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2008.03.31 (Mon)

ゲリラ戦術

asahi.com:「靖国」今月封切り中止 上映予定館辞退 トラブル警戒 - 映画 - 文化・芸能
http://www.asahi.com/culture/movie/TKY200803310328.html
NIKKEI NET(日経ネット):社会ニュース-内外の事件・事故や社会問題から話題のニュースまで
映画「靖国」、東京での上映中止・配給会社「言論の危機」
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080401STXKB067431032008.html
映画:中国人監督「靖国」上映中止 「抗議で近隣迷惑」5映画館自粛 - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080401ddm041040122000c.html
日中合作の記録映画「靖国」、相次ぎ上映中止に : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080331-OYT1T00594.htm
もちろん表現の自由の観点から遺憾なことではあるのだが;

井上達夫教授が、二重の基準論批判の文脈で、「表現の自由大事って言っても、媒体関連の経済活動を押さえちゃえば同じことじゃないか」と言っていたことを思い出す。


しかし!発想を変えるんだ!
上映中止になった原因を作った人々をケシカランと言うのも結構だが、大事なのは最終的にこの映画が人々の目に触れる状態に置かれることだ。
特定の内容の映画を発表したから刑事罰を食らったとかいう、表現の自由の典型事例ではない。この内容を公衆に提供すること自体は自由だ。
いっそのこと、ようつべやニコニコにうpしてしまえばいいではないか。助成金を受けていたくらいだから、制作側も最初から採算は度外視ではないのか?それにこれだけ話題になればDVDも売れるのでは。
いっそのことこれを、映画流通の革命にしてしまうのだ!

…と言っている人が見当たらなかったので言ってみる。
とりあえずこれが言いたかったので、他の論点はきちんと書いていない。ので後日追記するかも。
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テーマ : 法律全般 - ジャンル : 政治・経済

23:31  |  日本社会  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.28 (Fri)

MicrosoftのYahoo買収と独禁法の域外適用

China Law Could Impede Microsoft Deal for Yahoo - New York Times
By JOHN MARKOFF
Published: March 28, 2008
"It will make China a third sphere of regulatory influence, matching the power of the European Union and the United States ..."
"Nathan G. Bush, an antitrust law specialist with O’Melveny & Myers in Beijing, said the law represented the ascendance of China 'as another regulatory capital contending for influence with Brussels and Washington.'" http://www.nytimes.com/2008/03/28/technology/28yahoo.html?_r=1&th&emc=th&oref=slogin
経済のグローバル化が進む中、アメリカ企業の合併がヨーロッパの独禁規制当局の規制を受けるという話もよくあるわけだが、8月から中国も同様の規制を始める、とのこと。

EU/BrusselsとUS/Washingtonの規制体制に中国も加わる、という構図として描かれている。
世界の他の国も関心を示すかもね、という際に挙がっているのが韓国。
Tokyoはどこへ行ってしまったのでしょうね。Japan passing?

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18:14  |  アメリカ法  |  TB(1)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.28 (Fri)

フロリダ州議会・奴隷制謝罪決議

Florida Legislature Apologizes for State’s History of Slavery - New York Times
By DAMIEN CAVE and CHRISTINE JORDAN SEXTON
Published: March 27, 2008
"What eventually passed on Wednesday resembled statements issued by North Carolina, Alabama, Virginia, Maryland and New Jersey ..."
http://www.nytimes.com/2008/03/27/us/27florida.html?_r=1&th&emc=th&oref=slogin
メモ。
州議会の公式ウェブサイトにはまだ上がっていない模様。

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01:24  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.26 (Wed)

懲罰的賠償の承認・執行

Foreign Courts Wary of U.S. Punitive Damages - New York Times
By ADAM LIPTAK
Published: March 26, 2008
http://www.nytimes.com/2008/03/26/us/26punitive.html?_r=1&th=&adxnnl=1&oref=slogin&emc=th&adxnnlx=1206556253-zfjaGmUs0fpXgD1Ienr3aQ
アメリカの裁判所が出す懲罰的賠償判決は外国の裁判所では承認・執行されないね。
→最近は風向きが変わりつつあるかも?

承認・執行しなかった例:
  • イタリア最高裁 -原判決アラバマ、製造物責任(ヘルメット)、100万ドル
  • ドイツ最高裁(BGH?)(1992年) -原判決カリフォルニア(1985年)、児童の性的虐待、40万ドル(填補賠償の35万ドルは承認)
承認・執行した例:
  • スペイン最高裁(?Tribunal Supremo)(2001年) -原判決テキサス、商標侵害・不正競争、130万ドル
  • 南オーストラリア州最高裁(2005年) -傍論
  • カナダ最高裁(2005年) -フロリダ、土地、5万ドル
萬世工業事件もお忘れなく。
カリフォルニア州民法典の定める懲罰的損害賠償(以下、単に「懲罰的損害賠償」という。)の制度は、…我が国における不法行為に基づく損害賠償制度の基本原則ないし基本理念と相いれない…
したがって、本件外国判決のうち、補償的損害賠償及び訴訟費用に加えて、見せしめと制裁のために被上告会社に対し懲罰的損害賠償としての金員の支払を命じた部分は、我が国の公の秩序に反するから、その効力を有しないものとしなければならない。
最二小判H.9(1997).7.11民集51-6-2573(萬世工業事件)

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23:21  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.24 (Mon)

M教授とランチ

とある日本人LL.M.の方から、授業で希望する学生数名ずつと教授がランチを食べるという企画があるのだけれども、来ないか、と誘われた。その方の希望日が一人だけになってしまったらしい。確かに外国人の先生と(というかこの場合こちらが外国人なわけだが)サシでご飯を食べるのは慣れるまではしんどい。というわけで乱入的にお邪魔してきた。

インフォーマルにお喋りしながらお昼を食べるということで、日本の法学教育改革と研修所の生活とか、ロースクールの授業の国際化とか(「あまり国際的なことは研究していないのだけれども、LL.M.の学生から教えてもらっている」みたいなことを言っていた)といった話題が出た。法学教育の話に関連して、アカデミックの養成はどうなっているんだととか、アメリカでもロースクールを短縮してpractical trainingを導入しようという話もあるとかいうところから、その教授はYaleの出身なのだが、「Yaleでは具体的な法ルールは教えていないけれども、採用にやって来るlaw firmもそのことは分かっている。何年か特定の法分野で働かせて知識を付けさせれば物凄く優秀になるから、採用に来る」という趣旨のことを言っていたのが印象に残った。


授業の受講者から希望者を募って、少人数でランチを食べながらざっくばらんに話をする、というのは自分がLL.M.をやっていたときもあって、そういうカルチャーは日本にはないなぁと一瞬思ったのだが、よく考えたらゼミ・コンパなどはそういう性質のものだった。(*1)こういうところでも、夜の付き合いになるのが日本社会(笑)
23:10  |  身辺雑記  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.23 (Sun)

ユーザとクリエータの間

「宇宙世紀は来ない」 ユーザーが作る“ゲームの次世代” - ITmedia News
「「大半のイノベーションはユーザーによって引き起こされてきた」と、エリック・フォン・ヒッペル氏の「民主化するイノベーションの時代」は訴える。… IT化で生産性が上がって暇ができ、性能が上がったPCであり余るコンピューティングパワーを持て余した一般ユーザーは、自分のために何かを作り、企業の製品に“勝手に”“無料で”付加価値を加えていくだろう。「企業の描いたロードマップは役に立たなくなってくる」
…ゲームユーザーの“創造性”には4階層ある--「シムシティ」を開発したウィル・ライト氏はピラミッド型の「創造性のエコシステム」を指摘する。最下層はプレイするだけのユーザー、次は、ゲーム内で決められたパラメーターをいじって楽しむユーザー、3番目は、システムが許す範囲で創作する--例えばマップを書き換えるなどする--ユーザー、そして頂点が、ゲームそのものを作ってしまうユーザーだ。
最下層:頂点の人数比率は、100:1程度。頂点のユーザーが強くなることで、最下層のユーザーもひきずられるという仮説があり、それは実証研究で証明されつつあるという。
「ユーザーの創作は、ある臨界点を超えるとお金になる」--頂点のユーザーの創作物は、商品価値を持つ。このプラットフォーム上でゲームメーカーは、頂点のユーザーが作ったものを洗練させ、価格を付けて再配布するなどして利益を上げながら、最下層のユーザーにもアピールしていくことになる。「企業はプラットフォームホルダーにシフトしていくしかないだろう」」
(強調引用者)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0803/17/news016.html
そうだとすると、ときメモ判決のロジックはおおよそ的外れだということになるのか?
「本件ゲームソフトのプログラムは、主人公の能力に関する初期設定を固定し、その設定を基盤とした上で、プレイヤーが選択した行動(コマンド)に対する能力項目の数値を創作的に加減させ累積させてストーリーが展開するという構造になっているから、プレイヤーによって作り出され蓄積されるセーブデータは、プログラムとは別個独立に截然と区別されて存在する単なる数値ではなく、制作者が初期設定の数値によって表した主人公の人物像(能力値)を変化させ、それに応じたゲーム展開を表現するための密接不可分な要素として構成されているものというべきである。
従って、その初期設定は勿論、コマンドの選択に関連付けられた各能力項目の数値の加減は、本件ゲームソフトの本質的構成部分となっているもので、これを改変し無力化することは、それによる表現内容の変容をもたらすものというのが相当であり、本件ゲームソフトの著作物としての同一性保持権を侵害するものと解せられる。」
大阪高裁判H.11.4.27民集55巻1号122頁
少なくとも、ときメモ事件の裁判所のリアクションが、古典的な「著作物」を念頭に置いていて、データベース型消費(*1)のワールドに適合していないことは確かだろう。


アイマスって、ときメモの正常進化なんだよな(ぼそっ) まぁときメモは別の方向で進化(*2)を果たしているみたいだけど(笑)

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23:58  |  日本社会  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.23 (Sun)

critical

だいぶポイントが絞れてきたかと。
Don't Fear the Reaper : 続・教育における人種的多様性
http://eastriver.exblog.jp/7585957/
いえいえ、ブログにぼちぼち書く意義は(当面)活字にするつもりのない研究seedをああでもないこうでもないと引っ繰り返すことにあります(*1)(*2)のでお詫びされるようなことでもないかと:-)


突き詰めるとポイントは、Bakke判決以来認定されてきた「student bodyの多様性」を「意見の衝突の促進」と解釈するか、という点に収斂する。
(1) 自分がこう読むことを躊躇するのは、McLaurin判決で学生生活への幅広いアクセスが主題とされていたことにhookしている。しかし、時間的先後でも事案的にも区別はし得るかも知れない。
また、初等・中等教育でも(より実存的な意味で)「意見の衝突の促進」はあると言えるのではないか、という認識もある。

他方、「意見の衝突の促進」として解するにあたって、Grutter判決にいう"critical mass"概念が留意される。"critical"を「決定的な」などと訳してしまうとボケてしまうのだが、"critical mass"には核物理学において核反応が起きる閾である「臨界質量」との意味があるとのこと(*2)
(2) 意見の表明が容易になし得るだけの人数、という"critical mass"がGrutter判決のキーワードであったことは、eastriver46説を支持する。
(3) "critical mass"概念のミソは「最低限を確保」することにあるから、人数の多さのバランシングが問題となったシアトル事件はおおよそカバーされないこととなる。


もうちょっと:
(a) 「意見の衝突の促進」を目的としてそれが「セレブとニート」でもよいとするのであれば
  1. 「黒人向けに定員の10%を割り当てる」
  2. 「留学生向けに定員の10%を割り当てる」
  3. 「ムスリム向けに定員の10%を割り当てる」
  4. 「無神論者向けに定員の10%を割り当てる」
  5. 「貧困者向けに定員の10%を割り当てる」
  6. 「同窓生の親族向けに定員の10%を割り当てる」
の取り扱いが異なってくるのはどういうことか。
最初のものはBakke判決により明らかにアウト。
留学生はnational originの絡みでKorematsu判決に照らすと怪しい。
宗教は微妙。
下2つはたぶんセーフ。

(b)
「黒人は黒人で黒人の文化に根ざした劇をやるから~」
これは90年代マルチカルチャリズムの論点ですね(*3)

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22:53  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.22 (Sat)

守破離

剣道の教えで好きなものの一つに「守破離」というものがある。
修行の段階を表したものである。
入門した者はまず、その師の教えを「守」って基礎を身に付ける。しかしそこに固執するのでは発展は望めないのであって、他の師や流派と交わり、最初の師の教えを「破」って剣の幅を広げる。そうした段階を経た後に、最初の師からもその後に交わった師や流派からも「離」れ、ようやく自分のスタイルを確立する。

他の分野、あるいは人生そのものについても同様に言えるだろう。個性は、確実な基礎と多様なinputを前提に、初めて成立する。そうでない「個性」とやらは、放縦と見分けがつかない。
Don't Fear the Reaper : 教育における人種的多様性
「型を覚える時期(初等・中等教育)にはかく乱要素は少ない方がよく、逆に型を自分なりに仕上げる時期(高等教育)は、荒波にもまれたいろんな経験が生きてくるだろう。」
http://eastriver.exblog.jp/7570370/
01:30  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.21 (Fri)

多様性の多様性

教育・多様性・平等保護 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-143.html
虚空に消え行くつぶやきのつもりだった昨日のエントリだが、ガチのリアクションを頂いたのでもう少し考えてみる。
Don't Fear the Reaper : 教育における人種的多様性
「Bakke判決までさかのぼってみると、そこでの教育上の利点というのは「世の中いろんな人種の人がいるよね」ということを知ることではなかった。それだけだと「だからお互い仲良くしようね」という、確かにボーイスカウトで共有されそうなメッセージにしかならない。
Bakke判決では、仲良くするよりも、むしろ「いろんな人種の人がいると意見が衝突するので、結果として、意見の交換が促進される」ことが狙いとされていたのではないか(だからこそ第1修正が出てくる)。言い換えれば、意見を衝突させることが狙いなので、それが達成されるならば人種にこだわる必要がない。…
こう考えると、人種を一要素として評価するのはありだけど、絶対的基準とする場合は憲法違反となることがすっきり理解できる。」
http://eastriver.exblog.jp/7570370/
確かに、昨日のエントリではBakke判決(*1)もそこでのacademic freedomに関する議論も念頭に置いていなかった。
昨日のエントリでは「多様な人々とcommingleする必要性に関する政策的判断と、実際に利用可能な政策的手段との関係」の内、後者に焦点を当てる形でアイロニカルな状況を指摘したものだが、この考え方は前者を相対化した上でそれと政策手段とのfitを問うている。

integrationの価値

シアトル事件で学校区側が政府の利益として「多様性」を強調せざるを得なかったのはunluckyだった。
これは言うまでもなく、ミシガン大学事件の重力下で訴訟がなされたから。
そして同事件でミシガン大学側が「多様性」を強調せざるを得なかったのは、Bakke判決の重力下で訴訟がなされたから。

この点は(金沢で行われた学会でも発言した論点である)Bakke判決の判例法としてのstatus如何、という論点に関わる。statusがlimbo状態にあったBakke判決に対し、ミシガン大学事件ではアファーマティヴ・アクションにおける多様性(diversity)を政府のcompelling interestとしてrecognizeする法廷意見が形成されたわけだが、それではミシガン大学事件はBakke判決に「拘束bind」されていたのか。あるいは形式的には拘束されておらず、単に説得的典拠としてBakke判決を参照した上で、パラレルな内容を判例法としてcrystalizeしたのか。
実践的にはこの論点は、Bakke判決Powell意見がcompelling interestとして否定した3種類の利益の取り扱いに関わる。Powell意見が拘束力を持つのだとすれば、否定された状態が判例法である。しかし拘束力を持っていないのだとすれば、Bakke事件で主張されたがPowellが斥けた3種の政府利益(あるいはその他の政府目的)の取り扱いについては、理論上、オープンだということになる。(*2)

昨日のゼミでも議論になった点だが、そもそも同時代人にとって、人種共学校の実現は必ずしも目的価値ではなかった。
目的は、黒人の児童・生徒の教育環境の向上であった。共学となれば、そして白人児童が劣悪な(旧)黒人校に通わざるを得なくなれば、白人も黒人児童を含めた教育環境の底上げに賛成せざるを得ないであろう。
昨日触れた"What Brown v. Board of Education Should Have Said"は、Brown判決を判断し直せばどうなるかというテーマで、9人の憲法学者がBrown判決の事案の下、仮想判決を書くという趣向の本だが、一人だけ、批判人種理論に立ち、黒人であるDerrick Bellのみが反対意見に回っている。しかし形式的には反対意見とは言え、Bellの意見こそが最もラディカルである。彼はPlessy判決(*3)の「分離すれども平等」原理を徹底すべきだと主張して、黒人校へのリソースの投入を主張している。ここでも眼目は黒人児童の教育環境の向上である。

シアトル事件では、多様性が政府利益であることは前提として判断された。だが、このこと自体に留保を付すThomas意見の存在も留意される。

高等教育の性質

Bakke判決が高等教育の“高等教育性”を強調しているのは確かであるが、
「…高等教育は知識をもとに問題に切り込んでいく時期と言える。
人文社会科学系の学問、特に我々法学系での学説の対立を見れば明らかだが、高等教育で扱う問題というのは、答えが1つに定まらないことが多いわけで、それだけに慎重に議論した上で「ある条件のもとで最適と思われる答え」に自分で到達する能力が求められる。」
Bakke判決の次の判示とは緊張関係がある。
"It may be argued that there is greater force to these views at the undergraduate level than in a medical school where the training is centered primarily on professional competency. But even at the graduate level, our tradition and experience lend support to the view that the contribution of diversity is substantial. In Sweatt v. Painter, 339 U.S., at 634, the Court made a similar point with specific reference to legal education ...
Bakke, 438 U.S. at 313-314, 98 S. Ct at 2760 (emphasis added).
ロースクールがprofessional schoolなのかgraduate schoolなのかというのはAALS総会でも話題になっていたが、アメリカの大学が「学問」を教授しているところなのかは、実はよく分からない。前記Bakke判決からの引用で強調した箇所は、むしろ職業訓練としての性質を強調するものである。もっとも、「それでもなお~」と続く、すなわち「職業訓練」であってもprofessionとしてのproblem solvingの能力の涵養こそが重要であると続くわけであるが。

(さしあたってはアメリカのコンテクストで)“高等教育”が「職業訓練」である可能性を視野に入れると、professionとして独立性・裁量性を有する高度専門職業人、以外の養成も念頭に置くべきとも考えられる。つまり、「意見を衝突させる」までもなく「型を覚える」ことが“高等教育”で追及される可能性である。
例えば、日本で専門学校に相当する教育機関もアメリカでは"college"である。そこではしばしば、特定の職業に役に立つ特定のスキルの習得が目指されている。

(逆に、前記Bakke判決引用部分で「学部レベルでのほうがより説得力を持つ」とされている点も留意されなければならない。「原則が教養学部」であるアメリカの学部教育の特殊なコンテクストと、そこでの「意見を衝突させることが狙い」。)

初等・中等教育の性質

「初等・中等教育は知識を整理して覚えていく時期、高等教育は知識をもとに問題に切り込んでいく時期と言える。
…高等教育で扱う問題というのは、答えが1つに定まらないことが多いわけで、それだけに慎重に議論した上で「ある条件のもとで最適と思われる答え」に自分で到達する能力が求められる。
型を覚える時期(初等・中等教育)にはかく乱要素は少ない方がよく…」
他方、アメリカのコンテクストにおいて、初等・中等教育の目的を「知識を・型を整理して覚える」ものとして規定してよいかも、よく分からない。
確かにNo Child Left Behind Actに代表されるように、近年のアメリカにおいて、確実な知識の習得が強調されているのは確かだ。(*4)
しかし、初等・中等教育でも、(知識の詰め込みよりは)表現力や問題解決能力の涵養が強調されているというのが、これまでの(日本において)有力なアメリカ教育の見方ではなかったか(*5)。幼稚園から「自分の好きなものとその理由」を説明する訓練を受けるというのは都市伝説か。

このように考えてみると、初等・中等教育と高等教育とを泰然と分けることができるかはよく分からない。

また、Bakke判決が高等教育におけるacademic freedomを強調しているとしても、端的に初等・中等教育については語っていないのであって、反対解釈して初等・中等教育(における「多様性」観念)に対する限定を読み込む必要はない。

deferenceの対象

高等教育におけるacademic freedomを承認するとしても、これが平等保護審査の手段審査において、教育機関の裁量を許すであろうかはよく分からない。厳格審査基準が適用されるとされる(*6)以上、ネガティヴな方向で考えたほうが素直か。

Gratz判決のミシガン大学学部入試システムは、ちょっとアレなものだった。
150点満点中、人種要素により20点のボーナスというのはかなり大きい。他の加算要素によるボーナス点の大きさと比較しても、「ギリギリ入るか」という志願者が「まぁ入る」というラインまで引き上げられるという実際上の効果に照らしても。
これが5点のボーナスであれば事案の見え方もかなり変わってきただろうし、(バランサーであったO'ConnorやプラグマティストであるBreyerが別の投票をして)結論も変わっていたかも知れない。
しかし、現在ではGratz判決は判例集に載っている。そしてその結果、入学者選抜において人種要素を点数化すること自体、回避されている模様。

「型を覚える時期(初等・中等教育)にはかく乱要素は少ない方がよ」いと判断したからと言って、「では同じタイプの人間が集まったほうが教育効果が上がりますね」と人種別学ポリシーを採用することは、間違いなくできない。
「裁判所が違憲の判断を下す可能性が上がる」ということは、教育に責任を持つ機関による可能な判断の範囲が狭くなることを意味する。
一連の判例法を、教育の初期段階になるほど、教育に責任を持つ機関の生徒の配置にかかる判断が制約されると位置付けると、多くの生徒を相手にしなければならないほどフリーハンドの余地が狭くなることになる。それでよいか。

まと…まらない

そのようなわけで、Bakke判決まで視野に入れた上で「Grutter、Gratz、 Seattle School District も比較的すっきり理解」できるというeastriver46先生の主張については、評価し切れない要素が多過ぎて、よく分からない、というのが正直な答えになる。
点在する判例の重力圏によって制約されていることから--判例法ワールドであることからの必然的な帰結かも知れないが--可能な軌道の範囲は案外少ない、とまでは確実に言える。

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2008.03.20 (Thu)

教育・多様性・平等保護

今日の憲法理論ゼミのassignmentはBalkin (ed.) "What Brown v. Board of Education Should Have Said"(*1)だった。
一周目でいきなり当たってちょっと焦る。
連邦最高裁の先(2006-07)開廷期の判決で話題を呼んだものの一つに、初等・中等教育におけるアファーマティヴ・アクションを扱ったParents Involved in Community Schools v. Seattle School District No. 1判決(*2)がある。
自分がざっくり読んだ理解では、この事件はミシガン大学事件(*3)の素直な延長だ、と。すなわちミシガン大学2事件の結論を分けたのは人種を使う態様--他の多くの判断要素の一つとして取り扱うか、もっぱら決定的な要素として取り扱うか--にあった以上は、本件の事案では人種をsingle outして判断基準としている以上、違憲判断になるのももっともだ、と。授業でもそう説明した。

が、アメリカへやって来て、とりわけ大学街にやってきて、ちょっと引っかかるものを感じた。
キャンパス--広義:すなわち、教室のみならず、ラウンジとか、カフェとか、公園とか--で、様々な肌の色の学生やそれ以外の関係者が、学問に関することもそうでないこともひっくるめて議論したり談笑したりしている。このこと自体は、大学教育の意義として(Brown判決(*4)に先立つ)McLaurin判決(*5)でも強調されていたことではある。

引っかかったのは、これが、大学=高等教育の空間で起こっている、という点。
ミシガン大学事件の一方、Grutter判決Scalia反対意見の一説を思い出す。
"The "educational benefit" that the University of Michigan seeks to achieve by racial discrimination consists, according to the Court, of "'cross-racial understanding,'" and "'better prepar[ation of] students for an increasingly diverse workforce and society,'" all of which is necessary not only for work, but also for good "citizenship."... For it is a lesson of life rather than law--essentially the same lesson taught to (or rather learned by, for it cannot be "taught" in the usual sense) people three feet shorter and twenty years younger than the full-grown adults at the University of Michigan Law School, in institutions ranging from Boy Scout troops to public-school kindergartens."
(超訳:人種間の理解が大事って、そんなことボーイスカウトか幼稚園でやっとけ。)
Grutter v. Bollinger, 123 S. Ct. 2325, 2349 (2003) (internal citations omitted).
確かに、世の中にはいろいろな人々がいるんだということを知る、その重要性は、既に大人になった=ある程度頭の固まった高等教育段階より、これからどんな市民になろうとしているか流動的な初等・中等教育の段階のほうが、より大きいように思われる。

然るにミシガン大学2事件と今回のシアトル事件の3判決を並べると、ロースクールのアファーマティヴ・アクションは合憲で、学部入学者選抜と初等・中等教育の学生配置ではアウト。つまり学年が下がるほどアウトになる。
多様な人々とcommingleする必要性に関する政策的判断と、実際に利用可能な政策的手段との関係が、逆になってしまっている。

これは、入学者選抜手続きの現場の要請から来るものだ。ロースクール程度の出願者の数であれば個別に審査していくこともできるが、学部入試ではそれでは間に合わない。(ということはミシガン大学事件当時から指摘されていた。)
いわんやもっとたくさんの学生を取り扱う初等・中等教育をや、ということになる。
自らと違うタイプの人間に接する必要性が増すほど、グループ構成員としての属性に着目して取り扱われざるを得ない逆説。

「私を見て」CV: かないみかという個別取扱いの要請と、同時に「私」は何らかのグループの一員としてしか存在し得ない、という、平等の構造の、二律背反。
「私」をもっぱらあるグループの一員として取り扱うことは「私」に対する抑圧たり得るが、しかし他者から見れば「私」は間違いなく当該集合の構成員だ。一人称の存在様相と二人称の存在様相とのズレ。

こんなことは憲法学者や法哲学者はとうの昔に気付いて言っているのだろう。K君ならどう説明するかな。本はもう出たのだろうか。

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2008.03.20 (Thu)

【書評】大屋雄裕『自由とは何か』

渡米直前に頂いたので、そのまま荷物に入れて飛行機の中で読んだ。
一読して、個々の記述に特に異論があるわけではないものの、全体としてはストンと落ち切らないという感想を持った。
そのまま本棚にあったのだが、偶々Amazonで「おすすめ」されていて(笑)レビューが目に留まった。ちょうどよい機会なので再読して読書感想文を書いておくことにする。
『自由とは何か』
  • 『自由とは何か--監視社会と「個人」の消滅』
  • 大屋雄裕(著)
  • 筑摩書房/ちくま新書680、2007年
  • ISBN=9784480063809
もとより、本書の仮想敵(笑)である安藤馨氏の論稿は未読だし、氏の新著も読んでいない(物理的にアクセスできない)。従って著者の問題意識を共有できているかは怪しいのだが。

初読で腑に落ちなかったのは次の2点の感想を持ったから:
  • 監視社会はどこ行っちゃったの?(副題にもあるのに)
  • オチが弱いのでは?
再読してギャップは縮まったものの、完全には埋まり切っていない。

監視社会論

よくある監視社会(警戒/批判)論(本書では具体的には田島泰彦氏が参照される)に対し、この問題に対する著者の構え方には幾つかの特徴がある
  1. 監視は監視される者の益のためになされることがある。
  2. 監視する主体は国家とは限らない。
  3. 監視される者が監視されていることを意識しているとは限らない。
こうした認識から単純な監視社会批判論が斥けられるし、そのこと自体に異論はないが、「監視社会マズイっしょ」の反対は明らかに「監視社会セフセフ」とはならない。
(前記1に関連して)監視が善意や被監視者の欲望や民主的決定によって導入されることは、実際の監視が本当に被監視者の益となっているかは担保しない。
(前記3に関連して)監視されていることを被監視者が気付かなければ、彼が路地裏に入り込んだ/入り込まされたままそこから出てこないこともまた、気付かれないかも知れない。

ここでスルーされてしまっているのは、視線の一方性の論点である。この論点自体の存在は、ポル・ポトやベンサム/フーコーのパノプティコンを参照する形で取り上げられている。しかし、この論点は存在自体が指摘されるだけでそれ以上立ち入っては検討されない。(*1)
例えば、「監視は有益である/たりうる」という主張と視線の一方性の問題とを止揚する解として、如何に監視者を(被監視者が)監視するかといったアイディアも検討されてよいのではないか。

もっともこの点は著者の立論を崩すものではない。著者の主張は「たとえ監視が善意に満ちて被監視者が監視に気付かないとしても~」というものだからだ。

事前と事後

第2章後半から、著者の立論の軸は事前規制/事後規制の対抗に移る。
監視→先取りという形で監視の問題系を事前規制の問題系へと展開させていくわけだが、他方、事後規制(の容易化)のための監視の利用(の可能性)についても指摘される。すなわち、監視は事前規制・事後規制のいずれとも結びつき得るのであって、事前-事後という対抗軸に監視の問題系は必ずしも重なり合わないわけだが、以降の著者の立論はもっぱらこの事前-事後の対抗を軸として展開される。このことが監視社会論がどこかへ消えてしまったように思える所以ということになる。

ところでここで事前規制として主として想定されているのが、アーキテクチャによる支配である(*2)
ここで(認識なき)事前規制としてアーキテクチャが挙げられ、他方、法規制を事後規制として位置付ける(136頁)のはLessigに従ってのことだと思われるが、法規制にも事前規制は山ほどあることは指摘しておかないと行政法学者に叱られるような気がする(汗)(*3)

なぜ「個人」?

認識なき(特徴その1)事前(特徴その2)規制としてのアーキテクチャによる支配に対比される形で、第3章では、これとは相容れない(少なくとも緊張関係に立つ)事後的な責任の引き受けをコアとする擬制としての近代的な「個人」の観念が抽出される。

この部分が食い足りない。
アーキテクチャの権力の浸透に伴う「個人」の解体を「魅力的」としつつも、そのような立場は採用しないとする。しかし、「個人」とは擬制なのだ/擬制に過ぎないのだとすれば、何故そのような擬制を欲するのか、あるいは何故そのような擬制が望ましいのか、という論証が重要になるはずである。一応、
  • 近代派刑法学の徹底としての社会主義刑法の経験(165~168頁)
  • アーキテクチャ設計者の想定を超えた発展の可能性(の確保)(170~175頁)
  • 完全なアーキテクチャが実現していないこと(204頁)
  • 事前の効用の不可能性/事後の効用の変更可能性(同)
といった点が指摘されている(もちろんこれらは相互に関連しあっている)のだが、もっと紙幅を割いてよい論点のはずだ。(*4)

この点を補完する私論を試論すれば(*5)、本書で挙げられているのは、「個人」を想定することで、
  • 本人にとってご利益(ごりやく)があるのでは、という一人称の視点
  • 社会全体にとってご利益があるのでは、という三人称の視点
である。もう一つ、二人称の視点もあってよいのではないか。すなわち本書では責任を追及「される」ことの重要性が指摘されるわけだが、責任を追及「する」側にとっても(*6)「個人」を想定することはご利益があるのではないか。例えば、責任の追及先を、ホモ・サピエンスとしての個体の範囲と一致させるのは、端的に便利で明快なシステムだ。(*7)(*8)(*9)(*10)


「個人」が消滅すれば、あるいは斜め下へ連想を跳ばす

恒久的平和を願えば 道はひとつ
そのままのあなたでいて
なにも知らない無垢な瞳のまま
神に委ねてみてください
だが、この一節は次のフレーズから導かれていることを忘れるな、ということだろう。
愚民の皆さ~ん、こんばんは~!(*11)
あなたは愚民になりたいか。もちろん愚民になる自由も、ある。

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00:51  |  日本社会  |  TB(1)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.19 (Wed)

Arthur C. Clarke氏 逝去

先日のGary Gygax氏逝去の件も未だ記憶に新しいところに、今度はA.C.クラーク先生ですか…
訃報:アーサー・C・クラークさん90歳=世界的SF作家 - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/person/news/20080319k0000e040034000c.html
「2001年宇宙の旅」作者、スリランカで死去 | エンタテインメント | Reuters
http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-30898920080318
自ずと「先生」と呼んでしまう。彼もまた、10代の頃に頑張って読んでいた作家だった。
何とも言いがたい。ご冥福をお祈りします。


クジラをめぐるトラブルの報に接するにつけ、何やってんだろうね、という感想を持ち続けている。
小学生の頃に(ジュブナイル版だったけれども)読んだ『海底牧場 』(*1)の印象が鮮烈で、
ゴタゴタしているヒマがあれば、“海底牧場”へ向けた研究イニシアチブ(*2)を率先して提唱・開始すればいいのにと、ずっと思い続けている。食糧問題についての強力なイニシアチブになるし、何より夢がある。
asahi.com:海洋基本計画を閣議決定 EEZ内の外国船調査制限検討 - 政治
http://www.asahi.com/politics/update/0318/TKY200803180324.html
読売新聞社のニュースサイト メタンハイドレート商業化など、政府が海洋基本計画を決定 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080318-OYT1T00352.htm
18:08  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.17 (Mon)

privacy 2題

私自身も表現の自由のほうにウェイトを置いて考える立場だけれども
「プライバシー権」は認めてはならない - 池田信夫 blog
「プライバシー権が違憲だというのは、Posnerが25年前に指摘し、アメリカの法学界では通説だ。アメリカでプライバシー権と呼ばれるのは、公文書の開示に関する限定的な規定である。」
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/5f8f7b1e32918fab318e01481bffeb40
この書き方はちょっと大雑把な気が。
「アメリカではrigth to privacyは違憲なんですよね」などと言えば、50%くらいの確率でアメリカ人(法律家)から小一時間ほど問い詰められる破目に遭うだろう。
"In Griswold [v. Connecticut, 381 U.S. 479, 14 L. Ed. 2d 510, 85 S. Ct. 1678 (1965)],the Court ... described the protected interest as a right to privacy ..."
Lawrence v. Texas, 539 U.S. 558, 564, 123 S. Ct. 2472, 2477 (2003)
この点、意識してなのか、表題では「『プライバシー権』」とカギカッコを付け、引用箇所後段が書き加えられているが、かえっておかしくなってしまっている。「違憲」なものが「限定的」なのだとすれば、合憲の範囲は広いことになってしまう。
抽象的に「プライバシー」を語っても無意味だ、という主張には賛成するけれども。政府による情報収集の局面、情報管理の局面、第三者の情報利用に対して介入しようとする局面等、個別具体的に分析していかないと、それこそ個人情報保護法のように奇妙なことになる。

プライバシー概念を使って考える場合も、
  1. 事実・状態としてのプライバシー
  2. 政策判断に当たっての保護法益としてのプライバシー
  3. 実定法上の権利(請求権)としてのプライバシー
  4. 憲法上の権利としてのプライバシー
程度は区別して考えたほう(*1)が有益だろう。憲法上の権利としてのプライバシー権を認めない人物が、事実として自らのプライバシーを守ろうとすること(*2)は全く矛盾した行動ではない。むしろ、法的に守られないと考えるからこそ、事実として守ろうとする意義は大きい。(*3)

その範囲も、"privacy"が"private"と語源を同じくすることを真剣に捉えれば、自ずと限定されてこざるを得ない。(*4)【書きかけ・続きます】
23:44  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.15 (Sat)

国際法的秩序(観?)

先の記事のコメントを書いていて思い出したのだが;

ゼミ(の打ち上げ)で呑んでいた時に、ある女子学生が、失恋した時に国際法の教科書を読んで感動した、と話していたのを思い出した。
国際社会と恋愛事情、確かに、秩序なき世界に如何に秩序を見出すかという点で相似している、なるほどと思う。

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21:06  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.15 (Sat)

聖パトリック祭?

何か街を歩いている人の服が緑色だなーと思ったら、聖パトリック祭のパレードがあったらしい <そういう情報に疎い人 その後、交通整理をしていると思しきホイッスルの音も聞いた。
で、夕方の帰る頃には、あちこちのパブでspring breakから帰ってきた学生たちがどんちゃん騒ぎをしていた。…別にいいんだけど、道路まで酒臭いのはどうよ(笑)


やっぱクロッカス
やっぱクロッカス、だよね?

途中の庭

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19:23  |  身辺雑記  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.14 (Fri)

retribution / revenge

論文を読んでいたらNozickが報復・懲罰retributionと復讐・仕返しrevengeの異同を整理していたのにぶち当たった(*1)(*2)。へぇと思ったのでメモ。
報復・懲罰 retribution 復讐・仕返し revenge
(1) 違法行為(wrong)に対して為される 損害(injury)に対してであれば、必ずしも違法行為に対してでなくとも為され得る
(2) 違法行為の度合い(seriousness)に限定される 内在的限界はない
(3) 非人格的/非個人的(impersonal) 人格的/個人的(personal)
(4) 必ずしも感情的満足(emotional satisfaction)をもたらすとは限らない 必然的に満足感を追求して遂行される
(5) ルール(rule)によってコントロール(govern)される、すなわち報復的行為は一般化/普遍化可能(generalizable)でなければならない 純粋に、義務を越えたもの(supererogatory)である、すなわち事例Aで復讐を遂行した者も同様の事例Bで復讐を遂行する義務はない

なぜ「へぇ」と引っかかったかと言えば、近年の日本の犯罪や違法行為をめぐる言説に対する違和感が、両者を区別することで整理できるように思えたからだ。

例えば、医療行為において、医師としてはやるべきことはやったと思ったが、結果的に不幸な帰結になったことに対して、患者側が不満を抱え訴訟などに至る、という状況。
患者側には損害(injury)の発生=違法行為(wrong)という観念があるのではないか。

あるいは、被害者/遺族の(復讐)感情の刑事司法における取り扱い。
刑事司法というのは規制すべきと社会的に考えられた行為に対するリアクションであって、そこでは「被害者」は後景に退く、というのは近代型刑事司法を理解している法律家等の専門家であれば当然だと了解しているし、実際、(従来の)制度もそのように組み立てられている。
しかしそこで被害者感情・遺族感情を違法行為に対する制裁について前面に出してくるとすれば、報復(retribution)を念頭に組み立てられている制度に復讐(revenge)が侵入するという混交が発生しているのではないか。
しかし、違法行為の度合いに限定され((2)左)、必ずしも感情的満足をもたらすとは限らない((4)左)報復を念頭に組み立てられた刑事司法制度では、内在的限界のない((2)右)満足感((4)右)がもたらされることはない。こうした特性が最近の違法行為に対する過剰反応や厳罰化の要求につながっていると考えられそう--だが求め得ぬものを求めているのだとすれば、いつまで経っても満足に至ることはない。(*3)

他方で、被害者・遺族が「再発防止」を訴えるのは普遍化((5)左)の主張とも位置づけられ、一筋縄でいかない。

【関連】

死刑:被害者感情論 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

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21:02  |  オレ辞書  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.14 (Fri)

アニメによる地域振興

北日本新聞社 富山のニュース
アニメ「true tears」舞台でファン交流 南砺・城端駅にノート
http://www.kitanippon.co.jp/contents/knpnews/20080313/10685.html
富山県議がアニメ「true tears」の県内放映に向けて尽力、放映実現へ - GIGAZINE
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080314_true_tears/
シアワセの素
城端が舞台のアニメ 高い評価
http://shiawasenomoto.blog.nanto-e.com/detail-22010.html
1月クールの(深夜)アニメ「true tears」が高い評価を受けているということで、富山の地元にはファンが訪れ、地元側も来訪者を歓迎している様子。
1月クールということで当然観ているわけがないし、原作も知らない。ギャルゲー?…らしい。18禁ではないようだし、原作とアニメの関連も薄いとのことだが。

アニメの影響で来訪者が増えたことをきっかけに地域興しというと、「らき☆すた」-埼玉県鷲宮町の件が記憶に新しい。恐らく地元自治体の担当者も研究しているのではないか(*1)
しかしアニメと特定するから目新しく感じるだけで、同様の現象自体は映画やTVドラマ(*2)ではよく見られる現象だし、それを期待して自治体が映画等のロケを誘致するというのもよく聞く話。

アニメの影響で人が集まることがネガティヴに評価されなくなったとすれば(*3)、文芸作品一般の一種として評価の対象とすべきだという持論の私からすると結構なことだということになる。
しかしそれも作品次第で、例えばアニメ作品のほうにはそういう描写が含まれていないとしても、原作が18禁だったらどうか、とか(今回は違うわけだが)(*4)。「らき☆すた」の場合もまったり系4コママンガを原作にアニメもその延長で制作されたから一般人も安心してミコシとして担げたわけだけれども、これが痴情のもつれからノコギリとナイフを握り締めたバトルが繰り広げられるような作品では絶対無理なわけで、まずはここにハードルがある。(*5)

他方、映画やドラマの場合であれば単にロケしてもらえばいいだけなのに対して、、アニメの舞台になるのは難しい。特に原作付き作品の場合だと、原作で舞台として取り上げられてから、アニメ化の題材とされるまでの距離が遠い(*6)(*7)
さらにそれがアニメ作品として話題を呼ぶヒット作となるかとなると、丁寧に制作されていることは前提条件とした上で、幅広い視聴者にツボる何らかの要素を持っている必要がある。これはかなり偶然と運に左右される。

というわけで、鷲宮町や富山県のように既にヒットした作品の僥倖にあやかれるならばともかく、そうでない場合に「アニメで町興し」というのは至難の業となりそうだ。


もっとも、地元自治体ができることは皆無ではない。「true tears」の場合、制作会社が富山にあることから舞台として取材されたという要素があるようで、かようにアニメ制作会社を地元に誘致するというのは(雇用創出という面も含めて)意味のあることだろう(*8)

あとはもちろん、街自体が個性的だから舞台として選ばれる(*9)ということはあるだろうが、こういう場合は放っておいても観光客は集まりそう。(*10)

テーマ : true tears - ジャンル : アニメ・コミック

20:54  |  日本社会  |  TB(0)  |  CM(1)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.09 (Sun)

裁判所のソフト・パワー

ここしばらく、アメリカ憲法訴訟におけるコモン・ロー的特性のモチーフを気にしている。
数週間前の木曜の憲法理論ゼミは、このモチーフに関連してStraussの論文(*1)がassignmentだった。
教授は説得的な議論だと思ってassignしたようだったが、学生側はなかなか懐疑的な態度を崩さなかった。自分は「実際に裁判所が行っている作業の記述理論としては説得的だが、新規novelな判断を基礎付けるための規範理論としては不十分」と学生側の懐疑を受けて私見を述べた。
自分「裁判所の判断に対する国民の信頼といった外在的要素が存在するだろう。」
教授「なぜ信頼している?」
自分「現代型憲法法理が形成されたのは20世紀中庸以降。ニュー・ディール以来の州法の改革者としての連邦のモチーフ、特に公民権運動で果たした役割の記憶があるのではないか。」
教授「どうやって実証する?」
自分「…orz」

確かに、司法部、特に連邦司法部、中でも連邦最高裁に対するアメリカ国民の信頼・威信は高い。政府の他の部門や法律家一般に対する信頼は必ずしも高くない(低い!?)にもかかわらず。
社会調査でもそのような結果が出ているし(*2)、2000年の大統領選挙が連邦最高裁判決で最終的に決着したことはまだ記憶に新しい(*3)。 最終的な結論の内容に不満がないわけではないが、それがしかるべき手続に則って下された決定である以上、それに従う、という観念と態度。その普及。(*4)

アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する - カッペの契約法
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-23.html
アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する - カッペの契約法・補論
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-128.html
先のエントリでは(国家の暴力装置に訴えてでも)裁判所の決定を貫徹しようとしない日本国政府の態度を遺憾としたわけだが、その際に念頭にあったのは(他の幾つかのブログでも見られたように)人種別学禁止という(連邦)司法部の決定を実行するために(連邦)軍が投入された事例が念頭にあったのは確かだ。

しかし、アメリカの裁判所も、少なくとも暴力や財政という面で大した力を持っているわけではない。「権力の三部門の中で、司法部が比較の余地なく一番弱い部門であることは、争うまでもなくたしかである。」「司法部は剣にも財布にも縁はな…〔い〕。司法部は、つまるところ力も意志ももたず、ただ判断するにすぎない…。しかも、その判断を有効に実施するためにも、結局は行政部の助けをかりなければならないのである。」(*5)
人種別学解消のための連邦軍の投入も、アイゼンハワー大統領の決断=執行部が重い腰を上げて行動に移った、という性質のものである。


だが他方、その威信、それに対する信頼、その判断に対して尊重すべきとの態度が社会内に広く存在すれば、たとえ物理的あるいは経済的な実際上の威嚇が特になかったとしても、裁判所はその判断を実現していくことができるのではないか。
このことを国際関係論の言葉を借りて表現すれば、司法部がソフト・パワーを有していると言える場合があるのではないか。

その上で前述の点を再言すれば、現代=20世紀の第4四半期以降のアメリカにおいては、裁判所、特に連邦裁判所は大きなソフト・パワーを享受していると評価できそうである。
しかし、歴史的に、常にそうであったわけではない。
間違いなく、1857年3月7日の時点では裁判所のパワーはゼロであっただろう。
1950年代でもかなり怪しい。何しろ、人種別学命令の執行のために連邦軍=ハード・パワーを投入しなければならなかったことは、ソフト・パワーの欠如を示す。
しかるに現代では、司法部はそれなりのソフト・パワーを持っていると言えそうで、それは何故か、パズルである。この間に何があったのか。私見の仮説は冒頭の通りだが、どうやって実証するか。歴史家ならぬ自分としては茫漠として雲を掴む気分。


その上で、日教組vsプリンスホテル事件におけるホテル側に対する「批判」の意義だが、このように考えると、裁判所のソフト・パワーを示すものだと解釈する可能性もありそうだ、というのが先のエントリで留保した点である。
しかし、ここで定式化した「ソフト・パワー」とは、たとえ自らの好まない結論であったとしても、決定に従うという観念ないし態度である(*6)
「裁判所の決定に従わないプリンスホテルはケシカラン」とホテル側を「批判」している者でも、半分くらいは攻守が変われば別のことを言い出すような気がする。今回は偶々裁判所の結論が自らの望むものであったから支持しているだけだとすれば、そんな態度は法の支配への忠誠ではない。
従って、先の解釈も眉に唾をつけて考えるべきだろう。

もっと言えば、日本人はもっぱら帰結の好ましさのみに着目する。それが出だされるforumを分節化して尊重する、という態度に薄い。これは左右を問わない。左の旦那様の言説が常に息詰まるものになる所以である。

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22:22  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(4)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.09 (Sun)

Spring Break

この週末から約一週間、大学はspring break。
学生の皆さんはどこかへ行ってしまったようで、気を抜くとこちらものんびりになってしまうのだが、処理すべき案件が蓄積している。
気が付いたら夏時間だった。1時間損した気分。
おっさんホイホイに捕まって、昔懐かしい映像(の千早によるカバー)、「再び(プロトカルチャーの)文化を取り戻すのだ」(*1)というのは文革やポル・ポトが念頭にあったのかな、1984年だしなー…などと思案している場合ではないのだったorz

クロッカス(?)
アパートの門のところで咲いていたクロッカス(?) いよいよ春です。
21:56  |  身辺雑記  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.08 (Sat)

X360

LenovoがThinkPad X300を発表。
日本 - 個人向けショッピング - ThinkPad X300 ウルトラポータブル ノートブック
http://www-604.ibm.com/webapp/wcs/stores/servlet/CategoryDisplay?storeId=10000392&catalogId=-392&langId=-10&categoryId=4611686018425180104&re=home_A_jp&ipromoID=jphpa02212&
ガジェット情報満載ブログ ThinkPad X300を見てきました : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン)
http://www.gizmodo.jp/2008/03/thinkpad_x300_1.html
いいなぁ。こんな感じのマシン欲しいなぁ。
SDD 64GBというのはちょっと少ない気もするが。 て言うか、光学ドライブいらね <光学ドライブは持ち歩き時には使わないと割り切って、ポトリで運用する人 >光学ドライブの替わりにHDD(SDD?)を積んでればベター。


渡米する直前に、ThinkPad X61を購入したんですよね。
前任のX40は(細かく言い出すとキリないけど)おおむね元気に動いていたのでちょっと迷った、一番大きな懸念事項はHDDの空き領域がキツクなって来ていたことだったので、HDD換装で乗り切ることも考えたのだが、
  • 1年半日本から離れる間にVistaが普及してXPが廃れたら困るなぁ
  • X61が最後のThinkPadになるかも!?
  • 引越しでドタバタしていて換装工作しているヒマがなかったorz
といった理由で思い切ってX61を導入した。

このブログ書いているマシンもX61なわけだが、普通に使っている分には特に問題ない。X60はパームレストが熱くなるのが問題だったようだが、X61にはそれはない。(*1)
USBポートが増設されたり(*2)、PCカード・スロットの位置が左パームレストの下に移ったり(*3)といった辺りも細かい使い勝手が良くなっている。

しかし、X61の何がアレだって、ゴツイんですよね。X40は一般の人気はあまり良くなかったみたいだが、筐体デザインはスマートにまとまっていたと思う。
X61 vs X40
左がX61、右が予備機として持ってきているX40。筐体の厚さの差は見ての通り。
特に裏面がゴツゴツしているので、持ち歩きにはちょっと不便。


そもそも、お前はThinkPad信者なのかって? そうです(笑) と言うか、ポインティング・デバイスがトラックポイント派なんですよね。


その他、これはX61だからというより、XPからVistaになって気になった点。
・一時、X40=XP時代のようにクラシックスタイルWindowsで使おうとしたが、味気なく思えてAeroに戻した。ただAeroも、カスタマイズの幅が狭くて気に入ったデザインに落ち着かない。Aero以外のデザインにしてから戻すとデフォルトの設定に戻ってしまうのも×。

・【フォント】メイリオはあまり好きではない。インターフェースのフォントはWindows UI Gothicに変更した。
・【フォント】Centuryはよく使うフォントなのだが、だいぶデザインが変わった気がする。Times New Romanに似ている。嫌いではないが、違和感が消えない。と言うか、昔のCenturyは何て名前のフォントで入っていてどうやれば使えるんだ?

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01:09  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(3)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.07 (Fri)

ギブ・ミー・選挙権

ヒラリー、粘るなぁ。
ちょうど火曜日、お昼のカフェでおばちゃん(という感じの年代の女性)がヒラリーを応援するバッジをつけてご飯食べてた。

Latinos Seek Citizenship in Time for Voting - New York Times
By JULIA PRESTON
Published: March 7, 2008
http://www.nytimes.com/2008/03/07/us/07immig.html?th&emc=th
市民権を申請したがまだ獲得していないヒスパニック系(合法)移民が、選挙に間に合うようにさっさと処理しろとクラス・アクションを提起。

ブッシュ政権は移民に厳しい政策を採ってきたからね。
移民に甘くすると保守票を失い、厳しくするとヒスパニック票を失うという、舵取りの難しい政策領域ではある。
続報。
Goal Set for Reducing Backlog on Citizenship Applications - New York Times
By JULIA PRESTON
Published: March 15, 2008
http://www.nytimes.com/2008/03/15/us/15immig.html?_r=1&th&emc=th&oref=slogin
「頑張って処理します」ってことだけど、年金記録と同じことになりそうな気が(汗)
[2008/03/15 16:30 追記]

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21:47  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.06 (Thu)

カッペの契約法・補論

もう一ヶ月前の話題、既に皆忘れている気がするのだが
アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する - カッペの契約法http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-23.html
プリンスホテルが日教組の教研集会をキャンセルした事件に関するこのエントリについて、数少ない読者から誤読されている気がするので補足エントリ。

先のエントリで、私はプリンスホテルを批判/非難したつもりはないんですね。
ホテル側の裁判所の命令に対する自発的遵守がなかったという「事態」「状態」について、「残念なことだ」「遺憾なことだ」とは考えるしそのように書いたつもりではあるのだが、「裁判所の命令に従わないプリンスホテルはケシカラン」とは言ったつもりはないし、実際にもそのように思わない。

次のような事例を考えてみよう。
捜査官Xは、かねてより追いかけていた容疑者Yの潜伏先を突き止め、逮捕令状を得て部下を引き連れて潜伏先の甲宅を訪れた。
部下に甲宅周辺に配置の上、Xは甲宅を訪れYを逮捕しようとしたが、Yは裏口から脱出し、包囲の手薄な所を突いて脱出し、姿をくらました。
このような場合、「Yが素直に捕まらないのはケシカラン」と言う人はあまりいない。普通、「十分な数の人員を動員するなど捜査当局のやり方が拙い」と評価するはず。

プリンスホテル--でなくても誰でも--ある信念に基づいて法執行を拒否したのだとすれば、それは市民的不服従の問題系につながっていくはずで、それをそのようなものとして取り扱うのはむしろ良心の自由の尊重であるとすら言える。(*1)

しかしそれを放置したのでは秩序は維持できないのであって、司法的=公権的決定に対する(外形的な)服従は確保されねばならないし、そのために国家は暴力装置を備えている、はず。
しかし今回、公権的決定に対するoutrightな無視を政府は座視してしまった、これは、マズかろう、というのが元エントリの趣旨。
社会契約でリヴァイアサンを作ったはずなのに、実際にはアオダイショウだった、ではダメだ、と。


このコンテクストで、プリンスホテルの行動を「批判」するというのは、前述の通り市民的不服従を否定することになるはずなのだが、それに気付いているのかなー、というのは一つある。内心を問わずに外形的行動を(暴力的にでも)従わせしめるほうが、よほど対象の内心を尊重することになるのではないか、そういう点は分かって批判しているのか、と。

官僚・政治家双方の政府関係者もホテル側の行動を批判していたわけだけれども、これは彼らの預かる公権力が行き届かなくなりそうでマズい、という観点からは正しい反応ではある(*2)
しかし、だったら呑気に批判していないで、ホテル側を司法的決定に従わせしめるべく、しかるべき手を打つべきだったんじゃないかと。

というわけで、ホテル側の行動を「批判」する見解に対しては、発言者によって意味合いは異なるが、同調しない。
ただ、「批判」「批難」が無意味なのかと考えると、また別の意味合いがあるのではないか、という気もするので、別エントリで検討したい。

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01:54  |  アメリカ法  |  TB(1)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.05 (Wed)

Gary Gygax氏 逝去

ゲイリーガイギャックス逝去 - きまぐれTRPGニュース - trpgnewsグループ
http://trpgnews.g.hatena.ne.jp/accelerator/20080304/p1
D&D等のデザイナー、Gary Gygax 氏が亡くなられたとのこと。
(彼が誰なのかは分かる人だけ分かればよろしい。)

TRPGから離れてかなり時間が経ってしまったけれども。
そもそも現役でプレイしていた頃も途中からRQ3dメインに移行してしまってD&Dメイン時代はあまり長くないのだけれども。
それでもやはり「全ての祖」に対するリスペクトは自ずとあるわけで。

「『ガイジャックス』じゃなくて『ガイギャックス』だよ」とか、
ラリー・ニーヴン『ドリーム・パーク』の後書きに参考文献として掲げれていたものの中に「地下牢と竜」と訳されているのに苦笑したり。

時間を割けなくなって今では離れてしまったとは言え、かつてコミットしていたものの関係者の訃報に接するというのは、時の流れを感じる。
多摩豊氏の訃報に接して以来の衝撃。

ご冥福をお祈り申し上げます。
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2008.03.03 (Mon)

食育?

Free Lunch Isn’t Cool, So Some Students Go Hungry - New York Times By CAROL POGASH
Published: March 1, 2008
http://www.nytimes.com/2008/03/01/education/01lunch.html?ex=1205038800&en=04ab399848e47ab1&ei=5070&emc=eta1
連邦のお金の出ている、学校(記事は中等教育レベルについて)低所得者向けの無償ランチのプログラム、対象者であっても利用する人が少ないとのこと。
理由:別々の列でランチが提供されるので、プログラム対象であることが分かってしまう。それをクラスメートに知られたくないから。(*1)
たぶん、スクールカーストとかの微妙な問題もあるのだろう。

この記事が目に留まったのは
The New York schools conduct regular promotions, including inviting players from the Mets, Giants and the Jets ... to eat the subsidized fare in their jerseys.
このプログラムの促進のために、プロスポーツ選手を学校に招いてランチを食べてもらうとのイベントをやっている、との報告。
マツイ(秀喜)やマツイ(稼頭央)が「地元の高校を訪れて高校生とランチを食べた」と日本のマスコミのスポーツ報道で報告されているのはそういう意味なんだ、へぇ、ということで。

プログラム対象であることを分からずに利用できるようにする改革も行われているとのこと。

"Ann Cooper, director of nutrition services for the public schools in Berkeley, Calif., said that attention to school cafeterias had traditionally focused on nutrition, but that the separation of students who pay and those who receive free meals was an important 'social justice issue.'
'Fewer people know about it,' said Ms. Cooper, whose lunch program offers the same food to students who pay and those who have subsidized meals."

食育の議論には関心を持っていないし(*2)知らないのだが、ひょっとすると発想のルーツはここら辺にあるのだろうか。
直接的な連関はともかく、アメリカでは「栄養」「社会的正義」として語られる学校での食事が、日本の「食育」では一気に情緒的になって道徳の話に言ってしまうのはどういうことだろうか。
20:49  |  アメリカ法  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.03.03 (Mon)

引越しの作業

とりあえずデータは移したのだけれども;
旧サービスであるDTIでは本文を書く際に改行をすればそのまま改行されていたのだが、データを移行するとすっかりそれが飛んでしまっていた。
その修正作業が結構分量が多い。
今後のことも考えて、単なる改行ではなくbrコードを入れていくことにした。

あと、スタイルシートとかもいじりたいし。
テクスト主体のブログなので本文の表示域が狭いテンプレートは避けている。(従って基本2ペイン型。)
20:26  |  未分類  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
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