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2008.01.11 (Fri)

アメリカの裁判官(の給料)とリーガル・サービス市場

最高裁長官による連邦司法部に関する年次報告書原文、裁判官の給料の話はほとんど年中行事になっている(笑)
まぁ、トップが司法部を代表して、他の政府部門に党派的にならずに言えることと言えば、自ずと職員の待遇の話になってしまうのは分からないでもない。(*1)
それでも例年に比べると大人しいとLinda Greenhouseは評しているが。

英米法の教科書にはどれも(法曹一元への憧憬をにじませつつ)、アメリカの裁判官は経験を積んだ弁護士から選任されることと、それ故のその地位の高さと集めるリスペクトについて書いてあるわけだが;
今や連邦裁判官よりもロースクール出たての一年目アソシエイトのほうが給料が高く、民間セクタからの裁判官のなり手がなかなかいない。
リスペクトについては未だ維持されていると思うが、給料を理由に裁判官を辞める人も出てくる状況。
The Value of a Judge - washingtonpost.com
It's more than Congress has been willing to pay.
Wednesday, December 12, 2007
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/12/11/AR2007121102004.html?wpisrc=newsletter

数年前、地元の弁護士の先生を演者として、法科大学院時代になって弁護士業務がどう変わるかという講演会があり、何故か主催者から私がコメンテータに指名された。

80年代半ば、当時ハーバードの総長であったDerek Bokが「日本の優秀な若者はエンジニアを目指すのに、アメリカでは弁護士を目指すから、こんなに国際競争力が落ちている」と(自らも弁護士であるにかかわらず)嘆いたエピソードを引きつつ、彼は、法曹人口の増加による訴訟社会化とそれによるビジネスや地方自治体他のサービス提供者(医者とか)の萎縮への懸念を表明した。
これに対して私は、先のエントリで挙げた例も念頭に、実際のアメリカ法の80年代後半以降の動きはプロ・ビジネス的だと言えることを指摘し、その原因を、法曹人口が十分に増加すれば原告側のならず被告側弁護士も増えていくことに求めた。

この解答自体は誤りだとは考えてはいないが、しかし、より大きな背景事情をスルーしていたか、と後になってから気付いた。

既にアメリカには100万人規模の弁護士有資格者がいるわけだが、その数の伸びは鈍ってはいない。ここ15年間、毎年4万人内外のロースクール修了者がおり、ロースクール自体の新設も、1990年以降23校が新たに認証されている。

個別に見ても、私が留学した当時でロースクールの授業料は高い所で年間2万ドル強といった感じだったが、未だ10年経過していないにもかかわらず3万ドルを超える大学はざらにある(*2)
この額3年間分(!)を吸収し得る給料を払う、弁護士マーケットとはどんなものなのか。

Derekの嘆きから現在までの25年間には、日本経済がグダグダになるのと入れ違いに、アメリカ経済が息を吹き返した90年代が含まれる。
90年代のアメリカ経済の復活についてはIT革命に言及されることが多い。
が、アメリカ経済が復活しても、アメリカ製造業が復活したわけでは必ずしもない。
90年代に起こったのは、アメリカの企業は中国に工場を立て、製品は専ら輸入するというシフト。
その過程で重要性を増したのが、コンサルとか、財務とか、ビジネスをデザインするビジネス。そのようなものの一つとして法務も位置付けることができる、今はそんな見立てをしている。
未だ仮説で実証はできていないが。
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テーマ : アメリカ合衆国 - ジャンル : 政治・経済

22:06  |  アメリカ法  |  TB(4)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2008.01.11 (Fri)

コモンロー的なるもの?

既に1ヵ月半前になってしまったが、
政府=間接部門の効用 | bewaad institute@kasumigaseki
http://bewaad.com/2007/11/24/342/
政府の機能に関するこちらのエントリだが、これに対するコメント6
「 6. 通りすがり Says:
11月 25th, 2007 at 6:11:26
webmaster氏は「政府はぜひやりたいと思ってやっているわけではない、世間からそう要請されているからやっているのだ」との主張だと了解しますが;
「政府が一定の機能を果たしている」ということと「さもなければ個々の研究者に当該業務が降りかかる」ということとが二者択一的に語られていますが、果たしてそうなのかと。
…例えばある種の全国組織を構成してそこに「一定の機能」を委ねる、という選択肢もあるはずです。
にもかかわらず、「一定の機能」を果たすために、常にではなくとも多くの場合、政府が登板するのは何故なのか、官僚機構内部のレベルでも官僚機構外の狭義政治システムのレベルでも狭義政治システム外のレベルでも、興味深い政治文化的現象です。」
は私が書き込んだ。これに対してbewaad氏より
「20. webmaster Says:
11月 26th, 2007 at 3:31:02

>通りすがりさん
アングロサクソン系の慣習法主義と大陸法系(日本はこちらです)の成文法主義の違い(というのも乱暴なまとめですが)が影響しているのかな、というように思います。日弁連などの自主規制機関についても、新たに作るのであれば法律上の根拠がないとオーソライズしづらいのは否めません。手形や小切手の実務を担う都道府県銀行協会のように、明治以降の法制化に先立ってできたものについては、この限りではなかったりもしますが。」
と回答された。
この見解には首を捻らないでもなかったものの、人様のブログのコメント欄で本筋とは関係ない話題をするのも適切でないのでこれ以上は追求しなかった。

が、年が明けてから、池田信夫先生のブログで、考え方の方向性としては正反対ながら、共通する認識を持っていると思えるエントリがあったので、併せてコメントしたい。

政府=間接部門の効用 | bewaad institute@kasumigasekiに対して

私のコメントの趣旨は、例えば民間団体を組織してそこに「間接部門」機能を担わせる、という選択肢もあるはずなのに(*1)、そのような選択肢の可能性は検討されることもなく、すぐに「監督官庁」が求められる、これはどういうことなのか、という問題設定だった。(*2)

私が社会的な問題を考える際にはどうしてもアメリカを参照してしまうので、前記引用回答コメントには見た瞬間はドキリとした。「国会対応やメディア対応等」であれば、例えば学会がそれに当たる、という選択肢もあり得るはずだ。例えばアメリカでは、ロースクールやメディカルスクールの認証はそれぞれ専門家団体であるABAやAMAがやっている。(*2)
しかし前記回答はよく考えてみると腑に落ちない。

「一定の機能」を専ら政府に(のみ)委ね(ようとす)るのは何故かという問いに、「英米法系ではなく大陸法国だから」という解答が成立するためには、(少なくとも)二つの命題を経由する必要がある。
  1. 「一定の機能」を果たすためには実定法上の授権が必要である。
  2. 英米法系においてはよりinformalなやり方でこの種の授権がなされる。
いずれも首肯できない。
1. ここで期待されている機能はマスコミ対応等の社会的説明責任を念頭に置いている。権力的なものではない。これに対して実定法上の(特定的な?)授権を要求するのは、私的自治の原則に反する。(*4)
別の言い方をすれば、ここでの授権は、契約(*5)や法人設立(*6)に関する民事一般法以上のものは必要ない。はずである。

2. コモンローのカバーする領域としてまず思い浮かべるのは、契約や不法行為、財産権といった民事(一般)法の領域になる。アメリカにおいても、公法的な領域において(すなわちある組織が権力作用を営むに際して)、制定法上の授権なく純粋にコモンロー的に対応しているという法分野を、思いつくことができない。(*7)
例えば先にアメリカのロースクールの認証をABAが行っているとしたが、ABA認証ロースクールに行けば司法試験受験資格が得られるのは、州制定法がそのように規定しているからである。(*8)(*9)
そうだとすると、英米では先に団体的活動が生じてそれを判例法が承認する、というようなイメージは描けない。

以上より、「一定の機能」を専ら政府に委ねるのは「英米法系ではなく大陸法国だから」だとは言い難い。
むしろ答えは、より特殊日本的な事情に求められねばならないだろう。それが何かを特定することは現時点では困難だが。国民性論、政治文化、官僚文化、ビジネスの体質、メディアの傾向、様々な可能性が考えられる。

自由な社会のルール - 池田信夫 blog に対して

自由な社会のルール - 池田信夫 blog 「「各自が利己的に考えて行動」すると無政府状態になるから、法律でしばらなければだめだ、という発想をハイエクはテシス(人工的秩序)と呼び、これに対して各自の意思によって進化的に形成される秩序をノモス(自生的秩序)と呼んだ。後者のうちもっとも重要なのは暗黙の社会的規範であり、それを裁判によって明文化したものが判例であり、それを立法化したものがコモンローである。
他方、日本のような大陸法型システムでは、立法によって細部まで規制し、その解釈は政省令で決め、処罰も行政処分で行なう。これは法技術的にも大変なので、コーディングの専門家である官僚がほとんどやり、政治家は事後的に(利権がらみの)注文をつけるだけということになりやすい。当ブログでも何度か書いたように、こうした実定法主義によって官僚に権力が集中し、行政が立法も司法も兼ねていることが、イノベーションを阻害し、日本経済を窒息させている最大の原因である。」
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/fec9b85d45e60765bc98ce1eb90ac2aa
「社会的規範」と「実定法主義」
ここでは、好ましい規範として「社会的規範」を同定することができ、そしてコモンローにおいてはそれが採用される、と想定されている。しかし大陸法国ではそうではない、と。
しかし、好ましい規範が同定可能なのであれば、それは如何なる立法回路を通じてでも採用可能なはずである。大陸法型立法過程であっても社会的規範とパラレルな立法をなすことは可能なはずである。従って、ここでの問題はコモンローか大陸法かということではない。
確かに官僚機構に起案を委ねると自らに有利な立法をするインセンティヴがある、とは言える。しかしこれは日本型官僚制の問題であって、日本が大陸法国だからではない。
自生的秩序について
この点は、ハイエクの自生的秩序の解釈にもかかわる。(*10)この概念の意義については
  1. 規範形成過程の動態的な記述and/or規範的承認、すなわち得られた規範の正統性の問題、と
  2. 規範の内実の、機能的な有効性の指摘、すなわち規範の正当性の問題
の両様に理解が可能である。
そして、ハイエクは、前者は必ずしも必須のものとはしていない、との指摘がある(*11)。「市場の積極的導入」という旧社会主義国で多く見られた現象は、後者では正当化できるが前者では正当化できない。
他方、コモンロー云々というのは前者に関係するテーゼのはずである。
アメリカの場合
とりあえず私はアメリカしか勉強していないが、アメリカ法がビジネスにとって好ましい環境を(常に)提供しているかについても留保が必要だろう(*12)。池田先生も、前記引用エントリの終わりではSOX法の経験を挙げ、否定的に評価している。
もっとも、SOX法は議会制定法であって、コモンローではないから問題が生じたのだ、と言えなくもないかも知れない。それではコモンロー上のルール下では望ましいビジネス環境は実現するであろうか。

そうではない例を二つ挙げる。
第一は信託法上の受託者の義務についてである。
伝統的な信託法においては、信託財産の価値を毀損しないために、受託者を監督する広範な権限を裁判所が有し、受託者の行為を制約するルールも様々なものがあった。これは、土地が主要な信託財産であり、その価値の維持が重視された環境下では適合的であったかも知れない。
しかし、現在においては株式を初めとする金融資産が信託財産の重要な部分を占めている。そのような環境下では、単にこうした資産を保持しているだけでは不十分で、むしろ積極的な運用が図られねばならず、そのためには専門的知識を持った受託者が裁量的に行動する必要がある。こうして、第3次リステイトメントにせよ、統一信託法典(Uniform Trust Code)にせよ、近時の信託法改革は判例法の展開とは別の回路で受託者の裁量を広げている。

第二は日本人にも馴染みの深い製造物責任の分野である。
製造物責任(製造物に欠陥の存すること自体を責任原因とする民事責任)は、その法形式には幾つかのものがあり得るが、いずれにせよ1960~70年代のその展開は判例法主導であった。
コモンローはビジネスに敵対的に展開したのである。

これに対するビジネス側の対抗策は幾つかあるが、その一つは連邦安全規制への依拠であった。連邦制の問題もあるので一筋縄ではいかないが、連邦行政庁の策定する製品等の安全基準(これ自体、議会制定法の授権に基づく)を遵守していることを根拠に州不法行為法上の責任が排除されることを主張した。細かい解釈論に依存するので結論はsporadicだが、90年代以降、この主張が認容される例が目立ってきたのは確かである(*13)。さらに、ビジネス側のほうがこうした効果を狙って連邦規制を求めてロビイングしているとの報告もある(*14)

また、アメリカにおいても行政庁(*15)は、規則制定権限、執行権限、一定程度の裁定権限を併せ持っていることも指摘しておく。

まとめ

すなわち、いずれも大陸法vsコモンローという枠組で問題を把握した上で、bewaad氏は日本は大陸法だから仕方ない、池田先生は大陸法だからけしからん、という評価を下すわけだが、私の疑問は、そもそもそれは大陸法vsコモンローという対抗軸の問題なのか、ということになる。

仮に大陸法の問題だとすれば、大陸法系の本家であるドイツやフランスでも同様の現象が観察されなければならないことになる。あるいは(少なくとも国家法の部分に限定すれば)世界的には英米法系諸国よりも大陸法系諸国のほうが優勢なのであって、そうした国々でも同様の現象が観察されなければならないことになる。
しかし、両氏とも、特殊日本的な問題を念頭に置いて議論をしている。そうだとすれば、「大陸法だから」という診断は、背景要素の一つとしてカウントすることは可能かもしれないが、直截的な原因とは言い難いように思える。より日本特殊な要因を探ったほうが、原因を探究する際にも、処方箋を書く段でも、より有効性が高いのではなかろうか(*16)


【関連】
規制を求める業界

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