社会のID:[OL]2008-04-29 Tue 21:21
ペンシルバニアは私のビザの条件では運転免許を発行してくれない。らしい。
大学の担当者はそう言っていたのだが、当局のホームページでは該当の情報を確認できない。 ともあれ、という次第でこちらの免許は取得していないし、おかげでIDを要求される場面−−少なくない−−では何かと不便である。まぁパスポートを持ち歩けばいいだけとも言えるのだが。 Don't Fear the Reaper : 速報:投票において写真付きIDの提示を求める州法は合憲もう5月。2007-08開廷期も終盤に入ってきて、注目事件の判決も出始めている。 これもそうした一件。 Crawford v. Marion County Election Bd., 2008 U.S. LEXIS 3846 (Nos. 07-21 and 07-25, Apr. 28, 2008)投票の際に写真付きID(運転免許証とか)を要求するインディアナ州法が投票する権利を侵害すると主張された事件。結論は6対3で合憲。 選挙法の専門家であるeastriver46先生が評釈を書くと宣言されているので詳細な分析はそちらにお任せすることとして、ここでは斜めに読んだ感想メモのみを。 事案の特徴として若干追加すれば
正確には(3+3):(2+1)の判断。法廷意見は形成されていない。のみならず相対多数(plurality)意見すら構成されていない。珍しい。 Stevensの意見(Roberts、Kennedy同調)が結論を宣言した"lead opinion"として扱われているが、何でだろう?主席裁判官が入っているから?(*1)よく分からないのだが、ちょっと見た限りでは根拠規定が見つからない。 大雑把に言えば、運転免許証等の写真付きIDを取得することが
本件でも注目はStevensだろう。放っておけばいつもの5:4になるところを、彼が合憲側に回ることで3:3:3となっている。 Robertsは例によってミニマリスティックに事件を処理しようとしたのだが、法廷意見を構成することに(また!?)失敗、このままだとScalia派の意見が相対多数意見となるところを、老獪なStevensは自らの投票でそれをつぶした、という辺りか。 In a 6-to-3 Vote, Justices Uphold a Voter ID Law - New York Timesこちらの見解はもっと積極的に、Stevens主導でRoberts、Kennedyを引き剥がした、という見立て。 逆にAlitoの投票行動は先日のobservationからはハズレ(汗) 「ID法に関する議論は、これで一応合憲ということで決着がつくことになるのか、それともまだ一波乱あるか。」文面上違憲の主張を斥けただけなので、形式的には適用違憲の事件で再び争われる可能性があるが、本件で要求されている立証水準等に照らすと難しそうではある。 |
2M2008-04-27 Sun 23:34
授業は終了したし、次の締切まではしばらくあって少し時間に余裕があるので、−−などと書くと日本にいる人に叱られそうだが…いや、日本もGWか−−この週末はブルックリン美術館とメトロポリタン美術館を訪れるために、ニューヨークまで出かけた。
primaryな目的はブルックリン美術館で行われている村上隆展を観ておこうと、土曜日はこちらへ。 村上隆氏は名前だけは以前から聞いていたものの実際の作品を観たことがなかったので。 しかしまぁ、先入観満々で観に行って、その先入観を確認したというのが感想ですな(笑) ヲタク文化をモチーフにしているのにヲタク・カルチャーに対するリスペクトが感じられないのは確か。 クイーンズの宿だったのだが、メトロ7番線から見えた廃工場壁のgraffitiとどう違うのだろう? 日曜日はメトロポリタン美術館へ。 MetではPCを(1)セキュリティでチェックされます;(2)クロークに預けることはできず、持ち歩かなければなりません。従ってPCは宿に置いていくのが吉。自分はもうチェックアウトした後だったので。 "21 Century Met"と銘打って、建物の大改修工事の最中だった。そのため動線があちこちで分断されていて地図があまりアテにならなかった。 何だか「21世紀COE」みたいなネーミングだと思う(汗) Metを訪れるのは…2回目? 以前訪れた際は、「光の画家」たるモネを初めとする印象派が、照明の使い方の所為か、暗く観えた印象を持った。 今回はそのようなことはなく。 キュレータの展示への考え方が変わったのか、こちらの見方のためか。後者、単純に外が曇っていたから建物内では明るく感じられたのかも知れない。 オーディオ・ガイドを借りたのだが、このオーディオ・ガイドは原則としてキュレータが作品の解説をしている。ふと、こういう仕事をすれば、声優さんにとって新たな領域を開拓するのでは、と思った(*1)。もう既にあるのだろうか。新たな観覧者も獲得できそうだ(笑)(*2) 声つきアイテム - REVの日記 @はてな |
ゼミのスタイル2008-04-24 Thu 22:30
木曜の憲法訴訟ゼミは今週が最終日。
通常のassignmentの替わりに、学生の提出したペーパーが題材。 5〜6頁程度のペーパー5回が成績評価の要件で、その中で"not necessarily best; good and controversial ones"が4本。 該当の学生が簡単に紹介した上で、defendやるというスタイル。 G教授もベテランだがこういうやり方で授業をやるのは初めてだそうで; しかしペーパーも基本的に普段の教材に基づいて書かれているわけだし; 文献の紹介+報告者のコメントというのは日本(の法学部)で「ゼミ」というと普通にやるスタイルだよなぁ、と思う。ちょっと意外。 10人のゼミを一学期間見ていると、アメリカのロースクールにもいろいろな学生がいるよなぁ、と思う。 偶々だろうが全員白人。女性は3名。 M氏: ソツないタイプ。以前B教授のFaculty Presentationに出たときには、B教授の論文作成に当たってRAをしていた。 S氏: ひょっろっとした感じのガリ勉タイプ。でも日本的ガリ勉と違って議論には参加する。 R氏: 恰幅のいいボスタイプ。4月の頭に階段から落ちて足を挫いたといって最後は松葉杖だった。以前のACSの集会では司会をしていた。 E1女史: 手堅くまとめるタイプ。既婚らしい。既婚者が普通にいるのもロースクールならでは。 J氏: デレっと、日本の学校ならまず注意されるような座り方をいつもしている(でもこちらでは注意されないのもアメリカ的)。しかし授業参加がいい加減ということはなく、最も(ラディカルな)議論を展開するメンバーでもあった。 M女史: 自分から発言することはまずなく、本人が小柄なことも相俟って(アメリカ人らしからぬ*1)大人しい印章。しかし口を開けばちゃんと意見は持っている。 O1氏: いつもキャップをかぶっている(これを注意されないのもアメリカ的)。前半はあまり議論に参加していなかったが、後半になると発言が増えた。スロースターターらしい。 O2氏: ほとんど口を開かなかった。最終日に他の学生と話しているのから推測すると、留学生だったらしい。ということで納得。留学生が喋りにくいのは日本人に限らないよね。 E2女史: 見た目も喋り方もギャル系なのだが、喋る内容はちゃんとあるのはアメリカ的学生。 B氏: 彼もガリ勉タイプだがS氏よりはひょろっと感は薄い。私は彼にassignmentをもらっていた。 |
決戦は火曜日2008-04-22 Tue 23:57
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民主党ペンシルバニア州予備選挙2008-04-21 Mon 23:30
周知の通り、大統領選挙の民主党予備選挙、次の注目はペンシルバニア州の予備選挙で、そしてその投票は明日なわけだが、大票田であるフィラデルフィアも盛り上がってきた。
学内でも学生が中心になって集会が開かれたり、投票を呼び掛けたりしている。 図書館で仕事をしていながら、今日は何だか騒がしいな、選挙だからか、と思っていたが、案の定その通りで、近くの広場でヒラリー陣営がミニ集会をやっていた。 (カメラを忘れたので写真を撮れなかった。) 選挙になると騒がしくなるのは洋の東西を問わない。 大家さんはヒラリー支持らしい。 ![]() ちょうど奥さんが、ヒラリー支持層にどんぴしゃりの「白人・中高年・高学歴・女性」に当たる。同時代人と言っていい。 出掛けには、ドアにオバマ支持の、何と言ったらいいのだろう、よくホテルに泊まると"Do Not Disturb"とか、朝ご飯のルームサービスの指示とかをドアノブに引っ掛けておく札があるが、それと同じようなオバマ支持を呼び掛ける紙の札が掛かっていた。 ふうん、こんなのがあるんだと思って記録しようと思ったのだが帰りには片付けられてしまっていた。 |
プロとかアマチュアとか 最初に言いだしたのは 誰なのかしら2008-04-21 Mon 23:01
「アラ探しより“面白い探し”のほうがいいじゃん」:NBonline(日経ビジネス オンライン)アマチュアは、流行ってる研究を分析してコピーするとか、どうやってたくさんの人に聴いてもらえるか、すごく企画しているかもしれないけど。でも本当の学徒は、たぶん完全に、自分の心から出てきた学問をやっているから。「ついてきてくれる聴衆がいればいい。いなくてもしょうがない」っていう。自分に正直でないと、学問はできないから。 僕の個人的な研究のセンスだって、ひょっとしたらマニアックかもしれない。僕はそういうコントロールはあんまりできないんですよ。たぶんほとんどの研究者も、同じじゃないかな。 単なるプロフェッショナルを超える、「感動を生む仕事」をする人の13の特徴 - 分裂勘違い君劇場 プロと呼ぶには照れる程度の仕事をする人の13の特徴 - finalventの日記オマケ: 本当に本当の「プロ」と「アマ」の13の違い |
死刑:lethal injection2008-04-20 Sun 22:30
Baze v. Rees, 2008 U.S. LEXIS 3476 (Apr. 16, 2008)アメリカにおける死刑執行方法の主流は薬物注射だが、その中でも主流の3種の薬物を使用した手法について、第8修正「残虐で異常な刑罰」に照らして争われた事件。 この事件及び同種の事件が裁判所へ継続していたため、裁判所が死刑の執行の停止を命じ、裁判所の命令がない場合でも州当局は執行を差し控えていたため、昨年秋よりアメリカは事実上の死刑執行停止状態にあったが、連邦最高裁の結論は7対2で合憲判断。これにより執行停止も解除される見通し。 口頭弁論の様子から予想されていた結論ではある(*1)。 本件では、死刑それ自体の合憲性は争われていない。 また、本件被告人が有罪で死刑判断を受けたことも争われていない。 さらにはこの執行方法が適切に実行されれば死刑囚は苦痛もなく死亡するであろうことも争われていない。3種の薬物とは 第1の薬物により麻酔状態となり、第2の薬物は筋肉を動かなくして余計な動きを妨げ、第3の薬物により心臓が停止する。 が、パンクロニウム、塩化カリウムは麻酔状態にないと激痛を伴う。特に、麻酔が効かないままパンクロニウムが作用すると、激痛が走っても身体を動かすことができない。本件で争われたのは、ケンタッキー州の死刑執行手続がこのように手順に誤りが生じる可能性を排除できているか、ということになる。 結論は7対2で合憲判断であり、反対意見の2名も積極的に違憲だと言っているわけではなく判断に十分な認定がなされていないから下級審に差し戻すべきだとするものであり、そのような結論だけを見れば安定的な合憲判断だとも言える。 しかし法廷意見は形成されておらず、3(相対多数意見、Roberts執筆、Kennedy、Alito同調)+1(Stevens執筆)+2(Thomas執筆、Scalia同調)+1(Breyer執筆)で7票。反対意見はGinsburg執筆(Souter同調)で、その他にAlitoの同意意見、Scaliaの結果同意意見(Thomas同調)がある。 そこで採用された判断基準も、
論点を狭く絞り込んだのはできるだけ多くの裁判官を取り込もうという、Rehnquistの弟子たるRobertsの訴訟指揮ではないかと推測するが(*3)が、失敗に終わったと言える(*4)。 asahi.com:米最高裁、薬物注射の死刑は「合憲」 執行再開の可能性 - 国際 薬物注射による死刑執行は合憲、米連邦最高裁が判断下す : 国際 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)(ちょっと書き方に引っかかる部分はあるが、)指摘の通り一番関心を引くのはStevensの結果同意意見だろう。18頁にわたって死刑についていろいろと書いているが、本件の判断に直接係わりのある判示は最後の1頁にも満たない1段落のみである。しかも、「いろいろ思うところはあるけど判例法がそうなっている以上、具体的基準が相対多数意見のものであれ反対意見のものであれ、合憲」と、それまでいろいろ書いていたことに照らすともうちょっと何かあっていいのではないかという書きっぷりである。 最近のStevensは同様に、直接判断に係わりのないことをいろいろと書くのが目立つ印象がある。隠居を視野に入れて(*5)言いたいことを今の内に言っておこうという感じがする。そのように考えるのは洋の東西を問わない。 そしてScalia結果同意意見は、もっぱらこのStevens結果同意意見に対する反論である。 Ginsburgが反対意見にまわる例も同様に目に付くのだが、彼女の場合、いろいろと思うところはあるだろうと想像するにもかかわらず、実際の反対内容は地味に事案の差異を指摘するパターンが多い気がする。 逆に、Alitoの投票行動も目を引く。 最高裁に入る前の下馬評は、"Scalito"とも言われるほど、“硬い”、原意主義的な判断態度が予想されたのだが、実際に蓋を開けてみるとScalia・Thomasグループとは必ずしも同調せず、むしろRobertsのminimalisticなアプローチに同調する例が多いように思える(*6)。 今回の判断で、死刑に対して最も批判的だったのはStevens、Ginsburg、Souterと、最も辞めるのが早いだろうと予想されているメンバーである。 そうすると、前述の通り本件の判例法が何であるかを読み取るのは厄介だが、結論的には連邦最高裁レベルでの死刑の合憲性は当面安定的だろう。 注目されていた事件ではあるが、大山鳴動鼠一匹の感もないではない。 今後はしばらくは、(NJやネブラスカがそうであったように、)死刑制度については州の動きのほうが重要性を増すのだろう。 【関連】第8修正シンポ - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する死刑:電気椅子 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する NJ死刑廃止 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する Roberts Courtの保守傾向 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する Tribe v. Olson - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する |
言葉を失う2008-04-16 Wed 00:34
日本より訃報に接する。
訃報に接するのは悲しいことだが、 身近な人であればショッキングであり、 自分より若い方であればなお沈痛に耐えない。 ご冥福をお祈り申し上げます。 |
"China in Turmoil"2008-04-15 Tue 19:58
昨今の中国情勢を受けて、"China in Turmoil: Politics, Riots, and... Olympics?"と題したミニ・シンポジウムが開かれたので顔を出してみた。
アナウンスの様子などから察するに、チベットの問題を受けて急遽企画されたものらしい。大学各所の関係専門家を集めて、それぞれの観点から情勢についてコメントがなされた。 ロースクールからは国際(人権)法と中国法の専門家が登壇。その他に、政治学部の国際関係論/中国外交の専門家と中国史を研究している歴史家が話した。(4人ともアメリカ人/白人、男性。) 時期とテーマだけに、物凄い数の聴衆が集まった。当初の予定の部屋(そんなに小さいわけではなく、ちょっとしたホテルのロビーくらいはある)には入りきれず、急遽講堂に場所が変更されて行われた。 当然、中国人留学生and/or中国系学生と思しき聴衆も目立った。半分までは行っていなかったと思うが、3分の1〜4割くらいはいたと思う。 いずれのプレゼンタも、慎重に言葉を選んで、チベット情勢をsingle outしないようにして(それぞれの専門の見地において)より幅広いコンテクストに位置付けようとしていた。また、北京政府/共産党とチベット側の一方的に批判することも避けようとしていたが、状況が状況だけに北京に対して辛口なことも言わないわけにはいかない。 というわけで、質疑応答に移ると、中国人留学生and/or中国系学生が、もっぱら積極的に発言、というか、それ質問じゃなくて演説だし、という様相になった。プレゼンタ側も自らのpositionを明確化しようとするから、だんだんadversarialになっていった。険悪な空気とまではならなかったが、ある種の緊張感があったのは確か。 一連の紛争とそれに対する西側のリアクションから、中国(系)人のナショナリズム意識が高まっているとは聞いていたが、それを目の前で見ることとなった。少なくとも、「国際社会は中国のことを分かっていない/くれない」という感覚は持っているのだろうと思う。 話題が発生した際に、すぐに関連研究者を集めてこのような集まりを開くことができること自体に、総合大学としての強み、それも単に様々な分野の研究者がいるというだけではなく、関連研究者が普段から連携し合っている様が分かる。羨ましいし、そうでありたい。 地政学を英国で学ぶ : チベット紛争(戦争)と中国側の見かた Chinese Student in U.S. Is Caught in Confrontation - New York Times ぺきん日記 -中国/北京より- (元祖exblog版) : 欧米批判の先頭に立っているのは、海外帰国組やネット起業家や国際派インテリ....。 |
郵便ToLOVEる2008-04-14 Mon 23:01
数週間前から
和書を日本から送ってもらったのだが、中身は全然違うものになっていた。 “正解”は1冊だけで、他はハングルや中国語(繁体字・簡体字)のものに入れ替わっていた。送ってもらった同僚に確認すると、箱も別のものにすり替わっているようだったし、ラベルもよく見るとダンボールを切って貼り付けてある。 どうやら幾つかの箱の中身がごちゃごちゃになって、その一部を強引に配達したようだった。(*1) ホームページによると送り主のほうからクレームは提出しなければいかないようだったので、そのようにしてもらったのだが、そちらの日本郵政の担当者によると、手続は始めるが受取人のほうからもアクションを起こしてもらわないと物事が動かないとのこと。 コールセンターに電話しても適当なサービスに辿り着かないし、郵便局に出向いたらやはり「送り主から手続してもらわないと」いうことでそもそもそのような手続自体が存在しない模様。 そんな手詰まり状態だったのが、USPS International EMS Inquiry Centerというところから書簡が届いた。 「あんたの所に届けたはずの荷物がトラブってるらしいって日本から問い合わせが来たけど、どうよ」というような趣旨。 回答に際しては件の荷物を郵便局で確認してもらう必要があるとのことだったので、地元の郵便局へ荷物を持ち込む。だが小さな局では対応できない模様。 結局、ダウンタウンまで本の詰まった段ボール箱を抱えて出向く破目になった。 担当のおばちゃんは、最初はピンと来なかったようだが、事情が飲み込めると「これはあっちゃいけないことね」「この書類を送って。それでもまだ問い合わせが来るようなら私に連絡もらえれば私のほうから説明するから」とすごく親切にしてくれた。トラブルとしては重大かつイレギュラー過ぎたらしい。 ここまで激しい郵便事故に遭ったのは初めて。 |
日本の統治のスタイル2008-04-13 Sun 23:13
先のエントリの補論。
日本が神の国じゃなくなりつつあるってことか - 雑種路線でいこうこれについては自分はかなりはっきりとした意見を持っていて、日本は90年代半ばに統治のスタイルを変更した。特定的には1994年10月1日である。 この日、行政手続法が施行された。これにより、それまでの日本の統治の特徴的なスタイルであった行政指導(*1)に対し、フォーマルな規制が導入された。 これ以降、インフォーマルな行政指導に替えて、フォーマルなrule basedの統治スタイルが主流となった。これを象徴するのがNHKの深夜0時のニュースで、このニュースで「昨日国会で成立した法律」を流すのがルーチーンになったのが2000年頃だと思う。つまり何かあれば法律=フォーマルなルールで対応しますよ、と。 で、これを運用する人材を増やすために法科大学院経由で法曹を増やしましょう、というのが司法制度改革の要諦であったはずなのだが、こちらは法曹界を含めてあまり評判がよくない。 |
システムと「個人」の「過失」2008-04-13 Sun 22:43
asahi.com:ニアミス事故、管制官に逆転有罪判決 - 社会直観的に「おかしな」判断だと思う。 ただ、その「おかしさ」の原因が特定し切れない。 少なくとも、この判決の前提とする政策に対しては、それに賛成しない。しかし、もっと構造的なものがあるのではないかという気がするのだが、詰め切れていない。 ということで書きながら考えてみる。 日本が神の国じゃなくなりつつあるってことか - 雑種路線でいこうこの見方については、半分賛成する。 しかし、よりcriticalな問いは、交通事故と同じに扱ってよいかであり、同じに扱うべきではないとした場合に、何故裁判官から見ると同じに見えてしまうのか、ということであろう。 何故、高裁判断は拙いのかネット上のリアクションを見る限り、批判的な見解が優勢のようだが、そして前述の通り私もそちらの側に与するが、問題は、何故、この高裁の帰結が拙いかである。この点、論者の見解は幾つかの考慮が重なり合っているに思われる。私見では、2つ(ないし3つ)のレベルの考え方を分けるべきであるように思われる。 自己原因究明・再発防止−−外在的・政策的対応asahi.com:「もう管制できない」ニアミス逆転有罪、現場に衝撃 - 社会 事故防止防止制度の防止 - たくぞう@GDB 【 みんカラ 】 ブログここで示されている考え方がまず一つ。 事故原因究明のために、当事者や関係者に免責ないし責任制限を与えることで、証言へのインセンティヴを与えよう−−少なくとも、ディスインセンティヴを排除しよう−−という考え方である。 これは考え方としては一つ筋が通っているが、若干留保が必要であろう。 これは、自己原因究明・将来の事故防止という外在的な政策目的のために、免責・責任制限を与えるというものだから、内在的には責任があるということは排除されていない(*1)(*2)。 このことをさらに敷衍すれば、裁判官の目から見れば、しかるべき立法がない限り、被告(人)を免責する根拠はない、ということになる(*3)。 構造的問題−−システムの中の個人責任しかし、もっぱらかかる政策判断の巧拙として問題が定式化されるのだとすれば「早くそのような立法的対応をしましょう」という以上のことにはならないはずである。それを超えて、憤りとも言えるリアクションが見られるのは−−そしてその感覚は私も共有するのだが−−、本件のような状況においては、通常の過失責任が認定される状況−−例えば交通事故−−と比べて、より内在的・構造的な差異と言うものがあり、本件高裁の判断はそれを見落としている、という批判であろう。 前述の自己原因究明に基づく免責は(論理的には)責任判断がなされた後の問題であるのに対し、責任判断の前または前提について差異があって、個人に過失責任を問うことの構造的前提が掘り崩されているのではないか。そしてそのような差異にsensitiveな法律家であれば、例えば過失の概念を操作してそれに対応することもできたのではないか、という問いである。 こちらに属する議論にも、重なっている部分もあるのだが、細かく見ると2つのヴァージョンないし位相を区別できるように思われる。 怖ろしい時代 - 新小児科医のつぶやき バカな裁判官が航空管制をガタガタにさせるって・・・(追記あり) - NC-15 ふか&もけ : 管制崩壊?こうした見解に見られるのは、システム全体の問題を個人に収束させるのは適当ではない、という考え方である。(*4) 我々は、システムを小さく分解して一人ひとりの担える作業に変換することで、前近代に比べて飛躍的に大きなものを動かしているわけだが、そうしてleverageが効いて(しまって)出てくる帰結に対する責任を、「個人」に問うことは適当か。 我々は自分自身の行為すら完全に意識して自己決定下に置いているわけではない…だがそれでも、発生してしまった帰結を自分の選択の結果として引き受けるとき、行為者は偶然的・確率的にその行為に追いやられた客体としてではなく、積極的に自由な選択をした主体として立ち現れるのだ。(*5)本件の問題状況においては、この記述とは逆に、個人の引き受けることのできない帰結を引き受けるよう迫られてしまっているのではないか。 冒頭の楠氏の問題提起に戻れば、交通事故の運転者は発生した帰結の原因をもっぱら自らのコントロール内にほぼ収めることができる(*6)。しかし本件のような問題状況ではできない。(*7) 日本航空機のニアミス事故訴訟高裁判決に抗議する(Ver1.1) - 埋立地の記憶出張版 航空管制崩壊 (東京高裁判決) - 元検弁護士のつぶやきただ、 同という意見も理解できる。完全にシステム内部の統制に依存するにも限界はありそうである。また、「プロ」であるが故に責任が限定されるというのは、業務上の過失に対する責任を加重している現行法との整合性もとり難い。個人の責任を追求するに値する行為と、そうでない行為とを、巧く仕分けしていくことはできるであろうか。 ここから、若干位相の異なる別の問題意識に繋がって行く。 leverageとは直訳すれば「てこ」であって、システム全体の帰結を特定の個人に収束させるとすると、その個人はポッキリ折れてしまう、かも知れない。それを予見すれば、合理的な選択をするアクターは、そのような役割を引き受けることはないであろう。 怖ろしい時代 - 新小児科医のつぶやき バカな裁判官が航空管制をガタガタにさせるって・・・(追記あり) - NC-15 ふか&もけ : 管制崩壊? 「もう医療はできない」医療事故逆転有罪、現場に衝撃 - カーリング漬け - 楽天ブログ(Blog)同じシステムを念頭に置いた問題意識でも、前述のものは責任原因に内在的なものを問うていたのに対し、こちらは如何にしてシステムの担い手を確保していくか、という問いの立て方であって、その限度では政策的な操作可能性は前者よりも大きい。
他方、管制官(やその他の職業)がその職務を遂行することは、彼がそこから得られる効用を目的としているわけではない。社会的にそのような職務に従事してもらうことが必要であり望ましいからであって(*8)、責任追及によって過少供給になるとすれば、社会が困ることになる。(*9)(*10) たぶん後者の問いを一般化していくと、株主の有限責任の根拠といった問題系に接続していく。 REVの日記 @はてな それではどうするかそれではどうするか、となると、見解は固まっていない。刑事制裁は望ましくない、という直観はある。そうでなくとも日本は刑事制裁が出しゃばり過ぎだ。(*11)故意や余程のrecklessnessに対して刑事制裁(や懲罰的賠償を含む民事・行政制裁)の可能性は残すにしても、単純過失については民事賠償を軸に組み立てるべきであろう。 404 Blog Not Found:News - ニアミス事故逆転有罪 - 木から落ちた猿の罪この記述は、幾つかの興味深い思考の種を含んでいる。 まず「プロの契約不履行」という考え方。ここで「契約」に触れられているが、ここから「対価」の観念が連想される:ミスの防止には費用がかかる。安全はタダではない。 第二に、(日本法は若干異なるが)英米法では契約不履行に対する損害賠償は債務者の過失を問わない、無過失責任である。 逆説的かもしれないが、このコンテクストでは無過失責任/厳格責任のほうが望ましいであろう。不法行為法の経済分析の標準モデルの知見に従えば、
前述の通り、システムの中に落ち込んでいるアクターに責任を問うことは適当でないと考えられるわけだが、ではどうするか。システムの範囲が特定の法人=会社ないしその一部に収まっている分にはあまり悩まずにその会社を責任主体とすればよい。しかし、システムの範囲が特定の法主体を超えると厄介になってくる。しかし、Dan Kogai氏は業界、保険に触れているし、対応は不可能ではなかろう。 その費用は分散されて航空運賃等に上乗せされるであろうが、乗客は安全を享受しているのだから適正な対価だろう。安全はタダではない。
今日、街を歩いていて、「私見は結果的に無責任の体系を追認することになるのではないか」という疑問を抱いた。が、そんなことはない、との結論。
【関連】【書評】大屋雄裕『自由とは何か』 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考するretribution / revenge - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する |
popular constitutionと「教育」2008-04-10 Thu 23:41
ちょっと間が開いてしまった。続き、というかここからが本題。
Akhil Reed Amar, "The Bill of Rights" (1998) の"PART I CREATION"で特徴的なのは、独立期における理解として、第1〜第10修正の通称「権利章典the Bill of Rights」を、権利章典(bill of rights)=少数者/個人の権利を保護した文書としてではなく、多数派を擁護するシステムを構築し(ようとし)たものとして読むことである。 もうちょっと分解すると、
但し、"PART II RECONSTRUCTION"では、19世紀−−特に、奴隷解放運動、南北戦争、再建期−−を通じた、少数者/個人を守るための権利(章典)という、我々に馴染みの深い観念への転倒/転換が議論される。(→権利の擁護者としての連邦、編入理論へ) populism(?)と「教育」さて、Amar(の描写する建国の父祖ら)は、一方で憲法のpopular-ity(popular性)を−−権威の源泉と実際の制度設計の双方において−−強調しているが、他方で人民の「教育」ということに、あちらこちらで触れられる。新しく設立される政体の、権威の源泉兼最終的安全弁として人民が措定される一方で、人民のナマの選好それ自体を重視しているとは必ずしも言えない。 そうした人民は「教育」されている必要がある。少なくとも、それが望ましい。 しかし「教育」の中身については必ずしもクリアではない(*2)。 このことは、建国の父祖らのある種のジレンマを示す。 国王は放逐され、貴族制度は否定された。最早そうした権威に依拠することはできない。 他方、独立戦争と邦時代の各邦政治の実践の経験は、衆愚の危険を示すものでもあった。 これは特に"uneducated"な人々の選好をカウントすべきか、という形で現実的な問題となる。 この点の、建国の父祖らの構想の解釈の可能性はいくつかある。
教育の場さて、「教育」というと我々はまず「学校」を思い浮かべるわけだが、建国の父祖らにとっては必ずしもそうではない(*4)。むしろその機能を期待され、また「権利章典」においても制度として確保されたのは、教会、民兵、陪審であった。
民兵はコミュニティに即して組織され、すなわち家族、親戚、友人、クラスメート、近隣の住民、同じ教区員らとともに任務に就き、地元の名士に指揮される。州兵の訓練は、親族会(family reunion)や地域のイベントにも似た、social(社交的)な側面を持つ。(*6) 陪審の教育的機能については、トクヴィルの分析が広く知られており、改めて触れるまでもないだろう(*7)。 【ここら辺から大風呂敷/大ボラ/妄想が始まります。眉にツバの用意を!】さて、現代における「教育」の主たる場は学校である。20世紀の学校と18世紀の教会との対応関係は前述の通り。他方、近代型学校教育が軍隊に範をとることは、フーコー以来の歴史学/社会学/教育学においては常識に属するであろう(*8)。そして、軍隊と民兵との対抗関係については先のエントリで触れた。 つまり、
さらに、フォーディズムに代表されるように、工場労働者は大衆消費社会における消費者でもある。
他方、βから析出されるのは、学校/軍隊/工場/市場といったそれぞれの空間で、生徒/兵士/労働者/消費者として、実際に行動し、ある振る舞いをする−−あるいは、ある振る舞いをしてしまう/してしまわざるを得ない/してしまわざるを得なくなっている−−「個人」である。「社会学的『個人』」、あるいは「文学部的『個人』」と呼ぶ。(*9) このように(強引に)モデル化してみて、まずはこの表の空欄を埋めてみる。 その前提として、βのキーワードを抽出してみると、個別化/アトム化、規格化、規律/自律/自己責任と操作の対象化/受動性(←一方性)との同居、といった辺りであろうか(*10)。 αのキーワードをこれと対照的なものとして抽出してみれば、共同体と連帯−−但し、前近代におけるような階級秩序及びそこから弾き出されたら生存できなくなるようなものではなく、自律した個人の対等な友愛関係に基づくそれ−−、個性/固有性、能動性/主体性、といった辺りか。 その上で空欄を埋めてみる
さて、αをもたらしたのはもちろん市民革命である。 βをもたらしたのは産業革命である。 さらに、前者が先行し、前者と後者の間には50年〜1世紀程の時間的懸隔がある。
…などと、Amarと全然関係ないところまで妄想してみる。 ヴェーバーやアーレントと照らし合わせればもっとちゃんと議論できるかも知れないけれども。 というか、昔に読んだ(まま忘れてしまっている)ものの(カンチガイを含めた)無意識的反芻、なのではないかという気も(汗)
【2008年5月6日 23:50追記】 阪口先生の本を読み返していて、トクヴィル=アメリカ型モデルvsルソー=ジャコバン型モデルの対抗の記述にぶち当たる。あ゛ー、すっかり忘れいていたー(爆) アメリカしか見ていないとこういうことになる(汗) 【関連】【書評】大屋雄裕『自由とは何か』 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する |
図書館探検部2008-04-10 Thu 22:01
普段はロースクールの図書館で仕事をしているわけだが;
必要な資料がビジネス・スクールの図書館にあるらしいことが分かったので調べに出かけた。実はロースクール以外の図書館を使うのは初めて。 ビジネス・スクールに出向いたら、そこには図書館はないとのこと。 どうやら総合図書館棟の一部がビジネス・スクールの図書館になっている模様。建物としては1個なのだが、全体として一つの図書館なのではなく、中が複数の部局分の幾つかの図書館になっている、という趣らしい。 各部局としては不便じゃないのかいな、と思う。 しかし、学部生向けも含め複数の図書館の機能をまとめてあるだけに、トータルの規模はかなり大きい。 もちろん今時の図書館らしく、IT関係の設備も充実している。中には"Information Diner"なるコーナーもあり、"diner"の名の如くファミレスみたいなブースにPC1台+各種ケーブルが接続できる、という仕掛けになっていた。本当にご飯食べている学生もいたし(笑) 大きな図書館を彷徨うのは、知の遺産のオーラを感じることができて気分が高揚する…かどうかはその人次第か。自分はそういう体質だ。 ずいぶんと日が長くなった。 今日は憲法理論ゼミの日だったが、学期の始まった1月にはゼミの終わる頃には真っ暗だったのが、夏時間もあって今ではまだまだ陽が高い。 のみならず陽気も暖かくなったから、帰り道、キャンパスのメイン通りを歩いていても、学生たちが数多く繰り出していてかなりの賑わい。 そういえば人々の装いも軽装になってきた。半袖やTシャツも目に付く。 久々に晴れた。 桜はpeak outしつつあるところで、散る花びらや葉桜も目立ち始めてきた。
昨日の昼も、ワシントンの日本大使館から大使館員が大学にやって来て講演していった(*2)。 その一環で利き酒会というのがあって、明日の夕方だと思って楽しみにしていたのだが、昨日の夕方だった(>_<) |
"Lawyering in the Public Interest"2008-04-09 Wed 23:46
"Lawyering in the Public Interest"という講演会を聴きに行く。
この題名だけ見ると「刑事被告人のpro bono弁護」とか「貧困者向け法律扶助」みたいなものを思いつく。が、演者のAbner Mikva元判事は議員(州→連邦)、連邦裁判官、ホワイトハウス法律顧問と三権を渡り歩いた人物。そりゃまぁそれも"public interest"(*1)でそういうことをやっている人は"public servant"だけどさぁ(笑) 従って内容も、三権それぞれから見た法的landscape、及びそれと政治過程との係わり、といった趣だった。 立法側と司法側とを比べて、議員は法律を作ることができる、新しいことを注入して法的landscapeを変えることができる(*2)のが面白い、裁判官にとって法的landscapeは所与でそれをどう運営していくか、と描写していたのは面白かった。 D.C.巡回区でScaliaと同僚で、思想は違うが友達だ、と言っていたが、Scalia流の三権分立は3隻の船が別々に進行して係わりあいにならないのがよい、と考えているというイメージ、他方彼は、三権はそれぞれの関係は入り組んでいる、としていたのも興味深い。このScaliaの思考の描写も合っていると思う。 三権の一つが強い時期があることもあるが、三権分立の観点からは(数十年オーダーの)長期的に見て強くあり続けるべきではないし、歴史的も実際に三権の一つが強くあり続けたことはない、ともしていた。 |
はるのいちにち2008-04-06 Sun 23:54
久々にフィラデルフィア美術館へ行く。
特に目的もなく、館内を彷徨う。 近世の陶磁器の展示の解説: 「オランダ東インド会社は中国(や日本)との陶磁器の貿易で大きな利益を上げた…デザインや意匠については西洋から持ち込み、中国で生産した製品を…」 って、今と変わらないじゃん(笑) グローバリゼーション。 現代美術のコーナーで、紙製(?)のチョウをたくさんコラージュ風に集めた作品が目を引いた。 個々のチョウはどうってことないのだが、部屋一杯に広がるとかなりの圧迫感がある。 まだ新しい展示のようで、というか未完で作業中のようだった。作品の年代も「2008年」になっていたし。 写真も撮ったが著作権的にマズイと思われるので載せない。(すみっこのチョウ1頭くらいならフェアユースでセーフな気もするが、念のため。)フィラデルフィアを訪れの際はご覧あれ。 ![]() フィラデルフィア美術館前のしだれ桜。 天気がイマイチよくないので桜が映えない。他方で天気のいい日はカメラ(と言っても日本から持っていったN903iなのだが)を持っていないか電池が切れている。もう散り始めているのだが。 【関連】フィラデルフィア美術館・ルノワール展 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する |
アメリカにおける軍事組織の(原)イメージ2008-04-05 Sat 21:48
木曜の憲法理論ゼミ、先週・今週とassignmentはAkhil Amar "The Bill of Rights"(*1)だった。
現在の関心で読んでいると、本筋と関係ないところに引っかかってしまう。 第2・第3修正の絡みで、建国期の人々にとって"militia"と"army"とが対照的なものとして把握され、前者が称揚され後者が封じ込めの対象とされているのに引っかかった。
日本人は"army"としての米軍にしか出会ったことがないから、こういう対抗関係は見落としがち。アメリカ人にとっても"army"は胡散臭いものとして把握されていた、と。 いや、アメリカにおける常備軍への警戒についてはあちこちで読んだ記憶があるのだが、民兵については「そのかわり」という感じで記述されているパターンが多いかと(*4)。そうではなくて、民兵こそがプライマリーであったと。 もっとも同書Part IIにおいては、南北戦争を通じた"army"の地位の逆転が議論されるわけだが。 (南部反乱諸州を鎮圧し、そこの被抑圧者(=奴隷)を解放した北軍=合衆国軍。) 他方で、政治的参加と軍事的参加との牽連関係も歴史上、継続的に認められて
【関連】Get Your Gun - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する見えない自由がほしくて 銃を - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する |
Because It's There 春霞氏との一連の遣り取りについて2008-04-05 Sat 12:53
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もはや春霞氏には理解してもらうのは困難かも知れないが、読者が両者の主張を読み比べることを期待して。 もちろん、春霞氏からTBを拒絶されることも大いに考えられるし、それはシステム上もブログ慣習としても認められたことであろう。その場合、私としてはただ残念に思うだけである。個人的に自らの主張がreachする範囲が狭まるという面もあるが、それよりも、「十分な反論の機会を与えた上でそれを論破して得られた結論こそ、正当性が高まる」という、一般的に言えるであろうし、春霞氏自身もコミットしていると思われる(後述)規範に自ら反することになるはずである。 0. 概要Because It's There プリンスホテルによる日教組会場使用拒否・司法判断無視問題(下)〜裁判制度が危機に陥ってもいいのだろうか?こちらのエントリで"IZW134"名義のコメントが2つある。これは私のものであり、ブログ主である春霞氏と若干の遣り取りがある。2008年02月19日15時08分08秒付けの公開されていないコメントもあるが、これも私のものである。 別のエントリで"IZW134"名義で再びコメントし、その過程で公開されていないコメントについて言及した。これに対する春霞氏の回答によると、前記コメントを公開する意思がないようである様子が読み取れた。 Because It's There 終身刑創設法案を今国会提出へ〜亀井静香・死刑廃止議連会長に真意を聞く(東京新聞平成20年3月18日付「こちら特報部」より)本エントリは、一連の遣り取りにおける私の意図を説明する。議論の中身についても触れるが、中心はネット上での議論のあり方についてである。一連の遣り取りにおいて、私は建設的な議論と意見交換を意図したつもりだったが、春霞氏からは適切な対応を頂けなかった、と感じている。 |
愛国心概念の空虚さ2008-04-05 Sat 12:47
日本における「愛国心(教育)」の主唱者は、とにかく「国を愛しなさい」と言うだけで、その内実は空虚。むしろ、他の分配(経済的財を含め)をディスカウントするために、替わりに「愛国心」を分配しているようにすら思える。
自分は個々人の「愛国心」を否定しないが、本当に「国」が「愛」するに値するのであれば人々は放っておいても愛するはず。政治的リーダーがそれを言い出すとすれば、自らの失政を喧伝しているようなものだと思うのだが、その割にはこうした視点の意見はあまり見かけない。 日本の権力が構造化するにあたって空虚な中心が必要なのだとすれば(→天皇制の問題系へ)、それを確保しようとするのは為政者として自然なリアクションなのかも知れないが。 国旗・国歌問題 実りのないカタルシスゲームの末路 - Munchener Brucke 国旗・国歌に対するリベラルな解答 - 過ぎ去ろうとしない過去 ところで、国歌って「鳥の詩」のことだよね(笑) というのはともかく、なんで「故郷」や「さくらさくら」を国歌にしなかったのか、という意見もあるとかないとか。 世界の片隅でニュースを読む : 「日の丸」「君が代」は格好悪い 【関連】National Constitution Center |
封印解除!2008-04-02 Wed 14:46
もちろん昨日のエントリはエイプリルフールなわけでして。
3次元以上の同居人はいない(笑) 結局、荷物は自分で拾ってきた。 ホームページや簡易掲示板、ブログなどで簡単に情報が発信できるようになって、毎年4月1日は皆なカジュアルにホラを吹くようになった。 何だか、バレンタインの義理チョコとパラレルに見えるのは自分だけだろうか。 DTIブログの旧サービスを削除しました。 引越し完了です。
気温高め&雨上がり&風強し、と花がもつには厳しい条件だったけど、結構残っていた。
雨上がりの眩しい陽射しを |






















