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2008.03.20 (Thu)

教育・多様性・平等保護

今日の憲法理論ゼミのassignmentはBalkin (ed.) "What Brown v. Board of Education Should Have Said"(*1)だった。
一周目でいきなり当たってちょっと焦る。
連邦最高裁の先(2006-07)開廷期の判決で話題を呼んだものの一つに、初等・中等教育におけるアファーマティヴ・アクションを扱ったParents Involved in Community Schools v. Seattle School District No. 1判決(*2)がある。
自分がざっくり読んだ理解では、この事件はミシガン大学事件(*3)の素直な延長だ、と。すなわちミシガン大学2事件の結論を分けたのは人種を使う態様--他の多くの判断要素の一つとして取り扱うか、もっぱら決定的な要素として取り扱うか--にあった以上は、本件の事案では人種をsingle outして判断基準としている以上、違憲判断になるのももっともだ、と。授業でもそう説明した。

が、アメリカへやって来て、とりわけ大学街にやってきて、ちょっと引っかかるものを感じた。
キャンパス--広義:すなわち、教室のみならず、ラウンジとか、カフェとか、公園とか--で、様々な肌の色の学生やそれ以外の関係者が、学問に関することもそうでないこともひっくるめて議論したり談笑したりしている。このこと自体は、大学教育の意義として(Brown判決(*4)に先立つ)McLaurin判決(*5)でも強調されていたことではある。

引っかかったのは、これが、大学=高等教育の空間で起こっている、という点。
ミシガン大学事件の一方、Grutter判決Scalia反対意見の一説を思い出す。
"The "educational benefit" that the University of Michigan seeks to achieve by racial discrimination consists, according to the Court, of "'cross-racial understanding,'" and "'better prepar[ation of] students for an increasingly diverse workforce and society,'" all of which is necessary not only for work, but also for good "citizenship."... For it is a lesson of life rather than law--essentially the same lesson taught to (or rather learned by, for it cannot be "taught" in the usual sense) people three feet shorter and twenty years younger than the full-grown adults at the University of Michigan Law School, in institutions ranging from Boy Scout troops to public-school kindergartens."
(超訳:人種間の理解が大事って、そんなことボーイスカウトか幼稚園でやっとけ。)
Grutter v. Bollinger, 123 S. Ct. 2325, 2349 (2003) (internal citations omitted).
確かに、世の中にはいろいろな人々がいるんだということを知る、その重要性は、既に大人になった=ある程度頭の固まった高等教育段階より、これからどんな市民になろうとしているか流動的な初等・中等教育の段階のほうが、より大きいように思われる。

然るにミシガン大学2事件と今回のシアトル事件の3判決を並べると、ロースクールのアファーマティヴ・アクションは合憲で、学部入学者選抜と初等・中等教育の学生配置ではアウト。つまり学年が下がるほどアウトになる。
多様な人々とcommingleする必要性に関する政策的判断と、実際に利用可能な政策的手段との関係が、逆になってしまっている。

これは、入学者選抜手続きの現場の要請から来るものだ。ロースクール程度の出願者の数であれば個別に審査していくこともできるが、学部入試ではそれでは間に合わない。(ということはミシガン大学事件当時から指摘されていた。)
いわんやもっとたくさんの学生を取り扱う初等・中等教育をや、ということになる。
自らと違うタイプの人間に接する必要性が増すほど、グループ構成員としての属性に着目して取り扱われざるを得ない逆説。

「私を見て」CV: かないみかという個別取扱いの要請と、同時に「私」は何らかのグループの一員としてしか存在し得ない、という、平等の構造の、二律背反。
「私」をもっぱらあるグループの一員として取り扱うことは「私」に対する抑圧たり得るが、しかし他者から見れば「私」は間違いなく当該集合の構成員だ。一人称の存在様相と二人称の存在様相とのズレ。

こんなことは憲法学者や法哲学者はとうの昔に気付いて言っているのだろう。K君ならどう説明するかな。本はもう出たのだろうか。
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テーマ : アメリカ合衆国 - ジャンル : 政治・経済

20:13  |  アメリカ法  |  TB(1)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.20 (Thu)

【書評】大屋雄裕『自由とは何か』

渡米直前に頂いたので、そのまま荷物に入れて飛行機の中で読んだ。
一読して、個々の記述に特に異論があるわけではないものの、全体としてはストンと落ち切らないという感想を持った。
そのまま本棚にあったのだが、偶々Amazonで「おすすめ」されていて(笑)レビューが目に留まった。ちょうどよい機会なので再読して読書感想文を書いておくことにする。
『自由とは何か』
  • 『自由とは何か--監視社会と「個人」の消滅』
  • 大屋雄裕(著)
  • 筑摩書房/ちくま新書680、2007年
  • ISBN=9784480063809
もとより、本書の仮想敵(笑)である安藤馨氏の論稿は未読だし、氏の新著も読んでいない(物理的にアクセスできない)。従って著者の問題意識を共有できているかは怪しいのだが。

初読で腑に落ちなかったのは次の2点の感想を持ったから:
  • 監視社会はどこ行っちゃったの?(副題にもあるのに)
  • オチが弱いのでは?
再読してギャップは縮まったものの、完全には埋まり切っていない。

監視社会論

よくある監視社会(警戒/批判)論(本書では具体的には田島泰彦氏が参照される)に対し、この問題に対する著者の構え方には幾つかの特徴がある
  1. 監視は監視される者の益のためになされることがある。
  2. 監視する主体は国家とは限らない。
  3. 監視される者が監視されていることを意識しているとは限らない。
こうした認識から単純な監視社会批判論が斥けられるし、そのこと自体に異論はないが、「監視社会マズイっしょ」の反対は明らかに「監視社会セフセフ」とはならない。
(前記1に関連して)監視が善意や被監視者の欲望や民主的決定によって導入されることは、実際の監視が本当に被監視者の益となっているかは担保しない。
(前記3に関連して)監視されていることを被監視者が気付かなければ、彼が路地裏に入り込んだ/入り込まされたままそこから出てこないこともまた、気付かれないかも知れない。

ここでスルーされてしまっているのは、視線の一方性の論点である。この論点自体の存在は、ポル・ポトやベンサム/フーコーのパノプティコンを参照する形で取り上げられている。しかし、この論点は存在自体が指摘されるだけでそれ以上立ち入っては検討されない。(*1)
例えば、「監視は有益である/たりうる」という主張と視線の一方性の問題とを止揚する解として、如何に監視者を(被監視者が)監視するかといったアイディアも検討されてよいのではないか。

もっともこの点は著者の立論を崩すものではない。著者の主張は「たとえ監視が善意に満ちて被監視者が監視に気付かないとしても~」というものだからだ。

事前と事後

第2章後半から、著者の立論の軸は事前規制/事後規制の対抗に移る。
監視→先取りという形で監視の問題系を事前規制の問題系へと展開させていくわけだが、他方、事後規制(の容易化)のための監視の利用(の可能性)についても指摘される。すなわち、監視は事前規制・事後規制のいずれとも結びつき得るのであって、事前-事後という対抗軸に監視の問題系は必ずしも重なり合わないわけだが、以降の著者の立論はもっぱらこの事前-事後の対抗を軸として展開される。このことが監視社会論がどこかへ消えてしまったように思える所以ということになる。

ところでここで事前規制として主として想定されているのが、アーキテクチャによる支配である(*2)
ここで(認識なき)事前規制としてアーキテクチャが挙げられ、他方、法規制を事後規制として位置付ける(136頁)のはLessigに従ってのことだと思われるが、法規制にも事前規制は山ほどあることは指摘しておかないと行政法学者に叱られるような気がする(汗)(*3)

なぜ「個人」?

認識なき(特徴その1)事前(特徴その2)規制としてのアーキテクチャによる支配に対比される形で、第3章では、これとは相容れない(少なくとも緊張関係に立つ)事後的な責任の引き受けをコアとする擬制としての近代的な「個人」の観念が抽出される。

この部分が食い足りない。
アーキテクチャの権力の浸透に伴う「個人」の解体を「魅力的」としつつも、そのような立場は採用しないとする。しかし、「個人」とは擬制なのだ/擬制に過ぎないのだとすれば、何故そのような擬制を欲するのか、あるいは何故そのような擬制が望ましいのか、という論証が重要になるはずである。一応、
  • 近代派刑法学の徹底としての社会主義刑法の経験(165~168頁)
  • アーキテクチャ設計者の想定を超えた発展の可能性(の確保)(170~175頁)
  • 完全なアーキテクチャが実現していないこと(204頁)
  • 事前の効用の不可能性/事後の効用の変更可能性(同)
といった点が指摘されている(もちろんこれらは相互に関連しあっている)のだが、もっと紙幅を割いてよい論点のはずだ。(*4)

この点を補完する私論を試論すれば(*5)、本書で挙げられているのは、「個人」を想定することで、
  • 本人にとってご利益(ごりやく)があるのでは、という一人称の視点
  • 社会全体にとってご利益があるのでは、という三人称の視点
である。もう一つ、二人称の視点もあってよいのではないか。すなわち本書では責任を追及「される」ことの重要性が指摘されるわけだが、責任を追及「する」側にとっても(*6)「個人」を想定することはご利益があるのではないか。例えば、責任の追及先を、ホモ・サピエンスとしての個体の範囲と一致させるのは、端的に便利で明快なシステムだ。(*7)(*8)(*9)(*10)


「個人」が消滅すれば、あるいは斜め下へ連想を跳ばす

恒久的平和を願えば 道はひとつ
そのままのあなたでいて
なにも知らない無垢な瞳のまま
神に委ねてみてください
だが、この一節は次のフレーズから導かれていることを忘れるな、ということだろう。
愚民の皆さ~ん、こんばんは~!(*11)
あなたは愚民になりたいか。もちろん愚民になる自由も、ある。

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00:51  |  日本社会  |  TB(1)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
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