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2008.05.08 (Thu)

ヴォランティアの成立し得る空間・補論

ヴォランティアの成立し得る空間 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-179.html
先日のエントリに対してTBを頂いた。
タダ働きとしてのボランティア - すなふきんの雑感日記
http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20080508/1210200420
先のエントリの特に後段は、日本の状況は脇に措いてもっぱらアメリカを観る際の論点メモになっていたので、日本の状況へ置き戻していない(汗)(*1) 少し補足しておく。

念のために補足すると、
(a) 先のエントリはヴォランティアに実際に従事する人については何も語っていないし、ましてや批判するものではない。ポイントはヴォランティアに依拠して社会システムを組み立てることの問題性であり、仮にヴォランティアに依拠するのだとすれば、「それによって供給される財・サービスを受け取れない人が出てきても仕方ない」という覚悟ないし割り切りが必要なのではないか、という指摘である。

(b) 先のエントリではもっぱら個別的な対価的牽連関係に着目していたので、市場全体に及ぼすインパクトについてはあまり考えていなかった。
「「対価」を生み出さないということは、本来経済が有する富の生産流通過程を中断することにならないか。これははたして経済にとって望ましいことなのだろうか?」
自分としては「あらゆる財・サービスが市場で提供されるべきである」とまで言えるかは自信はないが、
ボランティア活動は公益になるか(*2)
「ボランティア活動家が、本職の労働時間を削って、非営利活動をすると、営利活動が減少するから、政府の税収が減る。しかもボランティア活動は、有料で同じサービスを提供していた業者から仕事を奪うので、失業者を増やすことになり、政府は失業対策のために余計な支出をしなければならなくなる。」
http://www.nagaitosiya.com/a/volunteer.html
これらの指摘に対して特に異論はない。
実家の庭には父の趣味であれこれと樹木が植えてあるのだが、流石に数年に一度は植木屋の手を入れないと大変なことになる。
地域に、既に職業としては引退した高齢者が小遣い稼ぎに仕事を請け負うサービスがあり(*3)、実家の植木の手入れでもそこにしばしば頼んでいる。もちろん普通の業者に頼むよりも安いからなのだが、何故安くできるかをちょっと考えてみれば、彼らの生活がその仕事に懸かっていないからである。彼らは既に年金を受け取っているはずだが、これは言うなれば補助金付きで労働市場に参入しているようなものであろう。そして、現役世代から仕事を奪っている。
そんなことを昔考えたことを思い出した。
タダ働きとしてのボランティア - すなふきんの雑感日記
「コメントを書く
arrack 2008/05/08 15:08
団塊の大量退職者をボランティアとして放課後の教師うんぬんという話ありましたけど、単純に考えたら塾講師の職をダンピングで奪ってることと同義ですから大変な問題なはずなんですが」
http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20080508/1210200420

タダ働きとしてのボランティア - すなふきんの雑感日記
「日本社会でも実質的には社会的コストを共同体的機能の無償奉仕的行動に依存してきた部分が大きい可能性を考えれば示唆的である。そうした意味ではむしろ日本社会の方が現代に至るまで広義の「ボランティア的」(家内労働・企業内サービス残業など)社会であり、またあり続けているのではないか…」
日本社会が家庭内労働やサービス残業といった「広義の「ボランティア的」」なるものに支えられている、という指摘には同意する。
ただ、すなふきん氏も慎重に「ボランティア」としているが、家庭内労働やサービス残業というのは、語の真の意味でvolunteer=自発的なものではない。むしろ現状において実際にそうした役務を担っている当事者というのは、そうせざるを得ないが故にそうしている。
そう考えると、ここにはそうせざるを得ないように仕向けている権力を見出せる。(*4)

さらにそこから考えを進めると、
(1) 公共セクターや政治的リーダーが“ヴォランティア”を称揚するのは、かかる権力の弛緩に対する反動だと理解することができる。

(2) かかる権力の源泉は、外部労働市場の未発達・機能不全に求めることができる。すなわち、家庭内労働であれば労働市場から女性が排除されていること、サービス残業が強要されるのは転職市場が未発達なことから、当該家族/雇用関係から離脱することが不可能ないし困難であるため、事実上、“タダ働き”するより他ないためだ(*5)、といえる。
小泉政権下の諸施策を「新自由主義」として“負の遺産”とする一方、昔ながらの日本型システムを懐かしむ声も強いのだが、自分としてはそれは外部労働市場の不在をキーとする抑圧的な社会への回帰を志向しているようにしか思えないのである。


ただ、さらに留保を付せば、(前述(b)にもかかわるが、)人の動機付けとして常に狭義の交換取引的なもののみに依拠して思考すべきか、と言い切れるかは自信がない。
短期的に自分の得になるかどうかは分からないけれども、とにかくやってみよう、後々「情けは人のためならず」が実現すればそれでよし、そうでなくとも仕方ない、というような行動/態度/動機付け(*6)は、(それを“ヴォランティア”と呼ぶかどうかは別問題として)社会の潤滑油としてあっていいのではないか、という考えもある。
社会の構成員がそれぞれそのように考えていれば、各構成員は中長期的に与えるものと受け取るものがトントンになるであろうし、そのような状況が成立するのであれば、そのような行動を促すミームも行動経済学的な意味で合理的なものだろう。

自分が批判したいのは、実際には与えることと受け取ることとに非対称性が生じているにもかかわらず、自ら「与える」つもりのない者が、「与えること」の「道徳性」を強調して相手に「与えよ」と迫ることにある。無論、このことを意識的・無意識的にキャッチする者は、与えること自体を差し控えるであろう。(*7)

なお、
ボランティアや支援行為は富裕層の特権的行為か - すなふきんの雑感日記
「「kmizusawa 公的セクターが募集するボランティアはたしかにいかがわしい。しかも無償だから好き勝手出来る(連絡なしで勝手に休んだり)と思ってる人が応募してきたりして大変だという話もちらっときいた」
結局人間というのは「どうせタダ働きだし・・・」とタカを括っているとどうしても手を抜くものなんだろう。それなりの質を確保するにはそれなりのコストがかかるということ。」
http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20080509/1210286967
逆に、むしろ無償のほうが提供される財の質が上がる場合もあって、献血(有償であれば売血)の例がよく挙げられ、その理由も経済学的に説明されているはずなのだが、すぐに思い出せない。Posnerだったかな…


【関連?】

popular constitutionと「教育」 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
愛国心概念の空虚さ - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
で、誰をひっぱたくのか - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
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