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2007.12.05 (Wed)

初積雪
初積雪です。
まぁ札幌基準だと誤差の範囲って感じですが(笑)
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23:15  |  身辺雑記  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2007.12.05 (Wed)

で、誰をひっぱたくのか

中島岳志的アジア対談:フリーター、「左派」or戦争??赤木智弘さん - 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/enta/art/news/20071122dde014070009000c.html
日本を離れてしまったので最近の状況はフォローできていないし(*1)、新著も未見だが;
赤木智弘「『丸山眞男』をひっぱたきたい」は確かに今年の話題の一つではあった。自分も団塊ジュニア、「損をした」と思っている70年代生まれで、基本的な感覚は共有する。が、その後の展開は最初に同稿を読んだ際に感じたインパクトほどではなかったな、という気がする。

自称リベラル/左派の欺瞞性を炙り出すことは同稿の目的の一つだっただろうし、そしてそれはある程度成功しただろうが、逆に言うとそこにフォーカスが集まり過ぎてしまったように思う。もっと口悪く言ってしまえば、サヨクの内ゲバとしか、サヨクにシンパシーのない身からすると見えない。
社会問題の本体である、氷河期世代の労働問題+そこから派生する諸問題――社会的威信とアイデンティティ、恋愛/結婚/家族形成(*2)etc.――が、むしろ後景に退いてしまったのではないか。(*3)

赤木氏自身「宇宙人との戦争」と言ってしまったことで、最初のインパクトが薄れてしまった。当初は「恫喝」とさえ評されたラディカルな問題提起であったはずだが、「宇宙人」と言ってしまったことで、ブラックではあるもののメシア待望論になってしまった(*4)

メシア待望論では社会問題の処方箋は書けない。

苦しい、ということは、救済の必要条件でしかない。
救済の十分条件こそが、前景化されて議論されなければならない。(*5)

問われるべきは

中島氏>「国家がもっとまともに、所得の再分配をするしかない。あるいは経営者がもう少し現状の危機を自覚するべきです。」
この種の問題では二言目には「政府と企業の責任」と言われるが、それでは問題の入り口にすら立っていない。
企業も、政府も、別に(例えば)氷河期世代を苦しめることを目的として、そのようなpolicy(方針/政策)を採っているわけではない。それぞれ置かれている状況において、そう行動するのが合理的であるが故にそう行動している(と推定できる(*6))。より具体的には、そう行動することを期待する人々なりがいるから、経営者も為政者も彼らに対応しているに過ぎない。だとすれば、当該policyをovercomeするためには、企業なり政府なりが誰の方向を向いているのか、誰の利益になるように当該policyを採用しているのかを、まずは同定しなければならない。
真の“敵”は、政府でも企業でもなく、それらが向いている先にいるもの(者/物)であろう。ここが同定されて初めて、いかなる救済――そちらではなくこちらによこせ――の正当化(十分条件の主張)がvalidなものであるかも組み立てることができる。

“敵”は誰か

世代間闘争?
それでは誰(どのグループ)を“敵”として想定するか。
実はこの点も赤木論文では軸足にブレが見られた。
NHKスペシャル「ワーキングプア」を参照しつつ、「ポストバブル世代」と「経済成長世代」とを対抗させて、90年代不況下、団塊世代の雇用を守るために新卒採用の抑制+非正規労働へのシフトがなされた結果、氷河期世代は苦しんでいる、というのが基本的な状況認識であろうし、そうすると
  • 世代間分配
の不公正が主たる関心なのだと理解する。
しかし、話のオチ及び表題では、戦時下、小学校卒の一等兵が、帝大助教授の丸山眞男をひっぱたくエピソードを持ってくる。ここでは
  • 世代内分配
こそに関心を寄せているように読めてしまう。(*7)

「職という資源の世代間分配の公正」と政策目標を同定した上で、ようやっと処方箋を書く段階になるが、ここに踏み込んでいる議論は驚くほど少ない。もちろん「目立たない」「私の目に付かない」のほうが正確な表現だろうが(*8)、例えば赤木本キャンペーンサイトの言及まとめ(*9)に挙げられているブログ・エントリを眺めてみれば、相対的にはやはり少ないと言って誤りではないだろう。

そして具体的な政策対応としては、例えば城繁幸氏が職能給から職務給への移行を主張しているのは処方箋の提案の一つと位置付けられる。
一見労働者に厳しく従来型の労働界からは批判を集める八代尚宏氏の提言(正規従業員の非正規労働者なみ待遇への切り下げ)を赤木氏は評価する。八代提言は結論において「世代間分配の公正」――同一労働に対する同一報酬――をもたらすと考えられる限りにおいて、赤木氏の評価は一貫していると言える。

安売りバンザイ!?
無論“敵”は他にもすぐ思いつく。
経営者であれば「競争力」を引き合いに出すだろう。製造業であれ、流通を含むサービス業であれ、価格を抑えなければ売れないのだと。
この主張を受け容れるとすれば(*10)、フリーターから収奪しているのは、受け取っている価値に対して見合う対価を支払わない(あまつさえ、モットと要求する)
  • 消費者
であろう。
無論ヨリ安くというのは消費者の習い性ではあるが、特にサービスに対して日本の消費者があまり払いたがらないとされるのは何故か、という問いは検討に値する(*11)(*12)(*13)

関連して興味深いのが、今年のタクシー料金値上げをめぐる政府の対応だ。
タクシー運転手の苦境は周知のことだと思うのだが、それに与する声は聞こえない。
「消費者の理解が得られない」と東京地区につき先送りされ、認可された値上げ幅も圧縮されている。
「政府規制によって高価格体質になっているから市場に委ねるのだ」というのが90年代以降の規制緩和論なわけだが(*14)、本気で市場を重視するのであれば、料金値上げも市場に委ねるのが筋だろう(*15)。市場主義者のはずの太田弘子大臣が値上げに反対意見を示したのは奇妙なことだと思った。

「株主価値最大化」とニッポン株式会社の崩壊
そしてもちろん、
  • 資本
の問題系はどこまでも残る。
赤木氏に攻撃されている「経済成長世代」や伝統型左派であれば、「オレたちからじゃなくて向こうから奪ってこいよ」と言う(言っている)だろう(*16)。あるいは、消費者がしみったれた支出しかしないのは手元不如意だからであって、賃金水準を上げれば個人支出も増える、というのも標準的な議論だろう(*17)

外国人投資家が東証の主役を勤めている状況で、「株主重視」経営をすれば富が海外へ流出するのは当たり前だろう(*18)。戦後日本型株式会社を株主よりも労働者を重視する体制と評価して懐かしむ見解もあろうが、自分はこれを手放しで擁護するつもりはない(*19)。ただ、90年代以来の会社組織のあり方の転換についてはタイミングが悪過ぎた(*20)(*21)

厄介なのは、現代において「資本家」の顔が見えなくなっている(*22)。「金利が上がって銀行預金に利子がついて嬉しい」と思っているあなたや私は既に資本家だ。ファイナンシャル・プランナーや銀行からのDMが言う「お金に共働きさせましょう」も同じ意味。「機関投資家」が「セーフティ・ネット」たる「年金」基金だったりする。

「コーポレート・ガバナンス」の強化の結果、経営者は「株主価値の最大化」、それも短期的な、のみに腐心するようになったわけだが、これはパイを膨らませるというまさしく「経営手腕」によるものというよりは、中期的コスト――教育訓練等、労働者の能力開発に代表される――や長期的コスト――人口再生産に代表される――を外部化しただけのゼロサム・ゲームだった。市場主義を(コースの定理を?)至上に信奉すれば、これも中長期的には調整されるだろうという楽観もアリだが、日本経済と日本社会がその前に滅びるかも知れない。それはそれであり得る選択肢かも知れないが(*23)、それを避けたいのであれば、やはり政策による誘導が必要になる。
最賃法や労基法等による労働市場への直接介入が耳目を集めがちだが、自分としてはやや消極的な見解を持っている(*24)。労働市場の硬直化を招きかねない(*25)し、執行コストも高いだろう。
むしろ、労働への分配に対する税制優遇などのインセンティヴ策のほうが効果があるのではないか。

決定の非対称性。
経営側が一方的に労働条件を決定できることが、労働側にコストが押し付けられる原因となっている。
従って労働条件の決定に労働者の意見を、故に組合の活性化を、というのがよくある思考の流れだが、(でそういう意見をやはり否定はしないが、)やはり上策とは思わない。この状況を経営側から見れば、労働側が何か言ってくるのはノイズにしか聞こえない。「労働者の意見を聞かないとはケシカラン」というのは情緒的な批判に過ぎるし、だから法規制をと言っても、執行コストの問題もあるし、経営側からすれば法規制を最低限クリアすればいいや(*26)、ということになる。

政策を考えるなら、労働者の利益を守るのが経営上の利益になる、経営上の利益を追求すると労働者の利益になる策を採らざるを得ない仕組みを組むのが賢明だろう。
ちょっと巧い例ではないかも知れないが、ホワイトカラー・エグゼンプション。サービス残業等が問題ではないと言うつもりはない。が、あの時の議論が、導入範囲について年収800万以上だ、400万以上だと数字の線引きに集中したのは奇妙に思った。ホワエグの導入は義務ではなく経営判断に基づくのだから、だとすれば労働者と経営者の利害を一致させればよい。例えば、役員報酬平均の70%以上の年収の従業員に導入可、と。こうすると、ホワエグを導入したい経営者は、従業員の給与を上げるか、自らの報酬を下げるか、ということになる。

最初の話に戻れば、

そもそも、赤木論文へのリアクションが、具体的な政策論ではなく、「若者の恨み」云々と個人化/心理化した(上でそれを社会全体に拡張する)議論(社会論?)--これは「自己責任論」と対称形ではないのか?--に何故集中した/するのか、ということ自体、日本における公共的問題をめぐる討議と決定(無決定?)のあり方の特性に関する、興味深い問いだろう。(*27)(*28)

テーマ : 政治・経済・時事問題 - ジャンル : 政治・経済

03:23  |  日本社会  |  TB(3)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
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