アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する

アメリカ法を勉強している者が今考えていること、など。

【陪審】市民による量刑【裁判員】

予め断っておけば、自分は裁判員制度には賛成でも反対でもない。
反対論には与しないが、是非推進すべきという魅力も見えない。
ただ、アメリカの陪審制度は多少なりともウォッチしているので、その限りでは議論に貢献できる部分もある、かも知れない。
が、自分自身の態度が前述の通りなので、頑張って論を張ろうという気もなかなか起きないし、このブログでもこれまであまり触れてこなかった。今後もそうだろう。


ここでは一点のみ、記しておく。
裁判員制度が刑事司法を崩壊させる:NBonline(日経ビジネス オンライン)
「事件ごとに選挙人名簿から無作為で選ばれる裁判員と職業裁判官からなる合議体が、事実認定だけではなく、死刑を含む量刑判断まで行うという、世にも稀な国民の司法参加の制度」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20080819/168233/?P=3
アメリカの陪審制度が一般に罪責の認定のみを行い、量刑は裁判官の職掌、というのは基本的にはその通りである。
しかし、重大な但し書きを付す必要があると理解していて:
少数ではあるが、陪審が量刑を行う州もある。但し、少数だからこれはスルーしてもよいかも知れない。

より重大な留保として、2000年のApprendi判決を嚆矢とする連邦最高裁の一連の判例法(*1)は、量刑判断にかかわる事情につき、陪審の判断対象とする範囲を拡大していることである。すなわち、量刑を重くするための事情が陪審によって認定されていない場合、当該刑の宣告は陪審審理の機会を奪ったものとして違憲な手続となる。
特に、2003年のRing判決は、事実上、死刑を科すかどうかは陪審が決定しなければならない、という効果を持つ。(*2)

従って、非専門家が量刑に関わること、特に死刑判断を為すことを、「外国だってそんなことをしていない」と裁判員制度批判の論拠として使うことは適切ではない、と考えている。(*3)
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グルジア:ロシア = キューバ:アメリカ?

『コーカサス国際関係の十字路』
  • 『コーカサス国際関係の十字路』
  • 廣瀬陽子(著)
  • 集英社新書、2008年
  • ISBN=9784087204520
廣瀬さん、売れっ子だな。タイミングがタイミングだもんな。
日本でこの地域をきちんと分かっている人自体、数えるほどだろうしな。

本自体は未見なのだけれども
コーカサス国際関係の十字路 (集英社新書 452A) (集英社新書 452A) - MagiBlog! ver.5.0
「ロシアの陰がどこにでもちらつく、というかどこにでも出しゃばるというか、当たり前のようにコーカサスの紛争には顔を出す…。これは何もプーチン政権以降の話ではなく、エリツィン政権の頃からの話であるし、さらに言えばソ連時代やさらに昔の帝政ロシアからこの辺は、ロシアの裏庭であり続け、これからもそのようにモスクワが考えているのは明らかである。」
http://d.hatena.ne.jp/delunnehr/20080815/1218794786
この指摘は興味深かった。
というのも、「裏庭感」という形で事態を把握すると、状況はロシアの専売特許ではない。

(自分的にはまずアメリカを連想するわけだが、)アメリカのモンロー主義は、単なる外交的孤立主義ではない。
間違いなくワシントンにとって中南米・カリブ海は「裏庭」なのであって、実際、孤立主義外交であったとされる19世紀以来、軍事力の行使を含め継続的に介入している。
そうだとすればロシアにとってのグルジアというのも、「裏庭に気にくわない政権が存在する」という意味では、アメリカにとってのチリ・アジェンデ政権やカストロ・キューバ、最近ではベネズエラ・チャベス政権に比定されることになる。

もっとも「裏庭感」の例をさらに他に探すことも可能なはずで、例えば日本は早い段階で中国の勢力下から脱したが、ベトナムや韓国はもっと遅かったわけだし、現在で言えばチベットやウイグルがそれに当たるのだろう。

もっとも、「裏庭感」の根拠はそれぞれ異なるかも知れないが。例えばアメリカのモンロー主義的「西半球の自律性」観念は、多分に理念的なものだった(*1)
404 Blog Not Found:旧ソ連の今を知る - 書評 - 廣瀬陽子の二冊
「もちろん、これはロシアの専売特許じゃない。中国にだってあるし、多かれ少なかれどの国にもある「その土地はオレのもの」主義だが、ロシアと中国のそれはひときわ大きい。」
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51093390.html

自分は外交もIRもさっぱりなので、地政学の専門家の奥山真司氏のブログは勉強になるのだが、
地政学を英国で学ぶ : グルジア紛争とロシアの立場
「…一番大事な「恐怖」という要素…
ロシアは冷戦時代よりも厳しい「封じ込め」に合っていると感じ始めている…」
http://geopoli.exblog.jp/9314833/
この指摘は、引かれている地図と併せてロシアの受け止め方を簡潔に指摘している。
やはりこれをアメリカ史に連想させると、キューバ危機に似た感覚になるのであろうか。こちらのエントリのコメント欄では「まだ」なっていない、と評価されているが。

『強権と不安の超大国・ロシア』
  • 『強権と不安の超大国・ロシア−−旧ソ連諸国から見た「光と影」』
  • 廣瀬陽子(著)
  • 光文社新書、2008年
  • ISBN=9784334034399

【関連?】

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一般条項の溜息

この種の問題は、大御所の先生の書いた法学入門の教科書にさくっと書いてある気もしないではないが(汗)
もっとも、機関間の権限分配という視点(後述)はアメリカのリーガル・プロセス学派由来だから、一部を除きあまり日本では正面から取り入れられてはいないかも知れない。
リサーチが進んだわけではないので、解答へ前進しているわけではなく、主題の周りをぐるぐる回っているだけなのだが、若干の敷衍を。
一般条項の憂鬱 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
「現代日本法においては、一般条項の地位が低下しているのではないか」
http://izw134.blog74.fc2.com/blog-entry-245.html
前提的立場として、自分はcommon lawyerなので、裁判官による法創造に(規範評価として)楽観的である、との傾向は否定し得ないかも知れない。少なくともアメリカを参照して思考している時点でそのバイアスからは逃れ得ないし、なんだかんだ言って100%ではないにせよ、アメリカンなやり方は気に入っている(*1)

一般条項の同定基準

一般条項の地位低下? - if you cannot be friendly.
「民法90条のように、要件のすべてが不確定概念で構成されているというものだけでなく、要件の一部*2に不確定概念を含む条項まで含めて、「一般条項」を観念する*3場合…
*2:あるいは重要な一部、と言ったほうがよいかもしれない。
*3:もっとも、この際には、”要件のどれだけの部分が、あるいはどのような部分が、不確定概念で構成されていれば、「一般条項」といえるのか”という、難しい問題が生じてしまうのであるが。 」
http://d.hatena.ne.jp/kouteika/20080805/1217948289
基準といえるほどのものではやはりないのだが、考え方の方向性として;
話の出発点は、利益団体の政治活動がある状況下で、いずれの/如何なる機関に政策判断・規範形成のイニシアティヴを委ねるか、ということにある。従って、ここで問題にしている「一般条項」にあたるといえるかは、かかる政策判断・規範形成において(政府の他の部門ではなく)司法部がどの程度のleewayを有しているか、が評価のポイントとなる。

法規それ自体を眺めて、そこにおける不確定概念の位置付けで判断しようとすると、前記の機能的な把握には入ってこない場合もあろうと思われる。(*2)
例えば、「要件の一部が不確定概念を含む条項」の評価に当たっては、当該不確定概念に裁判所が具体的に中身を盛り込むことによって、どの程度、結論に差異が生じるか、がポイントとなる。(*3)
あるいは、法律(狭義)においては確定してはいない概念が使われているが、(政省令に委任されているわけではないにもかかわらず)通達等によって関連当事者の間では特定の意味がガチガチになっており、事実上、司法部がそれとは異なる判断を為し得ないとすれば、ここで問題にしたい「一般条項」ではない。(*4)

逆にこれは、裁判所の「裁量」として議論されてきた問題群とも、重なり合いつつも微妙に位相が異なる。
即ち、「裁判所の裁量」といってしまった場合、個別の事件毎のカズイスティックな(アド・ホックな、といってもよい)判断を連想してしまうが、そうではない。
確かに新規の事件類型に初めて遭遇した裁判所は「一般条項」の与える権限に依拠してその「裁量」を行使し一定の結論を下すであろうが、このようにして形成された規範は同種の事件類型にも適用されるであろうことが予定ないしは期待されている。(*5)(*6)(*7)

特別法/一般法

先のエントリでは「近時の立法では一般条項はあまり盛り込まれない」理由の仮説として、日本型官僚機構を挙げたのだが、ややフェアではなかったかな、という気がしてきた。
というのも、「近時」どのような立法が為されているのか、という視点が欠落していたからだ。
「どのような立法」といってもまだ抽象的な物言いなのだが、つまり民法90条をパラダイムとして想定した上で「そのようなものがないじゃないか」と言うのはフェアではない。
というのも、民法は一般法も一般法、一般法の親玉みたいな法規である。 他方、特別法の適用においては−−「一般法」「特別法」概念の定義上−−法規で特に排除されない限り、一般法の規定が適用される。つまり、特別法のほうに規定を設けなくとも、(少なくとも私法分野であれば)民法の一般条項−−例えば、公序良俗、信義則、権利濫用−−が適用されるのであって、従って特別法の立法の際にそのような条項を設ける必要はない。(*8)
実際、今回の話題の出発点である知財分野でも権利濫用は普通に議論の射程に入る。あるいは特別法上の請求とは別立ての、民法709条に基づく請求とか(*9)

しかしだからといって「近時の立法では一般条項はあまり盛り込まれないのではないか」という問いが無効となるものでもなくて、今回問題のフェアユースもそうであるし、
isologue - by 磯崎哲也事務所: 「ネット法」の発表で考えた、日本人と「フェア」概念
「別の領域の話になりますが、例えば米国のインサイダー取引規制は、「フェアでない取引をしてはいけない」ということを基本とする非常にコンパクトな法律の条文からスタートして、多くの判例の蓄積によって全体の体系が成立しているのに対し、日本ではこれが何十ページもの膨大な法令になってしまっています。
判例で決まっていても法律の条文で決まっていても同じようにも思えますが、判例は「case(ケース)」というくらいで、まさにあるケースではアンフェアと判断されたことと同じようなことでも状況が違えばフェアなこともありうるわけです。
ところが、条文で単に「子会社の解散は重要事実にあたる」と書いてあれば、その子会社の解散の発表前にその親会社の株式を売買したら、その取引が「フェア」であろうがなかろうが、それはインサイダー取引になっちゃうわけです。」
http://www.tez.com/blog/archives/001113.html
というような問題意識もある。特別法固有の領域で、アモルファスな概念を使って条文を起こし、より具体的な規範の生成は判例法に委ねる、という可能性は、意識的に検討に値する。(*10)

剣か盾か

もう一つ、裁判所による一般条項の活用に際して、当該条項が請求の基礎として機能するか、抗弁として提出されるかによって、大きく違ってくるであろう。
前者であれば、原告がある意味裁判所に強制的に判断を迫っているわけだが(*11)、抗弁として一般条項を持ち出すのは最後の手段ともいえる(*12)

【関連】

一般条項の憂鬱 - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
及びそこで参照のエントリ。
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一般条項の憂鬱

例によって調べ(られ)ないまま書く。


中山先生がフェアユースを導入する考えを固めた、らしいとのことだが(*1)
立法技術的に云々 - 雑種路線でいこう
「日本は大陸法だからフェアユースは難しいというのが定説と認識していたんだけど、やればできそうじゃん。これまでの議論は何だったのか。閣法と議員立法で敷居が違うので、議員立法でできるという議論なら一理あるが。専門性の高い領域でありがちなことではあるが、実装担当者の一存で、できたりできなかったりというのは如何なものか、と書いたが、著作権法の権威が翻意したから動いたのであって、担当者が情熱を持ったところで有識者の意見が保守的なら難しかったのだろう。」
http://d.hatena.ne.jp/mkusunok/20080729/law
まぁ、発生論的に言えば、そりゃ無理だ、というのが英米法ウォッチャーの感覚。
アメリカのフェアユースは元々判例法で、制定法に入ったのも判例法の条文化という位置付けになる。
日本の司法部に(*2)、そのイニシアティヴで条文にない判例法を創設・展開することを期待するのは難しい、とは言える。

しかし、機能論的に言えば、大陸法国でもできる。というか、昔からやっている。
権利者のロビー攻撃を受けない著作権政策、津田大介氏らが議論
「北海道大学教授でフェアユース採用の重要性を訴えている田村善之氏… 「…フェアかどうかの判断は裁判所で明らかになるが、司法はロビー攻撃への耐性が相対的に強い」」。
http://internet.watch.impress.co.jp/cda/event/2008/08/01/20459.html
ここで指摘されているのは、政策決定のフォーラムを司法部に移すべき、ということで、法技術的には、条文レベルでは抽象的な規定のみを置いておき、具体的な場面でどうなるかは事件になってから訴訟の中で裁判所で決めるというアプローチ。
iSummit2008(表バージョン)の話 - 天秤の館にて ~Thinking at the balance’s manor~
「確かに政治的ロビイイングの弊害は増しているという感覚を持っていた」(*3)
http://d.hatena.ne.jp/masays/20080802/p1
で、条文に書いてあるのは抽象的な規定だけ、その中身がどのようなものであるかは事件を待って初めて分かる、という規定はもちろん、一般条項と呼ばれて、昔から六法の中に書いてある。条文の中にはそういう規定があることは、法学部の一年生で習う。フェアユースを立法化するというのは一般条項を著作権法に書き込むことに他ならない。

従って、法理論・法技術の大枠のところから言えば、大陸法国でもフェアユース的な規範を持つことはできる。
だが;(ここから本題)
果たして、うまくworkするであろうか。
何故そのような疑問を呈するかというと、前述の通り一般条項なるもの自体は法学部の一年生でも知っているシロモノであるわけだが、現代日本法においては、一般条項の地位が低下しているのではないか、という感触があるからだ。

一般条項を書く

一般条項といってまず思い浮かべるのは民法90条なわけで、かなりクラシカルな規定なわけである。
最近の立法で一般条項らしい一般条項を思い出せない。
や、もちろん「最近の立法」を全部チェックしているわけでもないし(*4)(*5)、そもそもいずれの規定が「一般条項」に当たるかも相対的なものなのではあるが。
しかし、本当にそうか、近時の立法では一般条項はあまり盛り込まれないといえるか、という問いは検証するに値すると思う。

そしてもしその通りであれば、それは何故か、という問いが続く。
一般条項を置くということは権限を司法部に授権するということで、権力が起草者から適用者に委譲される、ということを意味する。
池田先生にいわせれば、「官僚が権力の源泉としようとしているからだ」ということになろうが、しかし規制立法が複雑怪奇な条文テクストに仕上がるのは別に日本のお家芸ではなく、アメリカでも同様である。従って、「大陸法だから」「英米法だから」という説明はあまり成功しているとは思わない。

もっとも、アメリカの膨大な弁護士人口は難解な条文テクストを読み解くに足る知識労働者を供給している。ついでに官僚機構自体の編成が違っていて、リボルビング・ドアとも揶揄される官僚の人員の機構外との出入りは、それぞれの政策領域において、外部の専門家との協働/一体性を生み出しているとも評価できる。官庁による独占的な構造はない。官僚制のあり方が違う。(*6)(*10)
さらにアメリカの状況を敷衍すれば、条文を書いているlawyerもかつては法廷に立ち、あるいはやがては法廷に立つことを想定しているのだとすれば、ある政策領域のある局面で司法部に決定の詳細を委ねるアプローチを採用するのに躊躇しない、というのも理解できる。

一般条項を使う

レベルの異なるまた別の問いは、一般条項を与えられた裁判官は、果たしてそれを活用できるだろうか、というものである。(*7)
最近は、一般条項の使い方が硬直的なのではなかろうか、先例で既に認められているものを越えて新たな適用類型を創設していくことに裁判所が制限的なのではなかろうか、という直観がある。

それを感じたのが、昔、消費者契約法ができた頃に調べ物をしていた時で、どの文献を見ても「民法上の救済が不十分だから」というのが枕詞になっている。錯誤では、詐欺では、強迫では対応できないから、って、何故対応できないのー?概念を再構成して新たな適用をして判例法を発展させていってもいいじゃん、とcommon lawyerは思うわけである。

もちろん、先と同様、これは本当にそうか、というのは検証してみないといけない。(自分は日本法ウォッチャーではないから、偶々視界に入ったものしか見ていない。)

もし本当にそうだとすれば、やはり、それは何故か、という問いが成り立つ。裁判官が(かつてに比べると?)先例がある場合に拘り、条文と事案を虚心坦懐に眺めて大胆な判断をすることが(少)なくなっているとすれば、何故か。

一つは法曹(養成)制度に要因があるのかな、とは思っている。司法試験(LS含む)で勉強する実定法は当然判例を含むわけで、そしてそれを問われる養成課程で優秀な人物が裁判官になるわけである。そういう感覚からすれば、(例えば)民法90条の規範的内容というのは民法90条の判例が指し示すもの、なわけである。で、その範囲を踏み越えようとはしない。

もっとも、これは権力を行使する官職(Amt)の保持者として、健全な感覚でもある、とも思う。裁判官がその職務の正当性/正統性を「法の適用」に求めるのであるとすれば、その範囲を踏み越えようとしないことは、自らの権力についてsensitiveな態度を示すものでもある。(*8)

しかし他方、日本は法理論の形式的には先例拘束性がないといいつつ、事実上の先例拘束性は強いともいわれるわけである。
英米法系の判例法主義はしばしば(英語の文献でも)「=先例拘束性」として把握されるが、私見によればこれは片手落ちである。判例を創出し、判例法を展開させるcommon law powerと、先例拘束性が合わさって、初めて判例法主義が機能する。

条文だけを考える場合と、判例も考慮に入れる場合とでは、後者のほうが当然に規範の分量が多く、領域当たりの密度も濃い。要するに、より、ガチガチに固まっている。そういう状況で、先例拘束性だけを使って思考すれば、「もう決まっちゃてるねー。仕方ないねー」としか言いようがなくなってしまうのも道理である。

ここで必要なのは、先例を操作し、区別し、必要に応じて条文それ自体とその「精神」に立ち返ることであり、それなくして一般条項が機能することはなかろう、と思うわけである。(*9)
【2008/08/07 20:37 追記】
うわ、「一般条項」と「一般規定」がごちゃ混ぜになってる。みったぐない(>_<)
ので修正しました。
が、恥を保存するのも大事なので、コメントアウトだけでソースには残っています。
他にtypoを若干。

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米国型違憲審査制についての覚え書き - アメリカ発祥の地でアメリカ法を思考する
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思い出の 事件を裁く 最高裁

そんな川柳があるが、裁判に時間がかかるのは日本の専売特許ではない。


エクソン社のタンカー・バルデス(Valdez)号がアラスカ沖合で座礁し、、大量の原油が流出した事故、原油に塗れた海鳥の映像は世界中に流され、その後も大規模環境破壊の象徴であった。
1989年、もう20年近く前になってしまった。直接に覚えているのも20代後半以降だろう。
アメリカ法では、典型的な大規模環境汚染事故として、数多くの論文で言及される、環境法、不法行為法のパラダイム事例でもある。
そんな事件が今開廷期、連邦最高裁に到達している。
Exxon Shipping Co. v. Baker, 128 S. Ct. 2605 (2008)
available at
http://www.supremecourtus.gov/opinions/07pdf/07-219.pdf.
大規模かつ長期間の紛争であるからlegal actions(*1)も錯綜している。その過程でエクソンは諸々の汚染除去費用、罰金・課徴金・和解金等を負担している。
差し当たって最高裁へ上がってきた争点は、漁民・先住民・土地所有者を原告とするクラス・アクションにおいて、被告エクソン側は懲罰的賠償を命じられることありうべしか、あり得るととして額はどうか。
トライアルで陪審に認定された填補賠償額は2億8700万ドル(*2)。これに対して懲罰的賠償は、船長個人に対して5000ドル、エクソン社に対して50億ドル(*3)

Alitoがエクソンの株式を保有していたことから審理に参加せず、8人の裁判官が4:4に分かれて最高裁の判断がなくして下級審の判断が確定する可能性があった。
結論についてはそのようなことはなく法廷意見が構成されたが、一部の論点について4:4に分かれた。
法廷意見はSouter執筆。

代位責任と懲罰的賠償

本件では、船長がアルコール依存症で、問題の事故の際も危険な海域であったにもかかわらず酔っ払って自室に引き籠もっていたことが特に問題視されたわけだが、それでは果たしてそうしたエージェント(代理人)の行為についてプリンシパル(本人)たるエクソン社は懲罰的賠償の責任を負うか。

この論点が最高裁の意見が構成されなかった部分であり、同数で分かれたので、下級審の結論をそのまま維持して=エクソン社はかかる責任を追うものとして検討を進めている。但し、この部分に判例としての先例性はない。

と書かれている法廷意見(の部分)に全員が同調しているので、果たしてどのような意見構成で4:4に分かれたのかは明らかでない。
「控訴審までの判断を維持」という補助線を引くと、そのような立場は後の論点で反対意見に回ったStevens、Ginsburg、Breyerだから、彼らが「エクソン社責任あり」に投票したと仮定。もう1票だから、それは多分書いた本人だろうと、Souterと推定して4:4。…いつものブロック分けで面白くない。

CWAと懲罰的賠償

次の論点は、水質汚濁を規制する連邦清浄水法(Clean Water Act)が、コモン・ロー上の懲罰的賠償を専占するか(*4)。最高裁の判断はCWAをそのように解釈できないというもので、この部分も全員一致。

懲罰的賠償の額

最後の論点が懲罰的賠償の額に対する規制の部分で、一番注目される所。そして5:3で意見が分かれた点でもある。
但し、裁判所のこの部分の判断は海事法に関する連邦裁判所のコモン・ロー権限に基づくものであって、これまで主に争われていた州不法行為法等に基づく懲罰的賠償に対して連邦憲法の立場から介入していくという事件類型とは異なる(*5)。もっとも、懲罰的賠償一般についての認識を示していると読める判示もあり、また部分的にはデュー・プロセスに基づく判例も参照しており、繊細な取り扱いが要求されるだろう(*6)。IV.A-Eは懲罰的賠償制度を歴史及び比較法を含めて概観しており、今後しばしば引用されることになるものと思われる…つーか、「お前はオレか」って感じのまとめ方(*7)なんですが(笑)

さて、この部分の判示のコアはIV.Fになってようやっと出てくる。
言語的定式化はダメだ、固定的な額の上限は定められないとした上で、填補賠償額を基準とするとする。
では填補賠償の何倍にするか。3倍という州がやや多いが、本件のような"worse than negligent but less than malicious"な事件にはうまく当てはまらない。
2倍…連邦や州の制定法でそのようなものが定められている場合とは大分異なる。
というわけで、陪審による懲罰的賠償の裁定の中央値が填補賠償額の0.65倍弱であるとの実証研究に依拠して、「このぐらいでいいよね」と1倍=填補賠償額と同額、でラインを引いた。

Stevens、Ginsburg、Breyerがそれぞれ反対意見を著している。形式上は相互に同調してはいないが、論旨は共通するものがある:
・確かに裁判所は海事法に関するコモン・ローを持っているかも知れないけど、そんな線引きは議会に任せたほうがいいんじゃね、というのと;
・1倍ルールは硬直的過ぎだろ。裁量の濫用さえチェックすれば十分だろ、という点。


「懲罰的賠償は填補賠償と同額まで」という、非常に明快なルールを宣明してみせた訳だが、とにかく「エイヤッ」と線を引くことが優先されて実質的な理由付けは弱いとも思われるし、
Damages Cut Against Exxon in Valdez Case - NYTimes.com
By ADAM LIPTAK
Published: June 26, 2008
"The decision may have broad implications for limits on punitive damages generally."
http://www.nytimes.com/2008/06/26/washington/26punitive.html?ex=1215316800&en=98d7a1adf73586ca&ei=5070&emc=eta1
果たしてこの判示が懲罰的賠償一般に広がっていくか、逆に言えば本件の射程はどの程度かは、かなり不安定、と読む。

射程を広い方向に読んでいけば、
  • 海事法一般
  • 連邦法上の懲罰的賠償一般
  • 連邦憲法のデュー・プロセス条項を経由して州法についても
とまで包含していく可能性があるが、逆に限定的に読んでいけば、海事事件でかつ
  • 代位責任の場合のみ。
  • 環境汚染事件のみ。衝突等、他の事件類型は含まない。
  • 故意がない等、非難可能性が高くない場合のみ。故意・重過失の場合は含まない。
  • 隠蔽工作等がない場合のみ。
  • 他にsubstantiveな額の刑事罰金・行政課徴金を支払っている場合のみ。
  • 填補賠償額が高額な場合のみ。(*8)
といった絞り込みをかけていく余地もある。
実際、法廷意見の判旨もそのように読める箇所がある。
"... [A]wards at the median or lower would roughly express jurors' sense of reasonable penalties in cases with no earmarks of exceptional blameworthiness within the punishable spectrum (cases like this one, without intentional or malicious conduct, and without behavior driven primarily by desire for gain, for example) and cases (again like this one) without the modest economic harm or odds of detection that have opened the door to higher awards...
... [A] 1:1 ratio ... is a fair upper limit in such maritime cases."
Exxon Shipping Co., at 40 (emphasis added).
他にも、本件の事案においてExxon側の行動が取り立ててblameworthyというほどではない、という事情が繰り返し摘示されてそれに依拠して判旨が組み立てられている。
「1倍」というのは一人歩きし易い数字だが、本件の事情の下においての線引きだとして、案外、事情判決的に読まれていく余地もあるのではなかろうか。

射程が不安定だろうと読むもう一つの根拠は、裁判官の意見の分かれ方。
Gore判決を中心とする懲罰的賠償の憲法的規制に関する一連の判例法とは、裁判官の意見の構成が異なり、入り組んでいる。
デュー・プロセス関連事件
規制積極 規制消極
本件 規制積極 Roberts(?)(*9)
Kennedy
Souter
Scalia
Thomas
規制消極 Stevens(*10)
Breyer
Stevens(*10)
Ginsburg
憲法的規制では消極派のScalia、Thomasが本件では法廷意見に同調し(*11)、積極派のBreyereが反対意見に回っている。
これは本件が海事事件=連邦コモン・ローの事件であることから来る。
このことも、射程は案外短いのではないか、という根拠。少なくとも、海事事件以外への影響は小さい、と読む。
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