっと細かい突っ込みになってしまいますが、一部法律関連の訳語についてコメント:
哲学と公共生活 - スマイル・トレーニング・センター
「もしその事務所が奉仕基本(料金無料)の訴訟を扱っているなら、」
原語は"pro bono"でしょうか…そうですね。
Eurozine - Philosophy and public life - Martha Nussbaum, Stelios Virvidakis Interview with Martha Nussbaum
"...if the firm takes on cases on a pro bono basis (charging no fees)..."
http://www.eurozine.com/articles/2007-01-05-nussbaum-en.html
田中英夫先生(『英米法辞典』)は「公益追求訴訟」としていますが、最近の実務家や法社会学者の書いているものだとカタカナで「プロボノ」(「プロ・ボノ」)とするケースが多いように思います。法律家以外は使わないので意訳してやるのは読者層を考慮すると適切ですが…って、Wikipediaにも載ってるな。
"~ basis"は何に基づいて弁護士報酬を算定するか(*2)、ということですので、私なら強く意訳すると
「もしその事務所が公益への貢献のために弁護士報酬無料で事件を引き受ける場合には」
といった辺りでしょうか。

哲学と公共生活 - スマイル・トレーニング・センター
「最良の刑事弁護士は、彼女に非常に刺激を受け、レイプ法を書き換え、もっと適切なものにしようとしています。」
具体的な刑事事件に批判的に言及した後でこのセンテンスが出てきて、「刑事弁護士」というとこの事件の被告人=訴追されている男性の弁護人を連想してしまったので、一瞬混乱しました。立法活動に携わっているのはそれとは別の人だと思われます。
原語は"the best criminal lawyers"で、"lawyer"の語感ともかかわるのですが、"lawyer"はもちろん「弁護士」でもあるのですが、もうちょっと広くアモルファスに、「法律の専門家」「法律の訓練を受けた人」縮めて「法律家」ぐらいのニュアンスかと思います。

さらに蛇足:
哲学と公共生活 - スマイル・トレーニング・センター
「実際、マッキンノンは、「ああそうね、それこそがいつもとっても残念に思っている、アンドレアのヒューマニズムなのよ」と言うことでしょう。」
このような女性の発言を「女言葉」で訳すのはジェンダー・ステレオタイプだと言われそうな気がして勇気が要るのですが、逆にフォーマルな言葉にするのもニュアンスが消えると言われそうな気がして、難しいところです(恐らくその辺りも考慮されて訳語を選択されているのだと思いますが)

【関連】

Versions of Democracy - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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2008.06.01 (Sun)

米国型違憲審査制についての覚え書き

差し当たり、憲法訴訟に議論を限定するが;
例によって、大雑把な要約または未検証の仮説の域を出ないが、司法部による違憲審査and/or憲法訴訟について引っ掛かる点を覚え書きとして。
憲法学者はこうした問題をずっと考えてご飯を食べているわけだし、基礎的問題というのはなかなか解決しないからこそ基礎的問題なのだろうが、自分的にはその次の問いへ行きたいのだが。

司法部/裁判官の政治的アカウンタビリティ

先に
Versions of Democracy - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
*4 しかしながら、フランスにせよドイツにせよ、大陸型の憲法裁判所は、アメリカのそれに比して、より明確に政治的性格を規定されているように思われるのはどう解すべきか。むしろ、形式的政治性と実質的政治性との捻れに着目すべきか。
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-199.html
こう書いたのは直接的には、アメリカの司法審査に関する議論が--当の裁判官自身によるものも含め--いずれも、「政治的にアカウンタブルではない裁判官が」との枕詞を伴うことへの「?」感からである。
確かに直接人民に基礎を置くものではないとしても(*1)、大統領はしばしば裁判官とりわけ最高裁裁判官の任命を任期中の最も重要な課題であると考えるし、その人選においても議会上院による承認の際の審査においても、実質に立ち入った議論がなされる。
これは、裁判官の人事に事実上、政治的決断(=政治的責任の引受)が介在しない日本から眺めれば、本当に「政治的にアカウンタブルではない」のか、と見える。
ヨーロッパの状況についてはきちんと理解しているとは言い難いが、制度的にはフランスの憲法院もドイツの憲法裁判所もその人員の構成については制度的に政治システムが責任を持っていると了解している。これによりその判断の民主的正統化については明確になるわけだが、その割りには活動が「大人しい」との印象も持つ。これが「形式的政治性と実質的政治性の捻れ」と表現した点。(*2)(*3)

“主観訴訟”の政治性

Marbury v. Madison判決で、Marshallが司法部による違憲審査を打ち出した際、彼はそれを憲法上、司法部に与えられている権能に基礎づけた。
"It is emphatically the province and duty of the judicial department to say what the law is. Those who apply the rule to particular cases, must of necessity expound and interpret that rule. If two laws conflict with each other, the courts must decide on the operation of each.
So if a law be in opposition to the constitution; if both the law and the constitution apply to a particular case, so that the court must either decide that case conformably to the law, disregarding the constitution; or conformably to the constitution, disregarding the law; the court must determine which of these conflicting rules governs the case. This is of the very essence of judicial duty...
The judicial power of the United States is extended to all cases arising under the constitution.
Could it be the intention of those who gave this power, to say that, in using it, the constitution should not be looked into? That a case arising under the constitution should be decided without examining the instrument under which it arises?
This is too extravagant to be maintained."
Marbury v. Madison, 5 U.S. 137, 178-179 (U.S. 1803)
ところでそもそも、司法権を行使するためには事件・争訟(Cases or Controversies)であることが要求される(*4)

そうであるとすると、
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コメント
「…アメリカ法では、私達ならば「客観訴訟」と看做すであろう争いについても、主観化してしまう傾向があるように感じます。このようにすれば、「政治的性格」をもつ紛争であっても、通常の私権を巡る紛争と同じく、単なる「主観訴訟」として争うことができるので、ことさら違憲審査権を「政治的性格」を帯びたものとして構成する(「抽象的規範統制」等々)必要がないのかなあというように思っていました。」
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-199.html
この点、私の理解する論理関係は逆である。
アメリカ(連邦憲)法においては、司法権の行使において事件性・争訟性が要求される以上、そこから引き出される憲法訴訟はそもそも“主観訴訟”でしかあり得ない。「主観訴訟として争うことができる」のではなく「主観訴訟として争わなければならない」。
従ってその下での課題も、如何に“主観訴訟”に政治的トピックを持ち込むか、というものになる。
「政治的紛争が主観訴訟になる」のではなく「主観訴訟が政治的紛争になる」のが、アメリカ法のフェアな理解だと思われる。(*5)(*6)

機能的「抽象審査」?

しかしながら、アメリカ法においても、(当事者適格とも訴えの利益とも訳し得る)standing--事件性・争訟性の判断の基礎である--が緩やかに認められること(*7)、プラス、法令の執行自体を差し止める判決が可能であることから、事実上、機能的に抽象審査を採用するのに近い状態が実現しているのではないか(*8)、と評価することもできる。もちろん確実にそう言うためには、やはり共通のベンチマークを設定した上での比較研究が必要となる。

「裁判所による人権保障」

「近代憲法下では、個人の人権を保障するための裁判所の役割が重要である」という命題は、憲法の教科書の最初に書いてある、法学部の憲法の(法学部でなくても)授業の最初の時間に教えられる、事柄である。
しかし、歴史的に眺めてみれば、そのような状況が確立したのは比較的最近のことである。かかる観念の母法国とすら言えるアメリカにおいてさえ、長い間、憲法訴訟の中心は連邦制の論点であった。Lochnor時代において「人権規定に基づいて立法を違憲無効とする」とは、最低賃金法や労働時間規制を無効化することを意味した。

個人の権利に関する訴訟が憲法訴訟の中心となるのは、ニュー・ディール期の憲法革命を経た後、1940~50年頃と考えられる。極端に言えば、アメリカでも「裁判所による人権保障」が確立するのは第二次大戦後のことである。無論その際には、Brown判決(*9)を嚆矢とするWarrenコートが重要な役割を果たしたことは言うまでもない。(*10)Carolene Products footnote 4(*11)や編入理論の確立もこれに貢献しているだろう。

理論の探究と法概念

ところで、「法」が客観的に実在するものだと考えられる限り(*12)、前述のように司法部による違憲審査を法を述べるという司法権それ自体から引き出すこともさほど難しいことではない。
しかし、そのような法観念は20世紀前半までには消滅、あるいは少なくとも大ダメージを受けていた。リーガル・リアリズムによる挑戦もある。そしてかかる観念を決定的に敗北せしめたのはErieドクトリンの確立(*13)によるSwift法理(*14)の判例変更であろう。

かかる法観念の変化と、(個人権を基礎とする)憲法訴訟の活発化とが、近接した時期において起こっている。このことが、明文規定なき司法部による違憲審査を如何に正統化するかという、現在も続く憲法理論の中心的課題(*15)の背景にある。

ヒーローとしての裁判所?

ところで。
現在の憲法の通説的立場は、それを主唱した学界の(現在の)重鎮がその頃、学説を確立したことから、Warrenコートをパラダイムとして想定しているように思われる。少なくとも、「その後の連邦最高裁は保守化している」とか、日本において「アメリカでは積極的に違憲判断をしているというのに、日本では」という類の議論をする研究者(*16)については、そう言えるのではないか。
しかし、これはより長い歴史的スパンに立ってみた場合、適切な見方なのだろうか。むしろWarrenコートの時期のほうが特異な時期として把握したほうがフェアな理解のではないか。


パズルをパズルのまま書き散らしてあります。
誤りの訂正お願いします。 >識者

テーマ : アメリカ合衆国 - ジャンル : 政治・経済

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